二
夕方、緋方屋敷に、瑞穂お姉さまがおいでになった。
お母さまから昨日の話は聞かされているらしく、何か言いたげな顔をしていらしたけれど、その暇はなかった。
まつり前日の最後の打ち合わせで、緋方一族の全員が、集まったからである。
「やれやれ、これで何度目のまつりだろうかねえ。時が過ぎるのは、遅いようで早いものだよ」
緋の森の社の中、上座で小さな背を丸めてしみじみと言われたのは、私のお祖母さまの妹にあたる
田鶴さまは、かつて歌媛をなさったあと、南の広場のすぐ前に位置する
「全くですわねえ、お母さま。前回のまつりからもう十年が経ったなんて、信じられないような気がしますわ……」
田鶴さまの娘の、
緋方の前当主であるお祖母さまは、結婚こそ歌媛をなさってすぐにされたがなかなか子宝に恵まれず、お母さまをお産みになったのは三十路を越してからだった。だから、妹の田鶴さまの子である初さまのほうがお母さまより歳上で、先に歌媛を務められている。
「いよいよ明日ね。静乃姉さまも、大変でしたでしょう?」
それから、お母さまの妹の
うたまつりのとき適齢期の娘が複数いた場合、本家の娘、それも長女が優先される。お母さまと歳の近い清乃おばさまは、だから歌媛を経験なさってはいないのだけれど、お母さまを
おばさまは今は、私の一つ上と一つ下の二人の男の子の母親だ。
そして、お母さまと瑞穂お姉さまと、私。
この六人が伝説の歌女の血を引く者、緋方と呼ばれる女たちだった。
「しかし六人とは、少ないね。私が若かった頃は、一族全体で軽く十五人は数えたものだけれどねえ。六十過ぎたばあさま方は、何もすることがなくて困ったくらいさ」
田鶴さまがため息をつかれる。
「本当に、まつりを執り行うのに最低限の人数ですわ。おかげで、田鶴さまにまでご足労願わなければならなくて」
お母さまが頭を下げる。田鶴さまは、いくら下の村からここまで自分の足で登っておいでになるほどお元気だとは言っても、もう八十近いお歳なのだ。
けれども、私は歌媛を務め、当主であるお母さまは南の広場でまつりの全てを取り仕切る。村の四方を守る〈結界の歌〉に四人の緋方が必要だとすれば、瑞穂お姉さま、清乃おばさま、初さま、そして田鶴さまに歌っていただくしかなかった。露払いにまわす人手など、前回のまつりから既にないのだ。
緋方の歌はどれも、歌っている間しか効力を発しないとされている。セイケイの侵入を防ぐためには明日の未明から、封印の終わるそのときまで〈結界の歌〉を歌い続けなければならない。それは、ご高齢の田鶴さまにはかなり辛いに違いない。
「うちの
「それを言っても、仕方がないさ」
初さまと田鶴さまが視線を落とす。
千里さま、というのは初さまの一人娘で、お姉さまの前の歌媛を務められた方だ。私も瑞穂お姉さまも、小さい頃はずいぶんかわいがっていただいた。けれども、前回のうたまつりの翌年、産後の肥立ちが悪く亡くなられてしまったのだった。そのとき生まれた子供は、男の子だった……。
――岩守の家でも、一倉の家でも、女系は途絶えた。
本家には、瑞穂お姉さまと私、二人の娘がいる。けれども、お姉さまは子供を産むことができる身体ではない。そしてこれからも、産めるようになる可能性は、低い――。
緋方一族で次代に子を残すことができるのは、私だけなのだ。
そのことに、初めて気づいた。
私は昨日聞くまでお姉さまのことは知らなかったが、お母さまはずっとこのことを考えておられたに違いない。私の結婚のことを心配なさるのも、当然と言えば当然なのだ。
そう、理解はした。けれども、納得したわけではない。
ただ、やはり私は緋方から逃げられないのだと、諦めにも似た感想を抱いただけだ。
「それにしても……」
田鶴さまが不安そうにこぼした。
「今回はどうにかなったとしても、問題は次のまつりだよ。このあとすぐに深雪に婿をとらせて、運よく娘が生まれたとしても、せいぜい九つじゃないか。その頃には、私だってこの世にいるかわからないしね」
その言葉に、全員が押し黙る。
「私にはどうも、緋方が滅びの道を歩んでいるような気がしてならないよ。千里が死んだことも、瑞穂のこともだ」
疲れたように、田鶴さまは大きく首を振った。
「この村で緋方が必要なくなった、というのならそれでもいい。だが、南の広場の封魔岩の下には、今でもヒキが眠っているんだ。もしも、緋方が絶えてしまったら。うたまつりを行う者が、いなくなってしまったら……」
そのとき。
ヒキが、甦る。
長い長い、眠りの果てに――。
「そのこと、ですけれど」
重苦しい沈黙を破って、私が口を開いた。
「ヒキは、本当にいるんですか」
全員が、はっと顔を上げた。
「いいえ、開祖さまがヒキを封じたというのも、実際にあったんですか? 私たちは、本当に緋方と呼ばれて奉られて、それだけの意味のある一族なの」
どんなことをしてでも存続し続ける、それだけの価値のある一族なの。
「深雪!?」
お母さまが驚く。
「何を言い出すのです、あなたは」
その表情は、険しい。
「あなたは歌媛なのですよ? まつりは明日にまで迫っているというのに、そんな……」
「まあ、それくらいにしておおきよ、静乃。若いときには、みんな一度は疑問を持つものさ。お前にも覚えはあるだろう?」
「それはそうですけど……」
口ごもるお母さまの様子に、私は「へえ」とか思いながら冷めた笑みを浮かべる。
私だって、物心ついた頃から、開祖さまがヒキを封じて大滝村を救った話は子守歌のように聞かされてきた。お前はその緋方の血を引く娘なのだと、そう言われて育ってきたのだ。遠い昔の話だとは思っていたけれど、そういう出来事があったということを、疑ったことはなかった。今だって、全く信じていないわけではない。
けれども、もしヒキがいないのなら。
開祖さまがヒキを封じたということがもしただの伝説なのなら、私は緋方から逃げられるかもしれない。抱いた思いも何もかも忘れて、お母さまみたいにならなくてもすむのかもしれない。
「深雪はまだまつりを経験していないから、そう思うのも無理はないさ」
田鶴さまが、私を見つめて微笑んだ。
「けれどね、明日になればわかるよ。緋方の緋の袴を身につけて、あの封魔岩の前に立てばね」
何度もうなずきながら、ゆっくりと語りかける。まるで昔話でもするみたいに。
「封印が解けかけて、岩の下からヒキの気配が伝わってくるのさ。圧倒的なくらいにね。それに立ち向かいながら歌い続ければ、もうヒキの存在を疑わなくなる。それと戦う、緋方の血にもね。そんなものさ」
穏やかな表情をしておいでだったが、瞳の奥には切るような鋭さがあった。
お姉さまと同じ目だ。
あの人のことを『
まわりを見ると、お母さまとお姉さま、清乃おばさま、それに初さまも同じ目をしておられた。口では何もおっしゃらないけれど、田鶴さまの言われたことに賛同しておいでなのは、わかる。
緋方、と呼ばれる女たち。
清乃おばさまだけは歌媛を務めていらっしゃらないけれど、それでもみなヒキあるいはセイケイとの戦いを経験してこられた方々だ。五人が並んで座っている姿は、微笑を浮かべておられるのに、威圧されるような静かな迫力があった。
私は、深く息をついた。
「――そうですか」
そして顔から笑みを消す。
私とて、色好い返事を期待していたわけではない。言ってみただけ。言ってみたかっただけ。最後の悪あがきだ。
けれどもそれももう、果てた。
何もかも、もうどうでもいい気分だった。
明日。全ては明日なのだ。
今は何もかも忘れてしまいたかった。
だって、この短い間に、いろいろなことがありすぎた――。
◇
明日の朝は、早い。
今のうちに多少なりとも睡眠をとっておくように言われて、かなり早い時間ではあるけれども、床に就いた。
眠りは浅く、何度も目を覚ました。
あまり心地好くない、まどろみの中。
切れ切れに、夢を見た。
くるくる変わる場面。ぼんやりした夢で、出てくる人の顔もよくわからない。
脈絡のない、言葉の断片。
なのに、その一つ一つが、突き刺さる。
『――いい森だ。風が歌を歌っている』
『海が、見えるかと思って。いつかここを出て、海のそばで暮らすのよ。それが、私の夢なの』
『俺が何者であっても、俺のそばにいてくれるか』
『どうしてこの一瞬が、永遠に続かないのかしら。〝永遠〟は、存在しないのかしら』
『きっと、君を迎えにくる。それまで待っていてくれるか?』
『たとえ千年の月日が過ぎようとも、私は永遠に、あなたを想っている――』
目覚めたとき、なぜか、泣いていた。
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