二
この時期、大滝村ではほとんど雨が降らない。今日の空も、文字どおり雲一つない輝くような青をしていた。
その空が、走る私の足取りを軽くする。
風に乗って、飛ぶように私は走る。
早く、早く森へ行きたかった。風の森の、滝口のあの場所へ。
走りながら、私の中で何かが揺れる。
ざわざわ、ざわざわ、何かがさざめく。
本当に森が呼んでいるような気がして、何かいつもと違う特別なことが待っている予感がして、私を急がせた。
瑠璃川に沿って、
家を出てからずっと走ってきた私は、そこまでたどりつくと息をついた。天を仰ぐと、虹の色をした細かい霧が降ってくる。滝口は見えない。絶壁すぎて、ここからだと崖より張り出した木々の枝が見えるだけだった。
滝壺の水を手ですくって飲むと、身体中に冷たさがすうっとしみ渡っていく。それと一緒に、自分でも不思議なほど落ち着くのがわかった。
それから私はいつものように、緑の匂いのする風を身体全体で感じながら、森の奥へと歩いていった。ここでいったん瑠璃川には別れを告げるけれど、大回りをして上へ昇るともう一度出会う。そのあと今度は滝口のほうへ、わずかに下るのだ。
そして、森の切れ目から青い色が目の中に飛び込んできたとき。
(――!)
私は息を呑んだ。
そして、自分の予感が何だったのかを、知った。
どうして私はこうなることがわかったのだろう?
今年が、うたまつりの年だから?
あの日が、うたまつりの年だったから?
一面の青の中。
揺れる、揺れる、長い黒髪――。
(風の、精……)
そこには、あの人が、立っていた。
夢でも見ているみたいだった。
崖っぷちの岩の上に立ってこちらに背を向けている姿は本当にあの日のままで、信じられないくらい、私が何度も心に思い浮かべたあの日の光景そのままだった。
声でもかけようものなら、一瞬にして幻のように消え失せるんじゃないかと思った。
どれくらい、その場に立ちつくしていただろうか。
(何をしているのよ、私は)
私は、この人に会いたかったはずだ。
会って――そう、話しかけたかったのだ。あのときはそれができなくて、そのことを、あとになってどうしようもなく後悔した。
消えてしまってもいい。
一言でも答えてくれて、そして――
意を決して、私は一歩踏み出した。
「……ここが、お好きなんですか?」
ごく普通に、何でもない感じで、話しかけようとした。けれども逆に、不自然に明るくなってしまった。
その人の背からは、何の反応もなかった。それどころか、身動き一つしない。
私の声が届いていないのか、それとも本当にこれは幻で、現実には存在しないのか……そう思い始めるくらい、私にとって長い、長い時間が経った頃、
「別に」
短い答えが、返ってきた。
その声は硬質で、とりつく島のない感じだった。
けれども答えが返ってくるということは、この人は現実にここにいるのだ。それに私は勇気づけられて、さらに声をかけた。
「もしかして、旅のお方か何か? このあたりによくいらっしゃるんですか?」
土地の者ではない、というのは確信があった。大滝村の、というだけではなく、このあたりのどの村の人でもない。
近隣の村とは、ごく稀に行き来があるし、私もよそから大滝村に来た人を見たことがある。けれど、この人のような服装や長い髪をした男の人は一人もいなかったし……それに何というか、土の感じがしなかった。どこにも根を下ろさず、絶え間なく流れているような、そんな雰囲気があったから。
その問いに、答えは返ってこなかった。振り向こうとすらしない。それでも私は、諦めずに話しかけた。
「私はこの村の者で、深雪といいます。もし大滝村にお泊まりになるのでしたら……」
「いや」
私の言葉を遮るように、その人は言った。
「じゃあ、隣りまで行かれるの?」
大滝村に一番近いのは、村の西側の山向こうにある
「でも、隣りと言ったって……」
曲まではまる一日かかる。村をいつ出立したところで、必ず山中で一夜を過ごすことになるのだ。そのため、中間地点に泊まるためだけの小屋はあるのだけれど、もし今ここを発ったとしたら、そこにつくのは多分朝だ。夜どおし歩くか、でなければ野宿である。
けれども、
「関係ないだろう」
返ってきたのは、それだけだった。言外に『話しかけるな』と言っているような、はっきりした拒絶の雰囲気が、その背中にはあった。
私は続ける言葉を失って、再びその場に立ちつくした。
――のだけれど、そのうち、何だかだんだん腹が立ってきた。
(何よ……何よ、この態度!)
何のために私は、話しかける前にあんなに思い悩んだのだろう。こんな、こんな人だったなんて。そう思うと無性に腹が立って、気づいたときにはずかずかと滝口のほうに歩いていた。
「いくら何でもその態度はないでしょう? せっかく人が心配してあげてるのに。同じ返事をするにしたって、人の顔くらい見て言いなさいよ!」
彼のすぐそばまで寄って、横から彼の顔を見上げる。それでさすがの彼も、こちらにちらりと視線を走らせた。
歳の頃は二十四、五か。顔立ちは整っていたけれど、いぶかしげに見下ろす目はひどく冷たく、しかも全然私を映していなかった。金属のように平板な、何も見ていない瞳だ。
しかし、それにもひるまず私は言いつのった。
「そもそも、あなた誰よ。ここは私のお気に入りの場所なのよ? なのに何よ、勝手に入り込んで」
口が勝手に動いて、止まらない。さっきまでの緊張の反動で、いつも以上にお喋りになっていた。一方的にまくしたてる。
「勘違いした私が馬鹿だったわ。あなたは全然あの人なんかじゃないわよ。あなたは全然、淋しそうでも何でもないし、それに……」
言いながら、自分でわかっていた。これはただの八つ当りだ。
あの人のはずがなかった。顔をはっきり覚えているわけじゃないけれど、あの日のあの人が、ちょうど彼くらいの年頃だったのだ。
あれから十年も経っているのに、同じ人のわけがない。
そのことに、今気づいたのだ。
(何をしているのよ、私は)
一人で勝手に期待して、夢を見て。
それが違ってたからって、見も知らぬ人を相手に言いがかりをつけて。何、馬鹿なことをしてるんだろう。
わかっているのに、止められなかった。
「それに……」
「?」
黙って私を見ていた彼の目が、初めてかすかに動いた。
私が、ぼろぼろと涙を流して泣いていたからだ。
その彼の目つきが、よけいに私の神経を刺激して、
「な……何でもないわ、放っといてよ!」
そう言い放つと、くるっと背を向けてそこから走り去った。
自分から話しかけておいて『放っといて』はないだろう、とか頭のどこかでは思っていたのだけれど、それ以上その場にいられなかったのだ。
十年経って、十九になったって、私は子供のままで、どうしようもなく子供で。森の中を走り下りながら、自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
せっかく、森に来れたのに。
こんな気持ちになるために、来たわけじゃないのに。
――最低!
「あら、深雪さま。森へ行ったわりには珍しく早いお帰りですわね」
帰ると、美音さんが驚いて私を迎えた。
「雨でも降り出すんですの? それとも槍かしら」
「――降らないわよ、何も」
冗談で言っているのはわかるけれど、それに乗る気分ではなかった。
「……深雪さま?」
美音さんが、不思議そうに私の顔をのぞきこむ。
勢いのままに走っていたのは最初のうちだけで、途中からはむしろとぼとぼと歩いていたせいか、泣いた形跡はもう顔から消えていた。けれども、私が沈んでいるのはわかったようだ。
「どうしたんです?」
急に、ひどく心配そうな声になる。いつも私をからかうようなことばかり言っているけれど、その反面美音さんは、私のこととなると心配性なのだ。
でもその心配も、今は何だかうっとうしい気がして、
「久しぶりだったから、疲れたのかな」
そう言って無理に笑った。これ以上、いろいろと聞かれたくなかったのだ。
「――それこそ、珍しいですわよ」
小さい頃からの私を知っている美音さんには、その場しのぎの言い訳など通用しない。さらに追求しようとするのを振り切って、
「何でもないのよ、本当よ」
自分の部屋に逃げ込んで、襖を閉めた。
(何をしているのよ、私は)
そう思うのは、今日、いったい何度目だろう。美音さんが好意で言ってくれているのはわかっているのに、迷惑がっている。何て嫌な女なんだろう、私は。
「何でもない、か……」
そのまま入口をふさぐように襖によりかかって、つぶやく。そう言えば滝口でも、彼に同じことを言ったのだ。
『な……何でもないわ、放っといてよ!』
あのときの彼の目を思い出して、また気が重くなる。
(変な女だと思ったろうなあ……いきなり怒鳴りつけて、勝手に泣きだして。とんでもない女よね、全く)
確かに、向こうのあの態度にもひどいものはあったけれど。冷たいし、人の厚意を頭からはねつけるような物言いをするし。嫌な感じの人ではあったけれど。
それにしたって、今日のは私が悪い。
(嫌われた、だろうなあ……)
そう考えて、ふっと我に返った。
「い、いいじゃないの別に、嫌われたって。あの人じゃないんだし」
(嫌われる嫌われないはともかく、謝るだけは謝っておかないとなあ)
でも、謝ることができるのだろうか。旅の人みたいだったし、もう一度会うことすらできないんじゃないかしら……。
ふう、と私はため息をついた。
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