第24話 兄弟
少しの間、誰も言葉を発しなかった。ベッドの王子が漏らす苦しげな息だけが聞こえていた。
この王子をそっとしておくべきなのかもしれない。毒に苦しみ、心も打ちひしがれてしまった、哀れな存在。――だがマルタレクスはあえて強い態度に出た。
「コルンヘルム殿は、これからどうなさるおつもりか」
閉じていたまぶたがわずかに開いた。
「お母上、そして筆頭大臣の罪は明白。あの二人をそのままになさるのか。妹君グレナドーラ姫を見殺しにし、そしてそのままこの国の王となられるおつもりか」
王子の空色の瞳がかすかに
「……グレナを、救いたいと……おっしゃるか」
「はい、私はグレナ姫をお救いしたい。そしてこのカルメナミドに、良き王を据えたい」
きっぱりと答えたマルタレクスの言葉を、赤毛の王子が呟くように繰り返す。
「良き……王に……私が、なれ、と……?」
「ええ、他に誰がおりましょうか」
まぶたがまた閉じ、瞳を隠した。
「母と伯父に……虐げられ……ただ一人の、味方も……友も、いな……い……こんな……私が……」
王になど。消えるような声だった。そんな彼へマルタレクスは言い切った。
「私がいます」
空色を隠すまぶたがはっきり震えた。
「いずれノルフィージャの王となる私が、コルンヘルム殿の味方と、友となりましょう」
「それ……は……」
震え、疑う声。
「ノルフィージャの……ため、か……それとも……グレナの……」
「両方です」
意図を隠しても無意味。マルタレクスはそう思って答えた。その上で続ける。
「私はグレナ姫を妃に迎えたい。そしてノルフィージャの王となれば、ノルフィージャとカルメナミドは名実ともに兄弟国となる。お分かりか」
震える王子の応えを待たず続けた。
「コルンヘルム殿と私は、
ベッドの上の王子はまだ震えて目を閉じたまま。だが口を開いた。
「一つ……伺い、たい……」
ひどく弱々しい姿、それでも力の限り、必死にしゃべっていた。
「あなたは……私を……裏切ら、ない、と……」
マルタレクスは己の左胸に手を当てた。
「誓いましょう。誇り高き
「……その、見返りに……あなたが望む、のは……グレナを……救う……」
「はい。よそ者の私だけでは、グレナ姫はどうしても救えない。あなたのお力が必要です」
初めての呼び方を舌に載せる。
「
数瞬あって。長く深いため息が聞こえた。体内のすべてを吐き出すかのような、深い深い息。
「……誰かに……」
それは泣いているようにも聞こえた。
「私の、力を……求められるなど……初めての、こと……」
そして空色の瞳が再び姿を見せた。その空は晴れ渡った色だった。
「私も……誓い、ましょう……あなたを、決して……裏切らぬと……」
空がマルタレクスを見る。
「私の……
マルタレクスはしっかりと
そして赤毛の王子はベッドの上でもがくように体を動かした。枕の下から、何かを掴み出す。
「これを、あなたに……」
握った手がマルタレクスの前で開かれた。あったのは、つながれた大小二つの鍵。ともに濁った鈍い光を放ち、
「これは?」
視線を上げ問うたマルタレクスに、王子の震える白い指が指し示す。
「そこ……飾り棚の横……腰ほどの高さ……鍵穴が、あります……」
リーアヴィンが立ち上がり、指された壁を調べた。
「……分かりにくいですが、確かにありますね」
「そこが……この、小さい鍵で……開く……」
マルタレクスははっとした。隠し通路。王や世継ぎの王子の部屋に、危急の時のために備え付けられているもの。
背に
「進んだ先の……扉は、大きい鍵で……扉を出たら、右の方向……地下牢への、階段が……」
耐えきれなくなったようにリーアヴィンが疑問の声を上げる。
「しかし無人というわけではないでしょう」
「ええ……」
床に伏せる王子は、鍵を差し出したまま言った。
「多くの兵が、いる……けれど……
「つまり我が国の王子に、カルメナミドの兵を斬れと、そうおっしゃるか?」
ノルフィージャの世継ぎの王子に、多くの兵を斬れと。そして力尽くでグレナドーラ姫を救い出せと。
カルメナミドの世継ぎは無言。だが空色の瞳が、肯定していた。
そんなことをすれば、あの祭りの日に刺客を防いだのとは比較にならないほど、大変な事が起こる。それこそノルフィージャとカルメナミドの、戦争に――つながる。
だがマルタレクスもためらうことなく、義兄の差し出す鍵を掴んだ。
「マルス」
動揺がにじんだリーアヴィンの声。それを
「私は、
「
コルンヘルム王子の口から囁きがもれる。
「はい、私が必ず、グレナ姫を救います」
マルタレクスは鍵を握りしめ、立ち上がった。リーアヴィンと目が合う。彼は小さく息を吐いたようだった。
「……分かりました。止めても聞かないでしょうから」
頷きだけ返し、隠し通路の扉の前へ立つ。黒髪のカツラはもはや捨て置いた。金髪を露わにした姿のままで、鍵を鍵穴に差し込み、ひねる。
小さな音がして錠が開いた。力を込めて押せば壁が開いていく。その先には暗く、見通すことのできない闇が、はるかに続いていた。
肌を侵す湿気とすえた臭い。冷たい石と岩、鉄格子。遠くに一つだけ見える
グレナは寝台に座っていた。美しい緑色だったドレスは無惨に汚れ、繊細な布地はところどころ裂けていた。結っていた髪も崩れてもつれ、背に流れている。連行された時に靴を失い、せめて足を覆うタイツはべったりと濡れていた。その足の甲を、何とも知れぬ生き物がすばやく
それでも、彼女は
彼女には
粘つくような静寂を破ったのは、下品な話し声だった。
「へい、大人しいもんで……つまらないぐらいでさ」
「そうか、諦めたということかな」
不自然なまでに反響する足音。グレナは鉄格子の向こうへ振り向いた。強い光が目を刺す。いくつもの
「ふん、グレナドーラ、気分はどうかな?」
勝ち誇ったように言ったのはサイルード大臣だった。灯りに照らし出されたその顔は、愉悦に歪んでいた。かたわらにぴったりと寄り添うのはソニアルーデ王妃。
「ああ、いい気味だこと。ご覧になってお兄さま、このみすぼらしさ」
「まさにこの娘にふさわしい」
グレナは微動だにしなかった。ただ、ヴェールに隠れた下でひそかに唇を噛んだ。ぎりっと、血のにじむほど。
「お前を苦しませ続けたこの小娘を、ようやく始末することができる」
「うれしいわ、全部お兄さまのおかげよ」
王妃は娼婦のように兄にしなだれかかった。兄は空いた片手で妹の頭を抱き、その髪に頬ずりした。
「かわいいソニア、お前のためなら私は何でもしよう」
「愛しているわ、お兄さま」
――おぞましい行為が、兄妹の間で交わされた。
それを終え、濡れた唇をさも美味であるようにねっとりと
「さあグレナドーラ、せめてもの情けだ。自害の名誉をお前に許そう」
ソニアルーデ王妃の
「選びなさい、毒の杯か、ナイフか」
グレナは顔を彼らに向けたまま、じっと動かなかった。
甲高い笑いの反響がようやく消えてから。
「では、ナイフを」
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