「――深雪。深雪」

 誰かが私を呼ぶ、声がする。遠くから、だんだん私に近づいてくる。

 その声のするほうに、手を伸ばす。

「深雪。気がついたのね」

「――お姉さま」

 目を開けると、そこには瑞穂お姉さまがおられた。あれは、お姉さまの声だったのだ。声が近づいてくると思ったのは、私の意識が戻りつつあったのだ。

「お姉さま、ご無事だったの!?」

 私は跳ね起きた。

 そこは、緋方屋敷の中の私の部屋だった。自分の布団に私は寝ていて、その枕元にお姉さまが座っていらしたのだ。一瞬、全てが夢だったのではないかと思う。

 けれども、お姉さまの次の言葉が、それを否定した。

「私はね。でも、岩守いわもり家の田鶴たづるさまが……」

「田鶴さまが?」

「――お亡くなりになったわ」

 私は息を呑んだ。

 昨日まであれほど元気にしておられた、あの田鶴さまが。

「……何が、あったの」

 ふるえる声でたずねる。

 お姉さまは、こんなときでも冷静だった。一語一語、かみしめるように静かに語る。

「私は、『北』にいたわ。あかの森のやしろのことだけれど。『東』『西』『南』にも、お社ほどきちんとしたものではないけれど、まつりのときのための小屋があるのよ。その中で〈結界の歌〉を歌うと、村全体を覆うように壁ができるの。目には見えないのに、確かにあるとわかるのよ。

 その壁に、何かが触れた気配があったわ。位置までわかった。私のすぐ近く、風の森のあたりだと思ったわ。それは壁に触れて、身を引いた。でもまたすぐ挑んでくるの。そのたびに、身体全体に強い圧迫を感じたわ。あなたもヒキと対峙して感じたでしょう。あれが長い時間、断続的に続くのよ。

 私一人だったら、すぐに突破されていたでしょうね。でも私は、一人で戦っていたわけではないもの。清乃すがのさまや田鶴さま、はつさまと歌でつながっていたのよ。同じ苦痛を分け合い、力を合わせて結界を守っていた。大変ではあったけれど、破られるような気はしなかったわ。

 でも――」

 言葉を切り、目を伏せる。

 それでもお姉さまは、話し続ける。

「お歳を召した田鶴さまには、負担が大きすぎたのね。心の臓が、耐えられなかったのだと思うわ。

 突然、『南』の一角が破れたのを感じた。一瞬にして村を覆っていた結界が消えたの。身をもがれたような痛みがして、私も倒れて動けなくなった……。

 気を失う前に、セイケイが『北』のそばを通りすぎていくのを、ちらりと見たわ。妖怪というからもっと恐ろしいものを想像していたのだけれど、不思議ね、少しも怖くなかった。夢でも見ているみたいだった。綺麗な、少し哀しい、幻想的な夢を……。

 ――あとは、覚えていないわ。あなたのほうがわかるでしょう」

 そう言って、お姉さまは締めくくった。

「田鶴さまの他はみんな無事よ。清乃さまも初さまも、お母さまもね」

美音みねさんやたけしは? 広場にいた他の人たちは大丈夫なの?」

「ええ。深雪、あなたが一番、封魔岩ふうまがんのそばにいたのよ? どこにもけがはしていないようなのに、なかなか目を覚まさなくて心配したわ。半日近く、眠っていたのだもの」

 半日。じゃあ、もう夜なんだ。

 力なげに微笑むお姉さまに、私はさらにたずねた。

「村はどうなってるの?」

「今のところは、何も起きていないわね。村長むらおさや村の代表の人たちが来て、座敷でお母さまとお話をなさっているけれど」

「お話?」

「どういうことなのか説明しろって、言ってきているのよ。無理もないけれどね……」

 お姉さまは複雑な表情をなさる。

 村人たちは、これまで何も知らされていなかったのだ。村長の大滝どのや、一倉いちのくら、岩守家の人たちでさえも。

 村人たちはみな、ただのまつりだと信じていた。あんな恐ろしいことになるなどとは、考える由もなく……。

「私の……せいだ」

 かすれた声でつぶやいた。

「私が、ヒキを封印するのに失敗してしまったから、それで……」

「あなた一人のせいではないわ」

 お姉さまが首を振る。その様子は、ひどく疲れているように見えた。

「まつりの失敗は、緋方一族全員の責任よ。いいえ、田鶴さまのおっしゃったように、緋方は滅びる運命にあったのかもしれないわ。そして、ヒキが甦る――」

 ヒキ。その言葉に私ははっとする。

「ヒキ、は。ヒキは、どうなったの」

「どこかへ行ったわ。セイケイと一緒に」

「セイケイと……」

 私は黙りこくった。

 彼だった。

 彼が、セイケイだった。

『君は、緋方の女だろう』

 ――あの、私の後ろにあるものを憎むような目。でも、当然だったんだ。彼がセイケイだったのなら。

 どうして私、もっと早く気づかなかったんだろう。彼が十年前もあそこにいたのも、歳をとらないのも、ずっとあの岩を見つめていたのも、全て説明がついたのに。どうして、それを考えなかったんだろう。

 私は、両手で顔を覆った。

「深雪……」

「お願い、一人にして」

 お姉さまはうなずくと、静かに部屋を出ていった。

 どうして考えなかったかなんて、わかりきっている。

 見たくなかったの。そういう、可能性を。

『――まがつ者よ』

 お姉さまにそう言われていたのに、わざと目をそらしていた。

 私が、彼のそばにいたかったから。

 でも彼は、私の前から去った。

『――俺は、君に会うべきではなかった」

 そう、言い残して。

 今思えば、私が『火と風と水の歌』を歌ったあのときに、彼は私が緋方だと気づいたのだろう。だから彼は急に態度を変え、私の前から去っていった……。

 二度と、会えないと思った。

 まさかあんな形でもう一度会うことになるとは、思わなかったけれど。

 でも今度こそ、本当に、もう会えない――

『もう会えないというより、またいつか絶対に会えるって歌のような気がしない?』

 いつか言った自分の言葉に、私ははっと顔を上げる。

 もう会えない、なんてことはない。私はずっと、そう思っていた。だからあの歌が大好きだった。たとえ自分の命は尽きても、想いは永遠に娘たちに受け継がれていく。そう歌うあの歌が大好きだった。

 哀しい感じはしない、と言った私に、

『――本当に君は、変わったことを言う』

 そう言って、彼は笑ったのだ。

 苦しそうな、哀しそうな、淋しそうな笑顔で――。

 あの人の笑顔が見たかった。

 十年前、淋しそうにあの滝口に立っていたあの人に、一言でも話しかけて、返してもらって、そして心から笑ってほしいと思っていたのだ。

 私はまだ、それを見ていない。


「――深雪? どこへ行ったの、深雪!」


   ◇


 外はもう真っ暗だった。

 明かりをつけて誰かに見つかるわけにはいかなかったから、暗い森の中を月の光だけを頼りに歩くしかなかった。歩き慣れた道で、どこに木の根が張り出しているかまで覚えているのが、せめてもの救いだ。

 昼と夜とでは、森は全く印象が違う。昼間はあんなに光に包まれた森が、夜は魔物の巣窟にも見える。このあたりの森には危険な動物がいないのはわかっているはずなのに、わずかな物音に身をすくませる。

 遠くから、滝の音が響いてくる。響くというより、とどろくといった感じだ。

 暗い森の中で、滝の水だけが月明かりを浴びて淡い光を放っていた。月光を複雑に反射しながら、崖を垂直に流れ落ちてくる。滝壺に青白い月が揺れている。水飛沫が、蛍のように躍っている。

 できることならいつまでも見ていたいような美しさだったけれど、そうもしていられなくて、滝のそばを離れて森の奥へ入った。

 滝口へ。

 あそこへ行けば彼がいると、信じていた。

 おとといだって、私が危険な目にあったときは出てきてくれたのだもの。彼はやはり、あの近くにいるのだ。昼間は私が来るからと思って姿を隠しているのかもしれないけれど、こんな時間ならきっと……!

「深雪!?」

 彼が、いた。

 あの人が、月明かりに照らされて滝口にたたずんでいた。私を見て、驚いた表情をしている。

「どうして、ここに」

「あなたに、会いたくて」

 私は、微笑んだ。何のためらいもなく言った私に、彼はますます戸惑った様子だ。

「深雪、俺は……」

「わかってるわ。あなたがセイケイだってこと。それでもいいの。私は……」

「それは違う」

 珍しく彼が声を荒らげた。

「確かに、君たちがセイケイと呼んでいるのは、俺のことだ。だが俺は自分でセイケイと名乗ったことは一度もない」

「え……じゃあ……」

「俺の名は、流斗ながとだ。セイケイというのは、あいつが勝手に言いふらした名前だ」

「流斗?」

 どこかで聞いた名前だ。

 少し考えて、はっと思い当たった。

 さっき見ていた夢に出てきた人の名前だ。

 流斗とあずさと、真汐ましお。そういう名前の人たちだった。

「あなたが……流斗。じゃあ、真汐というのは……」

「君たちの祖先さ。緋方家の開祖だ」

「梓は?」

「なぜ君が梓を知っているんだ!」

 彼が大声を上げた。

「夢を、見たから。あなたたちの。よくは覚えていないんだけど、哀しい、夢を見たから――」

 私がそう言ったときだった。

「流斗? 誰と話しているの?」

 夢の中と同じ、声がした。

「梓……」

 あの人が、かすれた声でつぶやく。

 私は、振り向いた。森の中から、一つの影が姿を現す。


 夢の続きが、脳裏に甦った。

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