あれは、十年前の、今日のことだった。

 瑞穂お姉さまの、衣装合わせの日。

 そして――


   ◇


「う……わあっ!!」

 私は思わず声を上げた。「お姉さま、綺麗……」

「ありがとう」

 少し照れたように微笑みながら、瑞穂お姉さまはおっしゃった。

 雪のように真っ白な衣。

 そして、目の覚めるように鮮やかな、緋色の袴。

 この村で、緋方だけに許された色、緋方だけが身につけることのできる衣装。

 その衣装をまとわれたお姉さまは、いつもにもましてお綺麗だった。

「いいなあ、お姉さま。私も着たいなあ」

「十年経ったら、あなたも着られるわ。この次のまつりで歌媛を務めるのは、間違いなくあなたでしょうし」

 そしてお姉さまは、うたまつりの当日はその上にさらに歌媛だけの特別な衣装をまとうのだと、教えてくださる。

「私は、深雪のほうがきっと似合うと思うわよ」

「そんな、お姉さまにかないっこないわ」

 そう言いながらも私は、十年後の自分の姿を心に描いてみる。

 十年経ったら、私は十九。歌媛としては遅いほうだけれども、まだ巫女装束の似合う年頃ではある。お姉さまのように、とはいかなくても、少しは綺麗になっているかしら。

「支度はできましたか、瑞穂」

 お母さまが、お姉さまを部屋まで呼びにいらした。そう言えば、お母さまの緋の袴姿を見るのも初めてだ。

「深雪。瑞穂の邪魔をしてはだめでしょう」

「ひどいわ、お母さま。私、邪魔なんかしていない。少し見せていただいていただけよ。だってお姉さま、すごく綺麗なんだもの!」

「――今日は大切な日なのですよ、深雪」

 お母さまの声の調子がいつもと違うのに気づいて、私は口をつぐんだ。いつもの、単に私を注意なさるのとは、何かが違う。

「これから、お母さまと瑞穂は、大切な話があります。その間あなたは、やしろに近づいてはなりません」

「長くなるの?」

 私は、少し淋しそうにたずねた。今日は美音みねさんも遊びに来ていないし、私一人で家の中に取り残されてしまう。

「そうですねえ……」

 お母さまは考え考えおっしゃった。

夕餉ゆうげまでに帰ってくると、約束しますか。それならば、森へ行くことを許しましょう」

「――本当? 行ってもいいの?」

 私は目を見張った。この前、森を歩くのに夢中になって帰ってくるのが遅れてから、一週間ほど行くのを止められていたのだ。

「約束できるなら、ですよ」

「できるわ。ちゃんと帰ります。本当に行ってもいいのね?」

「わかりました。行きなさい」

「行ってきます!」

 返事もそこそこに、私は飛び出した。今から夕餉の時間までだと、私の足では滝口まで行って帰ってくるのがやっと。ぐずぐずなんてしていられない。

 家のすぐ裏手から広がる森は、緋方の名にちなんであかの森と呼ばれている。村を北から南に流れる瑠璃川るりがわは、その緋の森から姿を現す。私はその流れとは逆に、森の中へと駆け込んだ。

 川沿いの道を走りながら、心はもう風の森の中にいる。あの花はまだ咲いているかしら。あの鳥のひなは、もう飛べるようになったかしら。頭で思うほどに足が速く動かないのが、ひどくもどかしい。

 瑠璃川のせせらぎに重なるように、遠くから水の落ちる音が聞こえてくる。滝壺のすぐそばまで来ると、その音は振動となって私を足元から揺らした。私は足を止め、上を見上げた。

 あめの大滝。

 ここから見上げると、その名の由来がわかる気がする。

 絶壁をほぼ垂直に流れ落ちる水。滝壺で弾けた飛沫しぶきが、雨のように私の身体を濡らす。

 滝の中ほどのところにはいつも虹がかかっていて、空をいっそう高く青く見せていた。

 実際には滝の高さはそれほどではない。子供の私でも、もっと小さい頃から滝口まで登り下りしている。もっとも時間はかかり、夕餉に間に合わなくてお母さまに怒られる原因にはなっているけれど。それでも、この滝口は、私の一番のお気に入りの場所だった。そこからは、この大滝村が全て見渡せるのだ。

 滝の両側は切り立った崖だ。滝口へ登るには、一度その崖をまわりこむように森の奥へ入って、またこちらへ戻ってこなければならない。けれども途中が見えない分、急に視界が開けた瞬間の幕が落とされたような鮮やかさには、思わず息を呑む。

 木々の隙間からかすかにのぞく青い空。突然森が切れて、目の前が青一色に染まる。まるで、空に投げ出されたかのように。

 天から強い風が吹き降りてきて、私をさらっていこうとする。滝の上のこのあたりが、昔から風の森と呼ばれているのだ。着物の袖が、ばたばたと音を立てる。眼下には、絵巻のように一面に広がる大滝村。私より低いところを飛ぶ鳥の姿が見える。

 その景色を見るたび、翼があればどんなにいいだろうと、私は思う。翼を広げて、この強い風に乗って、村の上を自由に飛べたなら――。

 けれども、今日はやはりいつもとは違う、特別な日だったのだろう。

 なぜなら、もう少しで森が切れるというそのとき。

(――何?)

 木々の向こうに、何か黒いものが揺れている。まるで、私を招くかのように。吸い寄せられるように、そちらへ歩いていく。

 無意識のうちに、息を殺していた。一歩一歩、音を立てないように歩く。早まる鼓動。森の一番外側の木に両手をかけて、そっと顔を出す。

 そこには、夢のような光景があった。

 一面の青の中、妙に鮮やかな一つの影。滝口の、私でもそこまで行ったことのない崖っぷちの岩の上に、一人の男の人がたたずんでいた。

 私を招いた、長い、長い黒髪。風の中で踊るその髪の動きが、私の目にはっきりと風を見せる。

(この人は、風を身にまとっている)

 そんな、気がした。

 上から太陽が、輝く腕を伸ばす。森も、その腕の中にすっぽりと包まれる。きらきら、きらきら、森中の木の葉が輝く。小川の水が輝く。風が輝く。風になびく髪が輝く。あふれんばかりの輝きが、その人を包んでいる。

 あまりの美しさに、思わずほうっとため息をつきそうになったとき。

 そのとき、その人がわずかに身体の向きを変えて、横顔が私の目に入った。

 深い目をした人だった。

 空をそのまま映したような、深い、深い目をしていた。

 そして、光の似合わない人だった。

 光の環の中で、その人だけが暗く沈んでいた。

 ――そして、とても淋しそうな人だった。

 見ている私までもが悲しくなるような、そんな、そんな……。

 何がそんなに淋しいのですか?

 私では力になれませんか?

 そう、問いかけたかった。

 けれども、できなかった。

 その人の背中ははかりしれない哀しみに満ちていて、私なんかの言葉では到底癒せそうになかったから。

 だから、私は黙って見つめることしかできなかった。

 絶え間なく落ちる滝の音が下のほうから、もっと奥のほうから、私の中に響いてくる。けれどもいつしかその音も、すうっと後ろへ引いていく。

 何も、聞こえなくなる――


   ◇


 自分ではよく覚えていないが、その日私は夢でも見ているかのようにぼうっとした足取りで、帰ってきたのだという。

 おかげで、約束の時間にはまた間に合わなかったのだけれども、私の様子を見たお母さまが叱るというよりむしろ心配なさったとかで、遅れたことはほとんど問題にならなかったらしい。もっとも、結果としてまたしても森に行くのを止められてしまったのは、変わりないのだけれど。

 次にその場所へ行くことができたのは半月以上先、まつりの終わったあとだった。そのときには、滝口にはその人の姿はなかった。滝口だけでなく、風の森にも、緋の森にも。

 はっきり意識していたわけではない。けれども、私はあの人を捜していたのだと思う。会ってどうしようとか考えていたわけではないけれど、あの光景が、淋しそうな横顔が瞳に焼きついて、離れなかった――。

 今では、自分でも、あれは本当に夢だったんじゃないかと、思う。

 あの日の森と風が、九つの子供だった私に見せた、幻。風の精のようなものだったんじゃないかしら?

 でもそれなら、あの光の中で、どうしてあの人はあんなに淋しげだったのだろう。

 あれが幻だというなら、なぜ森と風は、あんなに切ない幻を私に見せたのだろう――。

 あれから十年の歳月が流れ、私は十九になった。

 もし、もう一度あの人に会うことができたなら、今の私ならどうするだろう。

 あのときのように、黙って見つめることしかできないのか、それとも……。


「支度はできましたか、深雪」

 お母さまが、部屋の外から私を呼んだ。さっきまで普通の着物だったお母さまも、いつのまにか着替えておられる。

「――はい」

 私は立ち上がった。

 鏡の中には、緋方の緋い袴を身につけた私が、立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る