第五章 火と風と水の歌
一
破れた壁の隙間から、朝の光が射し込んでいる。
ああ、また今日も一日が始まるのね。そう思いながら、身を起こす。冬から春に変わろうとする季節、まだ少し、肌寒い。
ここでの生活は、楽しいとはとても言えなかった。母と一緒にこの村に住みついてもう十年は経つというのに、未だによそもの扱いのままなのだ。その母も今はもうない。真汐は完全に一人きりだった。
村の北の外れのあばら屋には、訪れる者もほとんどいない。母譲りの技術の織物で、何とか食べ物はわけてもらえるものの、村人との付き合いといったらそれだけだ。孤独を紛らすため、彼女はよく森へ出かけた。森は、彼女の家のすぐ裏から広がっていた。
どうして自分が村に受け入れてもらえないのか、彼女自身にもわからなくはなかった。空気が、違うのだ。この村で十年を過ごしても未だ抜けきらぬ故郷の村の空気、それがこの村の人たちに近寄りがたい印象を与えてしまうのだ。わかっていても、どうしようもなかった。
母はなぜ、故郷の村を離れなければならなかったのだろう。
どうしてこんな、山奥の村にまで来なければならなかったのだろう。
考えてもわかるはずもなかった。母はもうこの世にはいないのだし、彼女自身は当時幼すぎた。あの村がどこにあったのか、何が起きたのかなど覚えてはいない。母と二人、この村へ来るときの道中も、今となっては夢の中のようにおぼろげな記憶だった。
ただ、故郷の村の光景だけが、昨日のことのように鮮やかに脳裏に焼きついていた。
森の中を川に沿ってさかのぼると、やがて滝にたどりつく。中ほどにかかる七色の虹。直線的に流れ落ちる見事な滝は、故郷の村にはなかったものだ。四方を山に囲まれ、閉じ込められたようなこの村の中で、森とこの滝だけは大好きだった。
滝壺を離れ、さらに森の奥に入って歩いていく。一瞬、緋い色がすうっと目の端をよぎる。振り向いたけれど、そのときにはもう何も見えなかった。
気のせい、かしら。不思議に思いながら、もう一度出会った川の流れに沿って、滝口のほうへと戻ってくる。
少し手前で、真汐は立ち止まった。
(――誰?)
滝口の岩の上に、誰かが立っていた。
今まで、そんなことは一度もなかった。村人たちは村の北側の森にはほとんどやって来ないのだ。だからこそその近くに真汐が住んでいても特に文句も言われず、黙認された形になっている。
真汐にとって森は孤独を紛らす場所であると同時に、安心して一人になれる場所でもあった。それを侵されるのを、彼女は恐れていた。こんなところで下手に村人と顔を合わせると、どういう対応をされるかわかったものではない。
誰、だろう。木に隠れて、こっそりと観察する。
それは、明らかに村の人間ではなかった。他から隔絶されたこの村のこと、いくら付き合いがないといっても大抵の村人は見覚えている。後ろ姿でも、それくらいはわかる。
歳は二十代半ばくらいだろうか、それほど大仰な支度をしているわけではないがどことなく旅慣れた感じがする、若い男。身長はかなり高い。無造作にくくった長髪を強い風になびかせて、空を仰いでいる。
一面の青空のなかに立つその姿はまるで絵のようで、思わず見とれてしまった。
「――いい森だ。風が歌を歌っている」
突然、彼が口を開いた。気安く話しかけるような口調だ。後ろで真汐は慌てふためく。
その気配を察して振り向いた男は、真汐を見ると少し驚き、すぐに如才ない笑みを浮かべた。
「すまない。連れの者と間違えたんだ。驚かせて悪かった」
「いえ……お気になさらないで。私が、勝手に驚いただけですもの」
とりあえず悪い人とか、怪しい人ではないようだ。真汐も警戒を解いた。
「お連れさまが、いらっしゃるの?」
「さっき、少し森の中を見てくると言って、歩いて行ったんだけどな。帰ってきたのかと思った」
「そうですか」
当たり障りのない会話を続ける。
私が見たのは、その人だったのかしら。真汐がそんなことを考えていると、
「俺の名前は
彼が、そう話しかけてきた。
旅の者なら、村の人間に出会ったら泊まるところとか食べる物とか、いろいろ口をきいてもらいたいと思うだろう。だがそれには少し、相手が悪かったようだ。
「真汐といいます」
はいともいいえとも言わずに、真汐は答えた。そして、たずねる。
「村にお泊まりになるつもり?」
もしそうなら、自分の名を出したら却って逆効果になるだろう。それを忠告しておこうと思った。
けれども彼は、そういう意味合いで訊いたのではなかったようだ。少し考え込んで、つぶやく。
「あいつは嫌がるだろうな。俺は、泊めてもらえるものなら、たまには人里に泊まってもいいと思うんだが……」
どうやら、連れという人物が、村に泊まるのを好まないらしい。先を急ぐのか、それとも、人との接触を嫌うのか。
それから彼は空のほうに向きなおり、眼下を見下ろした。
この滝口からは、村全体を見渡すことができた。村を北から南へと流れる川は、この滝の下からつながるものだ。盆地の、狭い土地を補う段々になった畑、その中に点在する、村の家々。広場のまわりにはいくつかの家が輪を描くように並び、ぽっかりと空間があいていた。のどかな山村の風景だ。
「いい眺めだ。君がここまで登ってくる気持ちもわかるな」
感心したように彼は言う。
「――違うわ」
思わず、言葉が口をついて出た。
「私、村を見にきたんじゃないの」
木から離れ、流斗と名乗った男のそばに歩いていく。彼の隣りに立ち、遠くを眺めた。
真汐の目は村をはるか通り越し、村の反対側の南の山々、その上に広がる空を見つめていた。
そして、その空のもっと向こうに……。
「海が、見えるかと思って。いつかここを出て、海のそばで暮らすのよ。それが、私の夢なの」
「海?」
こんな山奥の村には似合わない言葉だと思ったのだろう。
「小さい頃は、海の近くに住んでいたの。海に沈む夕日を、覚えてる」
緋い色――
夕日の色――
見渡す限り、どこまでも広がっている。
ゆらゆらと、揺れている。落ちていく。沈んでいく。
今でも鮮やかに甦る、果てしなく穏やかな黄昏の海――
「……でも、この村の人は、海という言葉すら、知りはしない」
吐き捨てるように言って、はっと我に返る。
何を言っているのかしら、私。初対面の人にこんなことを言ったって、何にもならないのに。そう思って、目を伏せる。
「――そうか。それで名前に
その言葉に、真汐は顔を上げた。こちらを見ていた彼と目が合う。
「海は、俺も好きだよ。見ていて自由な気分になれる」
同情、かもしれない。旅している彼なら、行った先でよそもの扱いされて嫌な思いをしたこともあるだろう。彼女の言葉の裏に隠された感情を察したのかもしれない。
けれども彼は、やさしい目をしていた。さっきの如才ない態度ではなく、もっと深くあたたかい笑顔だった。
「流斗……さん?」
「流斗でいいよ」
彼はまた笑った。この村では、笑いかけられたことなどなかった。
この人は、海を知っているんだ。
私の見たあの景色を、知っているんだ。
真汐も笑みを浮かべた。
「流斗さ……流斗はどこから来たの? どこへ行くの?」
「いや、特に当てはないんだ」
真汐の問いに、流斗は笑って答えた。
「まあ、予定のない気ままな旅ってところかな」
冗談めかした口調だったが、一瞬、瞳の奥に翳がさした。
「いいわね、そういうのも」
気づかぬふりをして、真汐もそう答える。
何となく、わかった。彼も好きで旅をしているのではないということ。流れなければならない、何かの事情があるのだろう。
どうして彼が自分の気持ちを察したのか。
こんなにやさしい笑顔を、しているのか。
それは、この人が淋しいからなんだ。
風のような、人。
吹き抜けていくだけで、どこにも居場所のない人。
――私みたいだ。真汐はそう思った。
そのときだった。
「流斗? 誰と話しているの?」
後ろから女の声がした。
振り向くと、緋い色が森の中に見える。
(あ。さっきの……)
「
安心したように、流斗が声をかける。
緋い着物をまとった一人の娘が、森の中から光の当たるところへ出てきた。そして、まっすぐに立って正面から真汐を見る。
美しい娘だった。
女の真汐が見てもそう思うくらい、どこかこの世ならざるものを感じさせるほどに美しすぎる娘だった。
歳の頃は真汐と同じか、多分下。美少女だが見るからに気が強そうで、着物の緋い色も彼女のうちからあふれる激しさによく似合っていた。炎のような目で、真汐をにらみつけている。
その視線に気づいて、流斗が説明する。
「あ、ああ。彼女はこのあたりに住んでいる人で、真汐というんだ」
「ど、どうも」
真汐も会釈したが、彼女は何も言わない。つかつかと歩いてくると、いきなり真汐の頬を叩いた。
ぱしいっという景気のいい音が、あたりに響いた。
「梓!?」
流斗が大声を上げる。
あまりのことに、真汐は怒るでも痛がるでもなくあっけにとられた。その真汐を仇か何かのように見据えたまま、梓は強い声で言い放った。
「流斗に近づかないで。流斗は、あたしのものよ」
火と風と水 出逢はねば
災ひの芽は生まれねど……
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