緋方屋敷の裏手、あかの森の中には、小さなやしろがある。

 お姉さまに手伝っていただいて緋の袴に着替えたあと、私とお母さまは、男子禁制のその社に向かった。

 昼間でも、森の中の社は薄暗い。冷たい板張りの床に、お母さまと向かい合って正座する。

 そして、お母さまが口を開くのを、神妙な面持ちで、待つ。

「――時の経つのは、早いものですね」

 第一声は、意外に穏やかだった。

「前回のまつりから、はや十年。瑞穂が歌媛を務めたのが、昨日のことのように思えますよ。もう、深雪が歌媛を務められる歳になったのですね」

 こうやって穏やかに微笑んでいらっしゃると、やはりその表情は、お姉さまによく似ている。けれどもお母さまは、そんな表情をしていることが少ない。今も、すっと顔を引き締め、

「あなたに、大切な話があります。まつりのこと、そして、私たち緋方について」

 静かな、けれども強さの感じられる声で、おっしゃった。

「うたまつりの起こりは、知っていますね」

「もちろんよ」

 小さい頃から、何度となく聞かされてきた話だ。言葉が、私の口をついて出た。

「セイケイとヒキという、二匹の妖怪がいたのでしょう? そのヒキのほうが大滝村を襲ったとき、我が緋方家のご先祖様が、歌で封印なさった。それ以来、十年ごとに南の広場でまつりを催すようになったのよね。この村に住む者なら、子供でも知っているわ」

「そのとおりです」

 お母さまはうなずいた。

「では、もう一匹はどうなったか、知っていますか」

「え?」

 思いがけない問いに、私は目を丸くした。けれども言われてみれば、確かに封印されたのはヒキだけなのだ。

 セイケイは、ヒキほどには血を好まぬ妖怪であったと言われている。ヒキが封印されてからはすっかりなりをひそめ、その後どこかの村がセイケイに襲われたとか言う話は、全くない。だから、セイケイが誰かに封印されたとか退治されたとかいった話も、考えてみればなかったのだった。

「よくはわからないけれど……どこかで、もう死んでいるんじゃなくて? だって、ずいぶん昔のことなのでしょう? 封印されたヒキのほうだって、とっくに……」

 封魔岩ふうまがん、村ではお岩さまと呼ばれる岩のまわりでは、大人たちは仕事に汗を流し、子供たちは笑いながら遊びまわっていた。かつてどんなことが起きたにせよ、今そこにあるのは平穏な村の生活だ。恐ろしい妖怪の気配など、みじんもない。

 まつりの起こりだって、誰でも知ってはいるけれど、ただのお話以上に思っている人はほとんどいないと思う。十年に一度しか聞けない珍しい歌と、そのあとのささやかなご馳走が楽しみな、平和なまつり。そう思ってみんな、その日が来るのを心待ちにしているのではないだろうか。

「だと、いいのですけれどね」

 けれども、低い、含みのあるお母さまの声は、その言葉の裏側にあるものを私に気づかせた。

「――生きて、いるの? ヒキは、今でも。あの岩の下で?」

「ええ」

 お母さまは私を見て言った。

「あなたが気づいていないのも、無理はありません。あれはうたまつりの年にしか目覚めることはないし、前回のまつりのときはあなたは幼かったから」

「ヒキが、目覚める……」

 つぶやいて、ぞっとした。

 自分の家のことだから、村人たちより多少真剣に受けとめていたけれど、遠い昔のお話だと思っていたのは、私も同じ。

 なのに突然、はるかな年月を越えて、古代の妖怪の姿が実感として私の前に立ち現れたのだ。

 うたまつり。

 十年に一度、封魔岩の前に祭壇を築き、伝説の歌を歌って封印をかけなおすまつり。

 封印を、かけなおす――。

「じゃ、じゃあ、うたまつりは、本当に……歌媛というのは……」

 いろいろな思いが渦巻いて、うまく言葉にならない。そんな私を見て、

「目覚めるとは言っても、ヒキが封印されていることに変わりはありません。かけなおすこと自体は、決して楽ではないけれども、できないことではないのですよ。私たち緋方は伝説の歌女うための血を引く一族であり、そしてあなたは、緋方の娘なのですから」

 諭すように、お母さまはおっしゃった。

 ――あなたは、緋方の娘なのですよ。

 今まで、耳が痛くなるくらいに聞かされた言葉。けれどもこれまでとは違って、その言葉は私の奥にまで、血の中にまで届いた。

 私は、緋方の娘なんた。そう思うと、少しだけど、気持ちも落ち着く。それを見てとったのか、

「よく、お聞きなさい、深雪」

 お母さまがそう言って、私の目をじっと見つめた。その声の硬さに、今までの話が前置きでしかなかったことを、私は悟った。部屋の中の空気が、ぴんと張りつめる。

「ヒキだけではありません。セイケイも、生きているのです」

「え」

 私は絶句した。

 宣告するように、お母さまは続ける。

「うたまつりの日、それは、私たち緋方一族とセイケイとの戦いの日でもあるのです」


「セイケイ……と、戦う?」

 どれくらい、時間が経ったろうか。いや本当は、ほとんど経っていなかったのかもしれない。

 真っ白になった頭で、ようやく私はそれだけを訊き返した。自分でも、間の抜けた声だと思った。

「そうです」

 お母さまの声が、とても遠くに聞こえる。

「どうして、戦うの?」

 自分の声も、とても遠くだ。ものすごく馬鹿なことを訊いているんだろうな、という気もするのだけど、それ以上考えが進まない。

「セイケイは、ヒキを甦らせようとしているのです。まつりを失敗させ、ヒキの封印を解こうと」

「ヒキの、封印を解く……?」

 封印を解く、ということは、かけなおすのを失敗させるということよね。封印をかけなおすのは歌媛で、今年の歌媛は私だから、つまり……。

「わ……たし? 私を、歌えないようにする……? つまり、私を襲って」

 そこで、私は我に返った。

 ぞっとするなどというものではない。体温が急激に下がったかのように、戦慄が全身を走り抜ける。多分、顔も青ざめていたろう。

「あなたには指一本触れさせません」

 きっぱりと、お母さまはおっしゃった。

「私と瑞穂、そして全ての緋方が、あなたとこの大滝村を守ります。一歩たりとも、セイケイを村の中にいれはしません。あなたはヒキを封印することだけに専念すればいいのです。もしも……」

 少し言いにくそうに、お母さまは言葉を切った。

「あってはならないことですが、もしもセイケイを村にいれてしまったとしても、先にヒキを封印してさえしまえば、私たちの勝ちです。セイケイに手出しはできません。十年間、次のうたまつりまでは」

「村の中に、入ったことがあるの……?」

「いいえ、一度も」

 お母さまは即答した。「そして、今回もこれからも、いれる気はありません」

 お母さまは、強い。静かな声の中に、力が感じられる。

 今までその正体を知らなかったけど、村長むらおさでさえ従わせる緋方の力は、このようにして形作られてきたのだろうか。

 ヒキと、そしてセイケイとの戦いの中で――。

「逆に言えば、封印に失敗すれば終わりだと言うことでもあります。さっきも言いましたが、封印は決して楽なことではありません。もし失敗すればヒキは甦り、何も知らぬ村人たちが襲われることになるでしょう」

 ――何も知らない、村人たち。

 十年に一度しかないうたまつりは、毎年行われる春や秋のまつりとは比べものにならないくらい、村人も楽しみにしている。十年に一度しか聞けない珍しい歌を聞くために、ほとんどの村人が南の広場に集まっていることだろう。

 もしそこで、ヒキが甦ったりしたら――?

「大変だわ、そんなことさせたら……」

 きっと、大勢の人が、死ぬ。

 そして大滝村は――壊滅する。

「させはしません。絶対に。そのために、私たち緋方はいるのです」

 毅然と、お母さまはおっしゃった。

「緋方の家に生まれた女には、緋方としての責任があります。私たちは、セイケイの野望を阻止し、この村を守らねばならないのです。それが、緋方一族に課せられた使命なのですから」

 緋方一族。

 伝説の歌女の血を引く一族、そして――。

「深雪。あなたも緋方一族の一人です」

 お母さまが私を見つめて言う。

 私を、私の中に流れる血を。

「うたまつりの成功は、歌媛であるあなたにかかっています。何としてもヒキを封印し、村を守り抜くこと。それが、あなたに課せられた役割なのです――できますね?」

 そう問われて、私は沈黙した。

『あなたは、緋方の娘なのですよ』

 あんなにうるさくお母さまがおっしゃったわけが、今ならわかる。

 できるのだろうか、私に? 十九になっても、お姉さまのようにしっかりしてなくて、お母さまに叱られてばっかりのこの私に?

 けれども、私を見つめるお母さまの目は、私を叱るときのあの目とは違った。

 私を、一人前の人間として見てくださっている―― 一人の、緋方の女として。

 私は目を閉じた。

 深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出すと、目を開ける。

「――はい」

 そして、かたく唇を結んだ。

 やらなければならない。

 できなくても、やらなければならない。

 それが、緋方の家に生まれた女の使命。

 伝説の歌女の血を引く者の――。

 私は、緋方家次女、深雪。

 きっと、やりとげてみせる。

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