三
「すまなかった。
何日かあと、梓のいないときに
「いいの。びっくりはしたけど、怒ってなんかないから」
流斗と梓の二人は、大滝村に顔を出すでもなく、このあたりにしばらく留まっていた。訊くと、森の中で寝泊まりしていたという。
梓はここに留まることを嫌がっていたのだが、流斗が真汐にきちんと謝るまでは、と言い張ったのだ。梓は怒って、ふらりとどこかへ行ってしまった。流斗が捜しにくることを期待していたのだろうが、彼はそうしなかった。梓のわがままには慣れていた。
「ずっとそうなんだよ、あいつは。無理難題を言って俺を困らせて、それでも俺が何とかしてやると、もっと難題をふっかけてくるんだ。全く、世話が焼ける」
その言い方に、真汐は何となく笑ってしまった。
「――どうした?」
「何のかの言っても、大事なのね、彼女が」
これで本当に彼女が戻ってこなかったら、きっと心配して捜しにいくのだろう。その様子が想像できて、純粋に梓がうらやましいと思った。
「梓さんとは、ずいぶん長い付き合いみたいね。出身が同じとか」
「え? あ、ああ」
真汐の軽い問いに、なぜか流斗は過敏な反応を示した。もしかして、彼らが流れなければならない事情と関係があったのかもしれない。
「悪いこと、訊いたかしら」
「いや……大したことじゃないんだ。確かに俺と梓とは、幼なじみだよ――村を出てからは、世界で二人きりの、大切な仲間だ」
流斗の言葉には、含みがあった。
それに気づいているのかいないのか、真汐はつぶやく。
「――二人きりでも、仲間がいればいいわ」
だがすぐに気を取り直して、たずねた。
「ここにはいつまでいるつもり?」
「さあな。あいつはここを離れたがっているんだ」
「じゃあ、すぐにいなくなってしまうの? ――せっかく、珍しい歌を聞かせてあげようと思ったのに」
思ってもいなかった言葉が、口をついて出た。自分でも、驚く。
そんなつもりでたずねたわけではなかったのに、答えを聞いた瞬間、彼を引き留めたくなっていることに気づいたのだ。
安心して一人になれる森。けれども、真汐も孤独は淋しかった。彼の知っている海の話が聞きたかった。あと一日でも二日でも、ここにいてほしかった。
でも、それをどう口にしていいのかわからない。母が死んで以来、まともに人と話したことなどなかった。
「珍しい歌?」
「お母さまから教わったの。このあたりの歌とは全然違うのよ――って、いろんなところ旅してるあなたたちには、大して珍しくないかもね」
言いながら、顔が赤くなっていく。何わけのわからないことを言ってるんだろう、私。
そう思いながら、恐る恐る彼の顔を見る。
流斗はくすっと笑って、言った。
「――いや、聞いてみたいな」
冬がはるか遠くに去り、桜が盛りを過ぎようとしても、流斗と梓の二人は遠くへ旅立ちはしなかった。
梓が嫌がったのだろう、ずっと大滝村のそばの森にいるわけではない。けれどもときどき流斗は一人で滝口に姿を見せ、山向こうの
流斗が今日来るか、明日来るかと真汐は毎日滝口へと通った。来ない日が続くと、彼はもう自分の手の届かない遠くへ行ってしまったのではないかと、ひどく不安になった。彼と話していても、いつ彼がいなくなってしまうかとそればかりを恐れていた。
真汐が彼に想いを告げ、同じ言葉を彼から返してもらうようになっても、不安は消えなかった。
「真汐……俺が何者であっても、俺のそばにいてくれるか」
時折、彼はそんなことをたずねた。理由を訊き返しても、笑ってごまかすだけでまともに答えようとしない。
「何でもないさ、訊いてみただけだ」
そう言って、強く真汐を抱き締める。
流斗の腕の中にいても、彼が本当には自分に心を開いていないのを、真汐は感じていた。
それでもよかった。彼が何を自分に隠していようと、彼と一緒にいられるだけで幸せだった。それ以上は望まなかった。
だからこそ不安だった――あの、梓という娘の存在が。
梓と直接会ったことはあの一度しかない。けれども流斗から、何度も梓の話は聞いた。そのこと自体、二人の深い絆を物語る。そして、真汐をいきなり叩いたときに見せたあの激しさ、想いの強さ。
いつか彼女が、自分の手出しのできない世界へ、流斗を連れて行ってしまうのではないか――
「どうしてこの一瞬が、永遠に続かないのかしら。〝永遠〟は、存在しないのかしら」
「あるさ、多分な」
真汐のつぶやきに、流斗はそう答える。
「でも、それは君の考えているものとは、違うものかもしれない」
「流斗?」
真汐は彼を見上げる。意味のわからない不思議なことを言う彼が、すでに別世界にいるかのように思えた……。
◇
たびたび自分を置いていなくなる流斗が、真汐と会っていることに梓は気づいた。そして烈火のごとく怒った。
「あんな娘の、どこがそんなにいいのよ!」
糾弾するかのように、言葉を投げつけてくる。
「忘れたの、流斗。あたしたちは、世界で二人きり。普通の生活なんて送れない存在なのよ。本当のことを知ったら、あの娘だってきっと逃げ出すわ」
流斗は言葉に詰まった。彼女の言葉がある意味正しいことは、彼にも否定できなかったから。それこそ、彼がずっと恐れていたことだった。
その様子を見て取った梓は、今度は甘えるように、甘やかすように、艶のある声で語りかける。
「ねえ流斗。あなたのことを理解してあげられるのは、このあたしだけなのよ。あたしたち二人には、他に何も必要ないはずだわ。お互い以外のどんな者も、社会も、何もかも。そうでしょ」
「梓……頼む、わかってくれ」
絞り出すように流斗は言った。
「俺にとってお前は特別な存在だ。それは、この先俺がどうなったって、変わるものではない。だが、お前に対する感情と真汐に対する想いとは、全く別なものなんだ。真汐となら、普通に暮らせそうな気がする。いや、暮らしたいと思う」
「嫌!」
梓の態度が豹変した。再び、手のつけられないような怒り方になる。なだめようとする流斗の手を振り払う。
「そんなことさせない。あなたを誰にも渡しはしない。あの女にも、他の誰にも。絶対に渡しはしないわ!」
「梓!」
「渡しはしない。どんなことをしてでも止めてみせる。どんなことをしてでも――」
不意に、梓の動きが止まった。
「梓?」
梓は流斗を見て、薄笑いを浮かべた。
「そう、どんなことをしてでもね」
紅をさしたように赤い唇が、いびつに歪んだ。
◇
山二つ越えた向こうの村が何者かに襲われたという噂で、大滝村はもちきりだった。真汐は、たまたま村のほうに降りていったときにそれを耳にした。
「女も子供も、皆殺しになったそうだで」
「そいつがひとにらみすると、身体から火の手が上がるってえ話だ」
「ヒキって名前の妖怪だとよ」
「もう一匹、セイケイってのもいるそうじゃねえか。ああおっかねえ」
(妖、怪……?)
真汐は何か心に引っかかるものを感じた。最近、身のまわりで感じる、かすかな火の匂い。何か関係があるのだろうか?
数日後。今度はその隣りの村が襲われた。命辛々逃げてきた男が、犯人はセイケイとヒキという二匹組の妖怪の、ヒキのほうだと語った。
半月のうちに、五つの村が灰になった。襲ったのはいずれもヒキと名乗る妖怪で、どの村でも自分にはもう一匹仲間がいるのだと吹聴するのを忘れなかった。あたりの村々は、セイケイとヒキに対する恐怖に包まれた。
「この前は曲の村だった。次は……」
特に大滝村の者たちはその思いに囚われ、ふるえあがっていた。
「こっちから進んで
噂の真偽はともかく、村人たちはそれにすがろうとしていた。
そして、一人の娘に白羽の矢を立てた――。
「真汐……話がある」
ある夜、流斗が初めて森の外の彼女の家を訪れた。
話があると言っておきながら、なかなか流斗は切り出そうとしなかった。ひどくためらっている。
だから、真汐から、口を開いた。
「セイケイと、ヒキのことね。あれは、あなたたちでしょう」
「真汐!?」
流斗が大声を上げる。
「こんなこというと悪いけれど、あなたたちには何かあるって、最初から思っていたわ。あなたたちはこの辺の山中をずっとうろうろしていたみたいだし、ヒキが現れたのはごく最近だしね。でもまさか、本当に……」
「信じてくれ、俺は何もしていない」
流斗はまっすぐに真汐を見た。その瞳には濁りはなかった。けれども、翳はいつもにも増して深い。
「梓にも、確かめたわけではないんだ。だがあいつ以外にあんなことができる奴は、考えられない」
うなだれ、ひどく苦しそうな表情をして、次の言葉を言おうか言うまいか迷っている様子だった。だが、始めから今夜はそれを言うつもりでここへ来たのだ。
「俺と梓は……俺たちの生まれ育った村を、焼き滅ぼしたんだ……!」
真汐は、答えを返すことができなかった。
何か言おうと口を開きかけて、そのまま言葉を呑み込んだ。
真汐の顔を見ずに、流斗は続ける。
「俺たちには、小さい頃から普通の人間にはない力があった。梓は、火の力。俺は、風の力。そのせいで、化け物みたいに言われ続けた。俺の親は早くに死んだし、梓の親兄弟はあいつを捨てたも同然だった。ずっと二人で、俺たちは生きてきたんだ」
火と、風。
彼ら二人から感じていたものは、間違いではなかったのだ。
「成長するにつれて、梓は美しくなっていった。その梓に、村の何人かの男が、手を出そうとしたんだ。あいつは、そいつらを焼き殺した。あいつにしてみれば正当防衛だったんだ。だが、村の奴らはそうは思わなかった。俺たちを殺そうと、大勢で襲いかかってきた――梓が村に火を放った。それを俺が風を操って、燃え広がらせた。村は、火の海になった」
ごうごうと燃え盛る炎が目の前に見えるようだった。崩れ落ちる家や、逃げ惑う人々の姿さえも。
だが真汐の耳に聞こえたのは、村人たちではなく、流斗と梓の悲鳴だった……。
「流斗……」
二人の間の奇妙に深い絆、あてのない旅。時折流斗が見せる、暗い翳。
全てが、わかった気がした。
「なぜ梓が何の関係もない村を襲い始めたのかは、俺にもわからない。だが、これ以上あいつに人殺しをさせるわけにはいかない。止められるのは俺だけなんだ。俺たちは、世界で二人きりの仲間なんだから」
流斗は無理に笑顔を作った。
「もう、ここにもいられないだろう。梓を連れて遠くへ行こうと思っている――」
それは、真汐がずっと恐れていた言葉だった。いつかこんな日が来ると思っていた。でも。
「さようなら、真汐。それだけを、言いにきたんだ」
「……一緒に行こうとは言ってくれないの」
「真汐……!?」
流斗が目を見張る。
「自分が何者でもそばにいてくれるかって訊いたのは、あなたよ。あなたがいないのに、ここにいたって何もいいことなんかないわ。あなたたちが遠くへ行くなら、私も一緒に行く」
「真汐、俺たちは……」
「あなたと梓さんの間に割って入ろうなんて思ってない。でも私は、いつまでもあなたのそばにいたいの。梓さんとだって、本当は少し話してみたいと思っていたわ。もしかしたら、仲良くなれるかもしれないもの」
そこまで言って、真汐はふっと笑った。
「都合のいい考え方よね。でもね……」
流斗の、深い色をした瞳を見つめる。
海を知っていると言った、その瞳を。
「言ったでしょう。私の夢は海のそばで暮らすことだって。できることなら、あなたと。永遠に。そして一緒に、夕日を見るの……」
流斗は何も言わなかった。
沈黙の果て、彼の口から発せられる言葉が拒否なのではないかと、それを恐れた。
けれども、やがて流斗は笑みを浮かべた。
「俺も、君と海が見たい」
やさしい、本当の笑顔だった。
「梓と会って話してみるよ。きっと、君を迎えにくる。それまで待っていてくれるか?」
「もちろんよ、流斗……」
彼と生きる永遠が、すぐそこにある。
〝永遠〟は、存在するわ――
それが真実だったことを、真汐は違う形で知ることになる……。
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