第19話 動揺
あれこれと世話を焼こうとする侍女たちをグレナはようやく追い払った。自分一人で寝間着に着替え、鏡台の前に座り髪をとかす。
幼いころからいつも、自らの手でやっていたことだ。アルティも、「グレナドーラ姫」も同じ。自分たちはいつも自分たちで何もかもしてきた。誰も助けようとはしなかった。それなのに急に手出しを始めた侍女たちが、グレナにはひどく腹立たしかった。
侍女たちの翻意はあまりにも分かりやすすぎた。彼女たちはこう考えたのだろう。マルタレクス王子は自らの妃に、グレナドーラ王女を選ぼうとしているのに違いない――。
自国で打ち捨てられ、皆が保身のために距離を置こうとした王女。だが大国ノルフィージャの世継ぎの妃、将来の王妃となるのであれば話は別だ。侍女たちの目が、所作が、そう言っていた。
たとえそれが、カルメナミドが差し出す人質であったとしても?
グレナは乱暴に
憤然とした足取りで
ソファにはアルティが既にいて、カルメナミドでと同じように花茶を
「グレナ、落ち着いて」
掛けられるのはやさしい声。
「落ち着いているわよ」
対するグレナはどうしても苛立った声だった。ソファに身を投げるように座る。そんな彼女のことをソファはふんわりと包み込んだ。彼女がいつも座っている物よりはるかに座り心地が良い。だがそれさえも、グレナにとっては腹立たしかった。
部屋を見回す。茶色の色合いなのは、カルメナミドの「グレナドーラ姫」の部屋と同じ。しかし与える印象がまったく違った。わざわざ作られたタイルの茶色ではなく、木材の自然な色としての茶色。床も壁も、濃淡さまざまな木が組み合わされて、複雑で美しい模様になっていた。
グレナは手を伸ばして壁に触れた。冷たさを期待して触ったのに、それはほのかに温かかった。混乱して、すぐに彼女は手を離す。
「はい、どうぞ」
アルティが茶器を差し出した。
「……ありがとう」
従妹にまで怒りをぶつけてはいけない。彼女のせいでは全くないのだから。冷静になろうとグレナは深呼吸をした。花茶のやさしい香りが、ささくれだっていた心を少し和らげる。
「アルティの淹れてくれる花茶だけは……変わらないわ」
呟くと、従妹はやはり変わらないやさしい笑みを返してくれた。
「私にとってのグレナは、何も変わっていないもの」
グレナは従妹の体にもたれた。甘えたかった。
「そう、私は何も変わらないわ」
目を閉じる。周囲の光景を、心をかき乱す事物を締め出す。そうすれば感じるのは、従妹の淹れてくれた花茶の香りと、従妹の体の温もりだけ――。
それなのに、従妹は言い出した。
「でもこれから、グレナの周りは変わっていくのね」
グレナは目を開け、身を起こした。
「変わるのかしら?」
変わると言えば変わるのだろう。だが。
「暗殺者に
周囲に存在する人間が変わるだけだ。
「表では何事もないかのように、裏では誰も信じられない。そんな毎日がこれからも続くのよ」
そこまで言ってから、グレナは急に気がついた。
「あっ、でも一つだけ変わるわね!」
茶器を置いて夢中で従妹の手を取った。とても大事なことを忘れていたなんて。
「このノルフィージャに来たら、私が『グレナドーラ姫』になる。もうお父さまの命令は関係なくなるもの。アルティを危険な目に遭わせなくてよくなるわ!」
グレナの気持ちが一気に明るくなった。
「これはすごいことよ! 良かった、アルティ、本当に良かった!」
はしゃいで従妹に思い切り抱きつく。ソファの上で二人の身体が弾んだ。
けれど、グレナを抱きとめたアルティの手には、力は籠もっていなかった。
「そんなことじゃ、ないわ。私が言ってるのはそんなことじゃないの」
従妹はグレナの顔をのぞき込むようにした。
「ねえ……グレナ。マルタレクス王子殿下は、あなたに求婚してくださったのよ」
グレナの弾んだ気持ちは、その言葉であっという間に暗闇の底に落ちた。ずぶずぶと沈んでいく感覚。
「……弱みを握った私のほうが、人質としてふさわしいから、ね」
のどから出た声は、亡者のようだった。
「カルメナミドの国内へ干渉するのに、都合がいいから。私もお父さまも、ノルフィージャへ逆らうことはできない、だから――」
「違うわよ、グレナ」
アルティの手がグレナの冷たい頬を包んだ。子供の頬を温めようとする、母のように。
「あなたが、『アルティグレナ』が、グレナドーラだったからよ」
グレナの息が止まった。胸の中で心臓が跳ねた。熱い何かがあふれて、暴れ狂いだした。
その熱さは上へ下へなだれ込み、頭の中を掻き乱し、体の芯を揺さぶった。体がどうしようもなく震えだした。
「そんな……わけない」
震える声で必死に否定する。自分の動揺を、アルティの言葉を。だがアルティの微笑みは変わらずやさしかった。
「思い出して。マルタレクス王子殿下が、剣を抜いて駆けつけてくださった時。あの方は、あなたを呼んだ」
グレナの脳裏を彼の姿がよぎった。彼の声がよみがえった。彼はまっさきに言ったのだ、アルティグレナ、無事か。
「あの方が守ろうとしたのは『グレナドーラ姫』じゃない」
自分のために、剣を取ってくれた――?
「――まさか!」
激しく叫んで、グレナはアルティを突き飛ばし身体を離した。
「まさか、そんなわけない! 信じられない! あんな方のことなんて!」
いなかった。今まで、そんな人はいなかった。
グレナは両手で自分の頭を
「信じられない! 私は他の誰も、信じない!」
アルティだけ。世界の中には、自分と従妹だけ。ずっとそうだった。
怖い。怖い。怖い。苦しい。苦しい。苦しい。
だから、自分はずっと身を縮めて、自分を守ってきた。
グレナは身体を小さく丸めた。手足を引き寄せ、頭を膝に押しつけて。
狭く暗い、箱の中にいた時のように。
「グレナ……」
誰かが自分を呼ぶ、声がした。はっとグレナは顔を上げた。
アルティがいた。グレナに突き飛ばされ床に崩れたまま、片腕だけをグレナに向けて伸ばしていた。
「グレナ……」
か細い、声。
「あ、アルティ……ごめんなさい、ごめんなさい……っ……!」
自分のしたことにようやく気づき、グレナは動転してアルティの腕を取る。従妹の体を引き起こし、再び抱きしめた。
「ごめんなさい、私どうかしてたわ。許して、アルティ、ごめんなさい……!」
「いいのよ、グレナ」
アルティの手がやさしくグレナの髪を撫でる。
「大丈夫、大丈夫よ……」
従妹の囁きがグレナの耳に忍び込む。悪夢を見た子供を安心させる、おだやかな魔法の呪文。
「大丈夫よ……」
ずっと、グレナが聞いてきた呪文。
どのくらいそうしていただろう。震えがやっと収まったグレナの体から、アルティがそっと、本当にそっと離れた。
「もう、落ち着いた?」
グレナは返事もできず、ただ
「じゃあ、私は行くわね」
そう言ってアルティは立ち上がった。グレナは驚き、ひどく慌てる。
「アルティ、どこへ行くの?」
「私の部屋よ」
微笑んだまま、従妹は離れていこうとする。グレナは焦ってその手を掴んだ。
「待って、怒ったの? ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「怒ってなんかいないわよ」
アルティはグレナの手を、まるで羽根がそうするように、軽く叩いた。なだめる仕草。
「ならどうして。いつものように一緒に寝てくれないの?」
「だってグレナ」
従妹の笑顔は、いつもと変わらずやさしい。
「ここでは刺客に襲われる心配はないもの。私が『グレナドーラ姫』になる必要もないし……私があなたに守ってもらう必要もない。別々に……眠って、いいのよ。だから……」
やさしい、おやすみなさいの声。それだけを置いて従妹は部屋を出ていった。
グレナは一人、取り残された。
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