第二章 風の森
一
夜明けは、もう間近だった。
閉め切った室内にいても、吹き込んでくる隙間風から、夜の匂いが薄れていくのがわかる。
私は歌うのをやめると、歩いていって社の扉を開けた。
森の中の
「綺麗……」
早起きは苦手だけれども、こうして夜明けを見ることができるのは、やっぱりいいなと思う。
私はしばらく、そのまま
思えば、緋方の血はいつも私のすぐ近くに息づいていたのだろう。気づかなかっただけで、間違いなく私はその中で育ってきたのだ。こうして一人でいろいろなことを考えていると、本当にそう思う。
お祖母さまから、お母さまから、お姉さまから。小さい頃、ずっと子守歌のように聞かせていただいてきた、歌があった。
言葉のない、旋律だけの歌。村の人たちが歌っている
「これは、緋方の家に伝わる特別な歌なのです。だから、特別なとき以外は人前では歌ってはなりません」
そのたびに、お母さまにそう注意された。
「特別なときって?」
「あなたが大きくなったら、教えましょう。歌の名前も、それから、その意味も」
そうおっしゃるときのお母さまの目には、単に注意なさるだけとは違う、真剣な色があった。
その、『特別な歌』のうちの一つが人前で歌われるのを聞いたのは、私が九つのときだった。村の南の広場の岩の前で、歌媛の装束を身につけられたお姉さまが、美しい声でお歌いになったのだ。
私は、村の人たちに交じってそれを聞いていたのだけれど、身体の中の血がぽつぽつと泡立つような、かすかな高揚を感じた。そして、特別なときというのは、こういうときのことを言うのだなと思った。
まさかそれが、本当に『特別な歌』だったなどとは、思いもしなかったけれど――。
「緋方の家に伝わる歌は、ただの歌ではありません。力を持つ歌です。ヒキを封印するための、そして、セイケイと戦うための力を」
あの日。私に緋方の女としての使命を語った日、初めてお母さまは、歌の持つ意味を私に話してくださった。
「『伝説の歌』は、わかりますね?」
「ええ」
お母さまの問いかけに、私はうなずいて答える。緋方家の開祖さまがヒキを封印するときに歌った歌、前回のうたまつりでお姉さまがお歌いになったあの歌のことだ。
「あれは、緋方では〈封印の歌〉と呼ばれています。名前のとおり、封印する力、封印をかけなおす力を持っているからです」
それから、違う歌の冒頭を少し、歌ってみせる。
「これは〈結界の歌〉という名で、セイケイを村に近づけないための歌です。一人でも狭い範囲の効力はあると言われていますが、村全体を守るためには、最低四人の緋方が村の四方で歌う必要があります」
お母さまはまた違う歌をお歌いになった。私が名前を知らないのだから、歌うより他に示す方法がないのだ。
「これは、〈戦いの歌〉といいます。そんなことがあってはなりませんけど、セイケイと戦わざるを得なくなったとき――そのときのための、歌です」
そして、最後の歌の名を耳にしたとき。私は驚いて聞き返した。
「どうして、それだけそんな名前なの?」
四つの中で一番好きな歌であっただけに、その理由が知りたかった。
「わかりません。そう、伝わっているのですよ」
お母さまも首を横に振る。
「〈封印の歌〉と〈結界の歌〉以外は、実際に使われたこともありませんし、最後の歌についてははっきりしたことも伝わっていません。それでも、私たちはそれらを受け継いできたのです」
〈封印の歌〉の他は、歌媛の私には今回直接関係のない歌ではあるけれど、それでもこれら全てが緋方の歌なのだ。私は、その名前と意味を、胸に刻んだ。
「全ての歌は、既にあなたの中にあるはずです」
私の心の中を見つめるように、お母さまはおっしゃった。
「これからまつりまでの間、ゆっくり、思い出してみなさい。そして、歌うのです。あなたの歌い方で――」
そうして私は、毎日まだ深夜とも言える時間に目を覚ましては、緋の森の中にある社に通い、歌を歌っている。
完全に夜が明けてしまうまでにはまだもう少し、時間がある。
もう少しだけ歌って今朝はおしまいにしようと、扉を閉じた。
◇
早朝は社で歌を歌い、
この一週間、私の一日はそんなふうに過ぎていっている。単調な毎日だ。
始めのうちこそ、
「ちゃんとしなきゃ。私は緋方の女なんだもの。歌媛なんだもの!」
と意気込んでいたのだけれど、昨日今日あたりは、どうも身が入らない。
やる気がなくなったとかではない。いくら私でも、歌媛の役割の重大さくらいはわかっている。わかってはいるのだけれど……どうにも、息が詰まるのだ。
そんなとき、心をよぎるのはきらめく緑。光る風。私を招く、長い黒髪。
風の森が私を呼んでいるような気がして、どうしようもなく、胸が騒ぐ。
(でも、そんなことお母さまには言えないわよねえ……)
「一週間くらいで何です。だいたいあなたは我慢が足りないのです」
とかおっしゃられる姿が、声つきでありありと目に浮かぶ。
ちょうど、そんな頃だった。
「このところ、真面目にやっているようですね、深雪」
昼餉の席で、お母さまがそうおっしゃられた。
「まあそれは珍しいことですこと」
給仕をしてくれていた
「それはないでしょう? 美音さん。私いつも、不真面目にしているわけではないのよ」
「はいはい、ただちょっと他のことに目がいってしまうだけなんですよね」
「美音さん!」
私が少し怒った声でそう言うと、お母さまと美音さんが笑った。
美音さんは、緋方屋敷の一番近くにある、
何しろこの家は他と離れていて、こちらから降りていけば別だけど、下の村からここまで登ってきてくれる友達はそうはなかった。だから、私と瑞穂お姉さまと美音さんは、ほとんど三人姉妹のように育ってきた。
瑞穂お姉さまの二つ下が美音さん、その三つ下が私、というわけで、お姉さまより歳の近いせいもあって、美音さんとはこういうくだけた会話もよくする。
瑞穂お姉さまは、私の尊敬する、自慢のお姉さま。
美音さんは、けんかをすることもできる、仲のいい友達みたいなお姉さん。そんな感じだった。
美音さんのお祖母さんが、もう亡くなられたけれど病気になられた頃から、お母さんの代わりに美音さんがうちに働きにくるようになった。けれども四年前、瑞穂お姉さまが結婚して家を出られてからは、美音さんもここに住み込むようになっている。
緋方屋敷なんて呼ばれていても、私が五つのときにお祖母さまが亡くなられてからは、住んでいるのはお母さまとお姉さまと私の三人きりだった。もしも美音さんがいなかったら、今頃この一軒だけよそから離れた家で、お母さまと私の二人でひっそり暮らすことになっていただろう。
お母さまがもう一人増えたような口うるささはあるものの、美音さんがいてくれると、この家がぱっとにぎやかになる。それが、私にはありがたかった。
「でも、深雪さま? まつりまであと一週間もあるのに、今からそんなに根を詰めていらしたら、まつりの前に倒れてしまいますよ?」
「美音の言うとおりです」
お母さまがおっしゃる。
「たまには、息抜きをなさい。森へ行ったって、構わないのですよ」
「本当!?」
私は、膳に手をついて身を乗りだした。
「本当に森へ行っていいのね? 一応、まつりが終わるまではだめかなと思ってたんだけど、本当は行きたくて行きたくて仕方がなかったの。だって、ずっとこんな隔離されたような家にいたって退屈なだけだし、今のうちに見に行かないと森の中の花もそろそろ季節が終わっちゃって――」
「こんな家とは何ですか」
さっき珍しく誉められたばかりなのに、また口を滑らせて、叱られてしまった。横で美音さんがくすくす笑っている。
「さすが深雪さま」
口うるさいだけならまだしも、少々性格も悪い。全くもう。憤然として、私は昼餉の続きに戻った。
「いいですね? 息抜きは、たまにするから息抜きなのです。私の許しが出たからと行って、他のことを疎かにしたりは……」
「わかってます。ちゃんとします」
大分いい加減に返事をすると、私は箸を置いた。
「ご馳走さまでした。行ってきます」
「もう行かれるんですか!?」
美音さんが驚いたような声を上げた。
「たった今、食べ終わったばかりじゃありませんか。せめて、お茶くらい飲んでいかれたら……」
「いいの。すぐにでも行きたいんだもの」
「そんなに急いで行かなくても、森は走って逃げたりしませんよ」
「お茶だって逃げないでしょ」
私も言い返す。
「それとも、追いかけてくる? 『俺を飲めー』って」
言った瞬間、お茶碗に足が生えてたったか道を走ってくる図を連想し、何だか自分で嫌になった。
「何馬鹿なこと言ってらっしゃるんですか」
美音さんにも、『馬鹿』とまで言われてしまう。反論しにくいのが辛い。お母さまも脇で、ため息をついているし。
このまま続けていると森へ行く許しが撤回されそうなので、私は話を打ち切ることにした。
「とにかく、行くわ。夕餉までには帰ってくるから、お茶はそのときということで」
振り切るように、私は立ち上がる。
「全く、こんなときだけてきぱきしてるんですから」
美音さんの聞こえよがしの言葉に異論反論はもちろんあったけれど、仕方がないのでそれも聞こえなかったふりをした。
だって、森に行けるんだもの。
それだけで、何もかもが許せる気がする。
――風の森!
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