第一章 緋方一族

 まつりが近づくと、村中が何だか慌ただしくなってくる。

 けれどもそれは、いらいらする慌ただしさじゃなくて、うきうきしてとてもじっとしてなんかいられない、そんな感じだ。

 村の、南の広場のまわりでは、大勢の男衆が忙しそうに働いていた。変に気を遣わせると悪いので、少し離れたところで眺めていたのだけれど。

「あー、深雪みゆきさまだ」

「深雪さまだあ」

 私の後ろで子供たちが大声を上げたものだから、結局全員振り返ってしまった。

「おや、深雪さま。様子を見にいらしたんですかい」

 男衆の一人が、汗をふきふき話しかけてきた。まだ五月の半ばだというのに、みな汗びっしょりだ。

「別に、そういうわけでもないんだけど。大変そうね?」

「そりゃまあ、まつりまであと二週間しかありませんでなあ」

「お岩さまのまわりも綺麗にせないかんし、祭壇も組まんと。仕事山積みですわ」

 そう言いつつも、嫌そうな表情は誰一人していない。まつりの気配に心が浮き立っているのは、私だけではないのだろう。

「けど、深雪さまのほうこそ今はいろいろ大変でっしゃろ。特に今年は」

「そりゃあ、まつりまであと二週間しかないもの」

 答えてから、それがさっき男衆の一人が言ったのと全く同じ言葉だと気がついた。一瞬みんなで顔を見合わせたあと、一斉に笑い出す。

「深雪さまー、こっちこっち」

 子供たちが私の着物の袖を引っ張った。

「お岩さまのまわりにね、綺麗なお花が咲いてたの。なのに父ちゃんたち、全部抜くって言うんだよ。ひどいでしょ?」

「ほら、早くしないとなくなっちゃうよー」

「はいはい」

 お岩さま、というのは、広場の中心にある岩のことだ。本当はもっといかめしい名前がついているのだけれど、そちらで呼ぶのは私の家の者くらいで、ほとんどの村人はお岩さまと呼んでいた。高さは私の背丈の三倍くらい、まわりは男衆が五人手をつないでやっと囲めるくらいの大きな岩で、上の方にこれも大きな注連縄しめなわがかかっている。まつりは、広場のこの岩の前で行われるのだ。

 広場の中は大分草むしりが済んだみたいだったけれど、岩のまわりだけはまだ少し緑が残っていた。そこに、子供たちは私を引っ張っていく。

「あーっ、うそー」

「しぼんじゃってるー」

 子供たちが悲しそうな声を上げた。

「どうしてー? 昨日まで咲いてたのにー」

「せっかく深雪さまに見せてあげようと思ったのにー」

「そんなに綺麗だったの?」

「うん。すっごく、すっごく綺麗だった」

 ひどく残念そうに、その子は言った。

「ねえ深雪さま、何でお花はしぼんじゃうのかなあ? どうして、ずっと咲いててくれないの?」

「そうねえ。でも……」

 私が答えを返そうとしたとき、

「こらおめえら。深雪さまはお忙しいんだ。そんくらいにしとけ」

 男衆の雷が落ち、子供たちはわあっと叫んで散り散りになった。私はくすっと笑い、

「お花は、また来年ね」

 子供たちに手を振って、また歩き出す。

 五月の声を聞くと、家を飛び出して森の中をさまよいたくなる。村を北から南に流れる瑠璃川るりがわに沿ってさかのぼっていくと、そこにはあめの大滝と、それをとりまく風の森が広がっている。四方を山と森に囲まれたこの大滝村おおたきむらの中でも、私の一番大好きな場所だ。

 今はさすがに森へ遊びに行っているほどの暇はないけれど、それでも梢を吹き抜けてきた風が、新緑の匂いを村にまで運んできてくれる。その風を胸いっぱいに吸いこむと、私の心の中に、一瞬にしてあの日のあの光景が浮かび上がるのだ。

 緑にきらめく葉。鏡のように澄んだ水。

 そして、黒い、黒い――

「おい、深雪。お前、こんなところで油売ってていいのか」

 からかうような調子に我に返ると、あまり会いたくない人物が目の前に立っていた。

「――たけし

 村長むらおさの大滝どのの三男の、威。私より三つ歳上で、小さい頃から何かとちょっかいをかけてくる。よく美音みねさんが、私と威の口げんかを止めるのに苦労していたものだ。

「今日は一人なんだな」

「悪い?」

 そっけなく私は答えた。威なんかと話していると、せっかくの気分が台無しになる。

「そういやお前、さっき瑞穂みずほどのが……」

「どうしてお姉さまは『瑞穂どの』で、私は『おい、深雪』なのよ」

 話したくはなかったのだが、あまりの態度の違いに思わず言い返した。

「いいから聞け。瑞穂どのが、さっき緋方ひがた屋敷のほうに登っていってたぞ。もしかして今日、何かあるんじゃないのか」

「……え?」

 私はその言葉の意味に気づき、固まった。

「……うそ……もう、そんな時間……?」

「深雪さま?」

 威と一緒にいた男衆が、不思議そうに問いかける。

「……今日は、午後からまつりの衣装合わせが……」

「馬鹿か、お前は」

 その物言いにむっとはしたけれど、今はそんなことに関わっている場合ではない。私は慌てて走り出す。

「まあ、深雪さまらしいと言えば深雪さまらしいわなあ……」

 後ろで、男衆が苦笑している。

「全く、あんなんで本当に歌媛うたひめさまが務まるのかよ」

 威の言葉は、走り去る私の耳にもしっかり届いていた。

(あとで覚えてらっしゃい、威)

 内心そうつぶやきながら、私は家のほうを見上げる。

 村の家々の屋根の上には、段々畑とそれを潤す瑠璃川が見え、その奥に私の家が小さくのぞいている。そのさらに上には、天の大滝へと続く森と、五月の大滝村の青い空がどこまでもどこまでも続いていた。


   ◇


 大滝村に住む者なら誰でも知っている、一つのお話がある。

 それは、昔、むかしの物語。

 いつ、とはっきり言えないほど、むかしのこと――。

 このあたりを、セイケイ・ヒキと呼ばれる二匹の妖怪が荒らしまわっていたという。

 あるとき、そのヒキが大滝村を襲い、妖怪を鎮めるために、一人の少女が生贄として選ばれた。

 ヒキの面前に進み出たとき、少女はこう言ったという。

「最後に、歌を歌わせてください」

 少女の美しい声が、不思議な旋律を歌い上げる。

 その瞬間、急に雷鳴がとどろき、地が裂けてヒキを呑み込んだ。

 さらに雷に打たれた山が崩れ、大きな岩が裂け目をふさいだのだ。

 ――そのときの岩が、現在村の南の広場に祭られている、封魔岩ふうまがんだと言われている。

 そして、十年に一度岩の前に祭壇を築き、伝説の歌女うための血を引く一族の中から選ばれた歌媛が、伝説の歌を歌って封印をかけなおすのだ。

 その一族は、緋方、と呼ばれている。

 今年は、十年に一度のうたまつりの年。

 今年の歌媛に選ばれたのは、緋方の次女、深雪――つまり、私だった。


   ◇


「まあ、深雪さま! どこに行ってらしたんですか!?」

 私の姿を見つけた美音さんが、上から大声で叫んだ。

静乃しずのさま、、ものすごく怒ってらっしゃいますわよ」

「……でしょうね。予想はしてたわ……」

「そんなこと言ってる場合ですか」

 全力で走ってきて息の切れている私に、たたみかけるように美音さんは言う。

 美音さんは私と三つしか違わないのだけれど、私のお守り役を自任しているらしく、昔からとにかくあれこれ私の世話を焼く。もともとは美音さんのお母さんが私の家で働いていて、その関係でよく出入りしていたのだけれど、今では美音さんが代わって家の雑用を一手に引き受けていた。

「ほらほら、急がないと静乃さまのご機嫌がもっと悪くなってしまいますわよ」

「……今更少しばかり急いだって、事態はあまり変わらないような気もするけど……」

 それでも、美音さんに背中を押されるようにしてお母さまの部屋へ急ぐと、

「どこに行っていたのですか、深雪」

 ――予想どおり、これ以上ないというくらいに険しい顔をなさったお母さまが、座って待っておられた。

「今日は、まつりの衣装合わせをすると、前から言っておいたでしょう」

「――ごめんなさい」

 大人しく私は謝った。

「忘れてたわけじゃないのよ。ううん、その逆。とうとう来たんだなあって思ったら、何だかどきどきしてきちゃって、じっとしていられなくって。それで、ちょっと散歩に出たつもりだったの。なんだけどね……」

「深雪」

「――はい」

 お母さまのこういう名前の呼び方は、そのあとが怖い。声高に怒ったりはなさらないのだけれど、お母さまの物腰にはこちらを緊張させる雰囲気があるのだ。一瞬にして私は黙り込む。

 お母さま、緋方静乃は緋方家の現当主だ。緋方は村の政治とは別次元のところに存在するので滅多にそんなことはなさらないが、お母さまがその気になれば、たとえ村長の大滝どのでも逆らうことはできない。それくらいの権威が、緋方にはある。

 けれども、自分でもわかってはいるのだけれど、そんな緋方の娘としては私は少々頼りなく、お母さまの頭痛の種なのだ。

「全く、どうしてそうあなたはいつまでも幼いのでしょうね。いったい自分をいくつだと思っているのですか」

「十九、です」

 私はおずおずと答えた。

「前のうたまつりのとき、瑞穂は十四だったけれど、今のあなたよりずっとしっかりしていましたよ」

 お母さまはさらに何か言おうとなさったけれども、

「お母さま。深雪、帰ってきたんですの?」

 そのとき、瑞穂お姉さまが顔を出された。

「ああ、瑞穂。あなたもすっかり待たせてしまいましたね」

「待ったというほどではありませんわ」

 お母さまにそう返したあと、私を見てくすっと笑う。どうやら、私がお説教されているのがわかって、助け船を出しに来てくださったらしい。

(お姉さま……!)

 お姉さまのこういうところが、私は大好きだ。

 村で一番お綺麗な、私の自慢のお姉さま。それでいて少しも偉ぶったところがなくて、いつもゆったりと笑っていらっしゃる。そして、さりげなくやさしい。

 お姉さまは私より五歳上で、前回の歌媛を努められた方だ。四年前に結婚なさって、今は下の村のほうで暮らしておられる。誰にでもわけへだてなくやさしい瑞穂お姉さまは、お母さまとは違った形で、村中の人々の尊敬を集めていらした。

 緋方は女系の一族だ。その当主の座は、基本的に母から長女へと譲られる。そういう意味では私は多少気楽な立場にいるわけで、お母さまもある程度までは、私の行動を多目に見てくださってきた。

 けれどもお姉さまが結婚なさって、屋敷にいるのが私だけになったせいか、最近お母さまは前より厳しくなられたように思う。もっとも、お姉さまはもともと叱られるようなことはほとんどなかったのだけれど。

「あなたは、緋方の娘なのですよ」

「緋方の家に生まれた女には、緋方としての責任があるのです」

 耳が痛くなるくらいに言われたけれど、正直、それほどの実感はなかった。

 緋方の娘は、十代で迎えるまつりのときに初めて、緋方としての役割を果たす。それまでは一人前とは思われていない。

 前回、お姉さまが十四で成人の仲間入りをされたとき、私はまだ九つだった。あれから十年。とうとう、その日がやってきたのだ。

 今日、私は、正真正銘の緋方となる。

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