第四章 うたまつり

 あかい色――

 夕日の色――

 見渡す限り、どこまでも広がっている。

 ゆらゆらと、揺れている。落ちていく。沈んでいく。

 見たことのない景色。けれども、何だか早く探しに行かなきゃいけないように思えて、ただ気ばかりが焦る。

 こんなところにいちゃいけない。

 そうよ、こんな村早く飛び出して――!


 目覚めは、最悪だった。

 寝床から出て、緋の森のやしろに向かうのが、ひどくおっくうだった。

 今まで、こんな気持ちで目が覚めたことなど、なかった。

 早起きは苦手だったけど、朝目が覚めるたびに、まつりの日に一歩近づいたような気がして、十年前憧れたあの緋の袴を身にまとう日が近づいた気がして、その日がとても待ち遠しかった。

 けれども、歌媛を務めることが私の緋方の女であることの証だとしたら、私はそんなものはほしくない。

 まつりが済んだら威と結婚して、この緋方を継がねばならないのだとしたら、まつりの日など永遠に来てほしくはなかった。

 うたまつりは、明日である。


 朝餉のときも、昼餉のときも、私はお母さまと一言も口をきかなかった。

 美音さんには――申し訳なくて、口をきけなかった。

「何も、深雪さまがそんなふうに思われることはありませんわ」

 昼餉のあと、わざわざ私の部屋まで来て、美音さんは笑ってみせた。

「私が、自分で誰とも結婚しないと決めたんですもの。昨日は、突然のことだったので、つい取り乱してしまいましたけれど。薄々、予想はしていましたのにね」

「でも……いくら何でも無神経すぎるわ。お母さまは、美音さんと威のこと、知っておいでのはずなのに……」

「静乃さまのことを、悪く言うものではありませんわ」

 私よりも、美音さんのほうこそもっといろいろ言ってもいいはずなのに、美音さんは私をたしなめる。

「静乃さまはご立派な方ですわ。静乃さまのなさることに、間違いはありません。深雪さまも今年で十九におなりですもの、静乃さまがそろそろご結婚の心配をなさるのも当然ですわ。そのお相手にあの方をお考えになるのも、この村では、自然なことです」

 あの方、と美音さんは言った。

 威の名を口に出すことをわざと避けたように、私には思えた。

「それは、私にだってわかるわ。お母さまのなさることには、何ひとつ間違いなんてないの。いつだって、正しいのよ――でもね、正しけりゃいいってものじゃない」

 正しければ、他人の気持ちを踏みにじっていいってものじゃない。

「お母さまは、緋方の家を守るためなら、人の気持ちなんか気にしないのよ。当主としては、立派な態度なんでしょうね。でも、私はそんなの嫌だわ。私は、お母さまみたいにはなりたくない」

 時が、止まってしまえばいい。

 今日、この時で止まってしまえばいい。

 そうすれば、威と結婚することもない。緋方を継ぐことも、お母さまみたいな当主になることもないのに……。

「――深雪さま」

 私は、はっとして顔を上げた。

 美音さんの声の調子が、今までと全く違っていた。

「それは、ぜいたくというものですわ。そういう言葉は、うちの母のような女を親に持った者が、言うことです」

 美音さんの顔から、表情が消えていた。

「静乃さまはご立派な方です。うちの母なんかとは、くらべものにならないくらいに。私は、静乃さまを尊敬しております。できることなら、あのような方の娘に生まれてきたかった。深雪さまは、ぜいたくですわ」

「美音、さん……」

 何かを言い返すことのできる、雰囲気ではなかった。

 私が何を言ったとしても、それを聞き入れる耳を、美音さんは持っていなかった。

 美音さんには、見えていないのだ。お母さまの、本当の姿が。

 多分、美音さんの中では、美音さんのお母さんとひきくらべて、実際以上にお母さまがすばらしい人間になっているのだと思う。そして、美音さんが自分の母親を嫌えば嫌うほど、お母さまはどんどん立派になっていくのだ。

 美音さんにだけは、わかってもらえると思っていたのに。

 美音さんがお母さんを嫌だと思う気持ちと、私がお母さまを嫌だと思う気持ちは同じはずなのに、あんなに「立派な」お母さまを私が嫌だと思うなんて、美音さんには信じられないのだ。

 誰も、わかってくれない。

 お母さまのあの非の打ちどころのなさが、私には耐えられないのだと言っても、誰にもわかってもらえないのだ。

 お母さまが立派な方だから。

 立派でありすぎるから――。

 そしてまた私は、お母さまの立派さが、嫌いになった。


 美音さんと話したあと、私はまた森へ行った。

 彼は、いなかった。けれども今日は、昨日ほど驚かなかった。

 何となく、そんな気がしていたのだ。

『――俺は、君に会うべきではなかった』

 そう言って彼が昨日私の前から立ち去ったときから、彼はもはや私の前には姿を現さないだろうという予感がしていたのだ。

 自分の予感が、またしても当たっていたことを確かめただけで、私は空しく家のほうへと引き返してきた。

 昨日の雨は、まだ降り続いている。このまま、明日まで降り続いてくれればいいのに。そうしたら、まつりが中止になるかも――そこまで考えて、私は自分で自分を笑った。

 ばかばかしい。そんなことで中止になるような、生易しいまつりではないのに。

 十年に一度、ヒキの封印をかけなおすまつり。

 ヒキの復活をもくろむセイケイとの戦いの日。

 まつりの真相を知らされ、やりとげると心に誓った二週間前がまるで遠い昔のようで、妙に懐かしく思えた。

『君は、緋方の女だろう』

 ――あれは、いったいどういう意味だったのだろう。

 あの、憎むような目は、私個人に対するものではなかったように思う。だとしたら、あれは……。

「――威?」

 家のすぐそばに、威がいた。

 傘もささず、雨の中に立ちつくしている。

 大した雨ではないから、少しの時間なら確かに傘をさすほどではないのだけれど――。

「ずぶぬれじゃないの。何してるのよ、こんなところで……」

 言いかけて、はっと思い当たった。

「――美音さんに、会いにきたのね」

 そう言えば、この前も家の近くで、威に会ったのを思い出した。

 緋方屋敷は、一軒だけ村の他の家々と離れているのだ。何の意味もなく、威がこのあたりを歩いているわけがなかった。

「その様子じゃ、全部聞いたみたいだな」

 威が薄く笑った。

「聞いたわ……」

 何と言っていいのかわからなくて、目を伏せる。

「私、何も知らなくて……」

「鈍すぎるんだよ、お前は」

 苦笑しながら、威は言った。

「何のために俺が、ずっとお前にちょっかいかけてたと思う? あいつが出てくるからだぜ」

「そうだったの?」

 私と威の口げんかを止めるのは、小さい頃から美音さんの役目だった。美音さんは威と同い歳だし、私に負けず劣らずよく喋るほうだから、仲裁に入ったはずがいつの間にか二人のけんかになっているようなこともよくあって――

『ちょっと威! 何であんたはそう、いっつもいっつも……』

『ああ、うるせえ。美音、お前もこんなののお守りで大変だな』

『まあ威さま、こんなのはないでしょう、こんなのは。仮にも緋方のお嬢さまに対して』

『美音さん。「仮にも」は余計』

 ――今となってははるか遠い光景に、私は目を細める。

「で、会えたの? 美音さんに」

 追憶を振り払い、私はたずねた。

「ああ。さっき、やっとな」

 その表情から察するに、あまりいい結果ではなかったのだろう。

「まつりが終わったら、親父が俺とお前との結婚話を進めちまう。俺が美音とよりを戻さないうちに、さっさと片付けちまおうって寸法なのさ。兄貴を瑞穂どのの婿にしようとして、失敗してるしな」

 吐き捨てるように威は言う。

 緋方との縁組み次第で、村内の力関係に影響が出るのは、私も話としては聞いていた。私のお父さまは大滝の分家の出だけど亡くなっているし、今は清乃すがのおばさまのおられる一倉いちのくら家とかのほうが、強かったりするらしい。

「話がでかくなる前に、二人でこの村を出ようって持ちかけたんだ。だけどあいつは、私はもう諦めてるって、そう言った」

「そんな……そんなの、嘘よ。だって昨日、泣いてたもの。私と威の縁談を聞いて、美音さん泣いてたもの」

 けれども、美音さんのその答えに、私はどこかで納得していた。

 美音さんが諦めてるのは威じゃなくて、自分のことなんだ。

 美音さんのお母さんの娘に生まれてきた、自分のことなんだ。

「俺は、嫌だぜ。お前と結婚するなんて。お前だってそうだろ。他に好きな奴くらい、いるんじゃないのか」

「私……が?」

 あの人の後ろ姿が、心をよぎった。

 もう、会えない。

「――いないわ」

 たとえ威とは結婚しなかったとしても、私は誰かこの村の人を婿にとって、緋方を継がねばならないのだ。

 緋方の家に生まれたことを諦めなければならないのは、私のほうだった。

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