三
緋方屋敷の裏手、
お姉さまに手伝っていただいて緋の袴に着替えたあと、私とお母さまは、男子禁制のその社に向かった。
昼間でも、森の中の社は薄暗い。冷たい板張りの床に、お母さまと向かい合って正座する。
そして、お母さまが口を開くのを、神妙な面持ちで、待つ。
「――時の経つのは、早いものですね」
第一声は、意外に穏やかだった。
「前回のまつりから、はや十年。瑞穂が歌媛を務めたのが、昨日のことのように思えますよ。もう、深雪が歌媛を務められる歳になったのですね」
こうやって穏やかに微笑んでいらっしゃると、やはりその表情は、お姉さまによく似ている。けれどもお母さまは、そんな表情をしていることが少ない。今も、すっと顔を引き締め、
「あなたに、大切な話があります。まつりのこと、そして、私たち緋方について」
静かな、けれども強さの感じられる声で、おっしゃった。
「うたまつりの起こりは、知っていますね」
「もちろんよ」
小さい頃から、何度となく聞かされてきた話だ。言葉が、私の口をついて出た。
「セイケイとヒキという、二匹の妖怪がいたのでしょう? そのヒキのほうが大滝村を襲ったとき、我が緋方家のご先祖様が、歌で封印なさった。それ以来、十年ごとに南の広場でまつりを催すようになったのよね。この村に住む者なら、子供でも知っているわ」
「そのとおりです」
お母さまはうなずいた。
「では、もう一匹はどうなったか、知っていますか」
「え?」
思いがけない問いに、私は目を丸くした。けれども言われてみれば、確かに封印されたのはヒキだけなのだ。
セイケイは、ヒキほどには血を好まぬ妖怪であったと言われている。ヒキが封印されてからはすっかりなりをひそめ、その後どこかの村がセイケイに襲われたとか言う話は、全くない。だから、セイケイが誰かに封印されたとか退治されたとかいった話も、考えてみればなかったのだった。
「よくはわからないけれど……どこかで、もう死んでいるんじゃなくて? だって、ずいぶん昔のことなのでしょう? 封印されたヒキのほうだって、とっくに……」
まつりの起こりだって、誰でも知ってはいるけれど、ただのお話以上に思っている人はほとんどいないと思う。十年に一度しか聞けない珍しい歌と、そのあとのささやかなご馳走が楽しみな、平和なまつり。そう思ってみんな、その日が来るのを心待ちにしているのではないだろうか。
「だと、いいのですけれどね」
けれども、低い、含みのあるお母さまの声は、その言葉の裏側にあるものを私に気づかせた。
「――生きて、いるの? ヒキは、今でも。あの岩の下で?」
「ええ」
お母さまは私を見て言った。
「あなたが気づいていないのも、無理はありません。あれはうたまつりの年にしか目覚めることはないし、前回のまつりのときはあなたは幼かったから」
「ヒキが、目覚める……」
つぶやいて、ぞっとした。
自分の家のことだから、村人たちより多少真剣に受けとめていたけれど、遠い昔のお話だと思っていたのは、私も同じ。
なのに突然、はるかな年月を越えて、古代の妖怪の姿が実感として私の前に立ち現れたのだ。
うたまつり。
十年に一度、封魔岩の前に祭壇を築き、伝説の歌を歌って封印をかけなおすまつり。
封印を、かけなおす――。
「じゃ、じゃあ、うたまつりは、本当に……歌媛というのは……」
いろいろな思いが渦巻いて、うまく言葉にならない。そんな私を見て、
「目覚めるとは言っても、ヒキが封印されていることに変わりはありません。かけなおすこと自体は、決して楽ではないけれども、できないことではないのですよ。私たち緋方は伝説の
諭すように、お母さまはおっしゃった。
――あなたは、緋方の娘なのですよ。
今まで、耳が痛くなるくらいに聞かされた言葉。けれどもこれまでとは違って、その言葉は私の奥にまで、血の中にまで届いた。
私は、緋方の娘なんた。そう思うと、少しだけど、気持ちも落ち着く。それを見てとったのか、
「よく、お聞きなさい、深雪」
お母さまがそう言って、私の目をじっと見つめた。その声の硬さに、今までの話が前置きでしかなかったことを、私は悟った。部屋の中の空気が、ぴんと張りつめる。
「ヒキだけではありません。セイケイも、生きているのです」
「え」
私は絶句した。
宣告するように、お母さまは続ける。
「うたまつりの日、それは、私たち緋方一族とセイケイとの戦いの日でもあるのです」
「セイケイ……と、戦う?」
どれくらい、時間が経ったろうか。いや本当は、ほとんど経っていなかったのかもしれない。
真っ白になった頭で、ようやく私はそれだけを訊き返した。自分でも、間の抜けた声だと思った。
「そうです」
お母さまの声が、とても遠くに聞こえる。
「どうして、戦うの?」
自分の声も、とても遠くだ。ものすごく馬鹿なことを訊いているんだろうな、という気もするのだけど、それ以上考えが進まない。
「セイケイは、ヒキを甦らせようとしているのです。まつりを失敗させ、ヒキの封印を解こうと」
「ヒキの、封印を解く……?」
封印を解く、ということは、かけなおすのを失敗させるということよね。封印をかけなおすのは歌媛で、今年の歌媛は私だから、つまり……。
「わ……たし? 私を、歌えないようにする……? つまり、私を襲って」
そこで、私は我に返った。
ぞっとするなどというものではない。体温が急激に下がったかのように、戦慄が全身を走り抜ける。多分、顔も青ざめていたろう。
「あなたには指一本触れさせません」
きっぱりと、お母さまはおっしゃった。
「私と瑞穂、そして全ての緋方が、あなたとこの大滝村を守ります。一歩たりとも、セイケイを村の中にいれはしません。あなたはヒキを封印することだけに専念すればいいのです。もしも……」
少し言いにくそうに、お母さまは言葉を切った。
「あってはならないことですが、もしもセイケイを村にいれてしまったとしても、先にヒキを封印してさえしまえば、私たちの勝ちです。セイケイに手出しはできません。十年間、次のうたまつりまでは」
「村の中に、入ったことがあるの……?」
「いいえ、一度も」
お母さまは即答した。「そして、今回もこれからも、いれる気はありません」
お母さまは、強い。静かな声の中に、力が感じられる。
今までその正体を知らなかったけど、
ヒキと、そしてセイケイとの戦いの中で――。
「逆に言えば、封印に失敗すれば終わりだと言うことでもあります。さっきも言いましたが、封印は決して楽なことではありません。もし失敗すればヒキは甦り、何も知らぬ村人たちが襲われることになるでしょう」
――何も知らない、村人たち。
十年に一度しかないうたまつりは、毎年行われる春や秋のまつりとは比べものにならないくらい、村人も楽しみにしている。十年に一度しか聞けない珍しい歌を聞くために、ほとんどの村人が南の広場に集まっていることだろう。
もしそこで、ヒキが甦ったりしたら――?
「大変だわ、そんなことさせたら……」
きっと、大勢の人が、死ぬ。
そして大滝村は――壊滅する。
「させはしません。絶対に。そのために、私たち緋方はいるのです」
毅然と、お母さまはおっしゃった。
「緋方の家に生まれた女には、緋方としての責任があります。私たちは、セイケイの野望を阻止し、この村を守らねばならないのです。それが、緋方一族に課せられた使命なのですから」
緋方一族。
伝説の歌女の血を引く一族、そして――。
「深雪。あなたも緋方一族の一人です」
お母さまが私を見つめて言う。
私を、私の中に流れる血を。
「うたまつりの成功は、歌媛であるあなたにかかっています。何としてもヒキを封印し、村を守り抜くこと。それが、あなたに課せられた役割なのです――できますね?」
そう問われて、私は沈黙した。
『あなたは、緋方の娘なのですよ』
あんなにうるさくお母さまがおっしゃったわけが、今ならわかる。
できるのだろうか、私に? 十九になっても、お姉さまのようにしっかりしてなくて、お母さまに叱られてばっかりのこの私に?
けれども、私を見つめるお母さまの目は、私を叱るときのあの目とは違った。
私を、一人前の人間として見てくださっている―― 一人の、緋方の女として。
私は目を閉じた。
深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出すと、目を開ける。
「――はい」
そして、かたく唇を結んだ。
やらなければならない。
できなくても、やらなければならない。
それが、緋方の家に生まれた女の使命。
伝説の歌女の血を引く者の――。
私は、緋方家次女、深雪。
きっと、やりとげてみせる。
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