この手に剣を、その手に誓いを

良前 収

序章 王子の氷室

第1話 氷菓子

 剣の鍛錬を終えた王子マルタレクスは、大急ぎで身なりを整えようとしていた。


 彼が鏡を見れば、そこには金の短髪が乱れに乱れて頬もすっかり上気した、青い目の男児が映っていた。そもそも服が粗い布地の鍛錬着、このままではとてもではないが大事な客人の前には出られない。


「着替える! あの赤い……いや、黄色の服がいい!」


 控えていた侍女たちが笑みをこぼしながら動いた。


 マルタレクスの服が脱がされ、指定の黄の盛装が用意される間に顔と手足が冷たい水で洗われる。彼はあれこれ注文をつけながら、凝った服を着付けられていった。そうして着替えが終われば、そこには立派な小さな王子が完成していた。


 自分の姿を鏡でもう一度しっかり確認してから、マルタレクスは自室を飛び出した。走るに近い早足に侍従が注意の声を上げるが、彼は聞いてはいない。


 ノルフィージャ王国の若年の王子、すなわち十才のマルタレクスにとって、毎朝の剣の鍛錬は多少の理由ではおこたることのできない大事な勤めだった。だがその日に限り、マルタレクスの「隣国からの賓客をもてなすのも世継ぎの王子として大事な勤めだ」という強弁が通り、彼はいつもより鍛錬の時間を短くすることに成功していた。


 客間付きの侍女が、やってきた彼を見て扉を叩く。


「マルタレクス王子殿下がいらっしゃいました」


 中から声が応じるのももどかしく、彼は自分の手で扉を開いた。


「王子殿下!」


 とたんに上がった弾んだ声。小さな姿が彼の方へ駆け寄ってくる。やわらかい黄色でたっぷりとひだの取られたドレス。同色のヴェールで隠されている顔は、きっと笑顔に違いなかった。


 それは隣国からやって来た幼い王女だった。


 マルタレクスも満面の笑顔で少女を迎え、うやうやしく手を取って挨拶の辞を述べた。


「グレナドーラ姫には、ご機嫌麗しく」


 その姫はまだ七つになったばかりだそうなのに、王族の未婚女性の習わし通り、ヴェールを頭から被ってきちんと顔を隠していた。それがかえって可愛らしくて、だからマルタレクスは彼女を一人前のレディとして扱うことにしていた。


「王子殿下にお会いできて、うれしゅうございます」


 ヴェールと同じように、少女の言葉も澄ましたもの。けれどかすかに覗いている口元は無邪気にほころんでいた。


 まるでままごとのような彼と幼い少女のやり取りを、ソファに座った少女の兄は無表情に眺めていた。一方、少女の姉は一瞬だけマルタレクスに目を向けたものの、そのまま何もなかったように彼の姉たちとのお喋りを続けていた。マルタレクスも、自分をはなから無視している姉たちのことは気にも留めていなかった。


「姫、今日は我が王宮の庭園へ行きませんか? ノルフィージャの夏ならではの、様々な花が咲いています」


 幼い少女は首を傾げる。


「この国に咲くお花は、やっぱりカルメナミドとは違うのですか?」

「ええ、そう聞いています」

「じゃあ見たことのないお花があるかしら!」


 はしゃぐ少女の様子に、よしとマルタレクスは頷く。彼女の手を取ったまま振り返って、少女の兄に許可を求めた。


「コルンヘルム殿、姫をお借りしてもよろしいですか?」

「……ええ」


 相手は変わらぬ無表情で、ごく短くだけ答えた。


 隣国からの賓客をもてなすという意味なら、世継ぎの王子同士で親睦しんぼくを深めるべきなのだが。コルンヘルム王子の側も、マルタレクスに対して交流を持とうという姿勢をまったく見せていなかった。


「では参りましょう、グレナドーラ姫」

「はい!」


 マルタレクスは幼い姫の手をしっかりと握り、意気揚々と客間を出た。


 渡り廊下へ進むと、手すりの合間から見える景色が珍しいのか、少女はそちらへしきりに顔を向けた。彼はいったん立ち止まってやることにした。


「この場所からは、街がよく見えるでしょう?」

「はい、変わった屋根のおうち!」


 冬の雪に耐えるための急勾配の大屋根。マルタレクスにはありふれたものだったが、少女の目には変わったものに見えるのだろう。


 手すりより目を高くしようと、少女は軽やかに飛び跳ねた。彼女の背で、木々の幹を思わせる色の髪が踊る。金や白金の髪ばかりを見てきたマルタレクスにとって、少女の髪の色こそが新鮮で、小さな憧れを感じさせるものだった。


 ドレスの黄色と少女の髪は、とてもよく合っている。それに、自分が着てきた服の色とも。ただの偶然だったが、マルタレクスは内心、自分の判断の正しさがひどくうれしかった。


 ノルフィージャ王国とカルメナミド王国は緩やかな山地を挟んで北と南に隣り合っている。互いに「兄弟国」と呼び習わしているほどの、古くからの友好がある関係だった。


 その時は、カルメナミドの王コルンスタン自らが、王子王女を伴ってノルフィージャを訪れていた。十六才の姉王女、十二才の兄王子、そして七才の末の王女の、三人の子供たち。王は王どうしで話し合いや決め事をするのに忙しく、カルメナミドの王子王女の相手をするのはノルフィージャの王子王女の役目となっていた。


 マルタレクスが会ってみると、隣国の王子はいつも無表情で覇気もなく、一緒にいてもつまらない少年だった。姉王女のほうはひどく気位が高い娘で、年下の少年など歯牙にもかけられなかった。


 そうして現れたのが、幼い末のグレナドーラ姫である。たった七つで母親とも離れて異国にやってきて、寂しい思いをしているのではないかとマルタレクスには気になった。それで頻繁に話しかけたり、王宮の中をいろいろ案内してやったりして構ってやった。するとあっという間に幼い少女は彼に懐いてきた。


 王子殿下王子殿下と、小さな足で駆け寄ってくる。後ろをどこまでもついてこようとする。おかげでマルタレクスはすっかりグレナドーラ姫のことが気に入ってしまった。末子であった彼にとって少女はまるで妹ができたようでもあった。


 こういったわけでマルタレクスは、朝の剣の鍛錬を短くする画策までするようになったのである。


「ほら、姫。これがナナカマドの木ですよ」


 手をつないで庭園の小道を歩きながら、少女に説明する。示した背の高い木には、真っ白な花がいっぱいに咲いていた。


「お花がたくさん! ななかまど、カルメナミドにはないです」

「秋には真っ赤なきれいな実をつけるんですよ」

「わあ、見てみたい!」


 マルタレクスは思わずにっこり笑った。


「こっちにあるのは――」

「あの赤い花は――」


 次々と少女に名前を教えていくと、その度に少女は尊敬の声を上げてくれた。


「マルタレクス殿下は、本当に物知りです。お兄さまよりもずっといっぱいご存じ!」


 少女の賛辞に、マルタレクスは思いきり胸を張った。これが聞きたくて、前日の座学の時間に教師をむりやり庭園へ引っ張りだして、主立った木や花の名前を教えさせたのだった。


「そうだ。私のことは、どうぞマルスとお呼び下さい」

「マルス……さま?」


 可愛らしく首を傾げて、少女が言う。


「うふふ、マルスさま、マルスさま」

「はい、姫」


 二人で顔を見合わせて笑う。


「じゃあ、私のこともグレナと呼んでくださいませ。お父さまもお母さまも、そう呼びます」

「ええ、グレナ姫」

「はい、マルスさま!」


 やった、とマルタレクスは思った。王族にとって愛称で呼び合うことは、とりわけ親密な間柄であることを示す大事な徴。この姫にとって、自分は特別な存在になれたのだ。


「少し日差しが強くなってきましたね、グレナ姫」

「ええ、ちょっとだけ。でも私の国より、この国はずっと涼しいです」

「ノルフィージャはカルメナミドよりも、北に大きく広がってますからね」


 マルタレクスはいいことを思いついた。侍従を呼び、「氷菓子を、姫と私に」と言い付ける。


「マルスさま、こおりがしって何ですか?」


 単語を拾いとって、少女が尋ねてくる。彼は悪戯っぽく笑ってみせた。


「とてもいいものです。たぶん、グレナ姫のお国にはないものです」

「いいものって、どんなもの?」

「すぐに来ますよ、あそこで待ちましょう」


 日陰のある東屋あずまやへと少女を導く。二人が座ってほどなく、盆を持った侍従がやってきた。


 スプーンを添えた小ぶりの器を、マルタレクスは手ずから少女に渡した。


「さあ召し上がれ」


 器にはオレンジ色がかって光を反射するものが山になっている。少女はちょっとおそるおそるといった感じに、小さくスプーンで山をすくった。口に運ぶ。


「わあ!」


 愛らしい声が上がった。


「冷たい! おいしい! こんなもの、初めて!」


 マルタレクスは破顔した。少女は夢中でスプーンを口に運んでいる。


「冬に降った雪を、氷室ひむろという所に貯めておくんです。そして夏になったら、少しずつ削って、こうして食べる」


 彼も山をすくって口に入れた。氷菓子の味付けは色々あったが、彼はこのオレンジの果汁をかけたものが一番好きだった。


「ノルフィージャの王家の者は、それぞれの氷室を持っています。新しく子供が生まれたり、妃を迎えたりすると、新しい氷室が作られる」


 ついつい自慢げに、マルタレクスは説明する。


「じゃあ、この氷菓子はマルスさまの氷室から?」

「はい」

「わあ、ありがとうございます、マルスさま!」


 本当に嬉しそうに少女は言った。声にはありありと尊敬の念がこもっていた。


 マルタレクスはもう鼻高々だった。氷室はノルフィージャでも王族だけの特権。自分は特別な者なのだと、少女に示したかったのだ。彼は満足感とともに特別な菓子を存分に味わった。


「んー……」


 聞こえた呟きに目をやると、少女がヴェールを邪魔そうにしていた。口元まであるヴェールに、スプーンの氷が触れてしまいそうになっている。たくさんの氷を一気にスプーンにすくっているせいだ。小さな子供ならではの光景に、マルタレクスはつい笑った。


「ヴェールを外してしまってはどうですか」

「でも……乳母やが、レディなら着けていなくてはって……」

「大丈夫、ここには私しかいません。私は誰にも言いませんから」


 マルタレクスは片目をつむってみせた。侍従たちはいるが、これくらいのことは王子である自分が他言無用と命令すればいいのだ。


「……いいですか?」

「はい」


 大きく頷いてみせると、少女はそうっと器とスプーンを膝に置き、そして顔の前にあったヴェールを手で持ち、頭の後ろへやった。


「内緒よ?」


 少女はマルタレクスを見上げて笑った。


 瞬間、彼の視界に飛び込んできたのは、露わになった彼女の瞳。


 マルタレクスの息が止まった。


 鮮やかな緑が、光を受けて輝いていた。宝石のように煌めいて、けれど宝石よりもずっと美しい。まるで、そう、春に芽吹いた若葉が朝日を浴びて輝いているような、そんな緑。圧倒的な生の輝き。


 彼の視界の中すべてが、その緑に、染まった。


「……内緒ですよね?」


 言葉を失っている彼に、不安そうに少女が繰り返した。


 マルタレクスは彼女の瞳を見つめたまま、ようやく答えた。


「……ええ、秘密です」

「良かった!」


 少女は安心したようにまた氷菓子を食べ始めた。その隣で、マルタレクスの手の氷菓子はただ溶けていく。


 これは秘密。これは秘密だ。


 こんなに美しい瞳は、自分だけの秘密。


 自分だけが、この若葉の色を知っている。


 それが、ノルフィージャの世継ぎの王子、マルタレクスの初恋だった。

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