第17話 手
マルタレクスは驚いてグレナドーラ姫を見た。
「思い出されたのですか、姫?」
彼女は黙って、じっと立っていた。
もう一度問おうとして、腕に触れる彼女の手が細かく震えているのに気づく。
「姫、どうされまし――」
言葉半ばで彼女の体がグラリ大きく揺れた。
「グレナ!」
後ろで聞こえる悲鳴。マルタレクスは反射的に姫の体を支えた。彼の腕の中で、彼女の全身は激しく震えていた。手足に力がまったく入っていない。
「これは……!?」
いけない。何か危険な急変だ。マルタレクスは彼女の体を抱き上げた。かすかな違和感を感じたが構わず、見えていた
「アルティドーラ殿、誰かを、侍医を呼んでくれ!」
背後の少女にそう言ったが、なぜか彼女は動こうとしなかった。マルタレクスはともかく姫を長椅子に横たえる。
「アルティドーラ殿!」
もう一度言っても姫の従妹はその場に立ったまま、首を横に振るだけ。一方で姫の体は震え続けていた。ヴェールで顔が見えないが、意識を失っているように思われた。
「姫! お気を確かに、姫……!」
かたわらに膝をつき、マルタレクスは彼女の手を握った。血の気の完全に引いた真っ白な冷たい手。
「私の声が聞こえますか、姫!」
どうしていいか分からない。自分が誰かを呼びに行くべきか? なぜアルティドーラは何もしない? 混乱の中、ただ必死に呼びかけた。
「姫、グレナ姫……グレナ姫!」
無意識に呼んでいた。本当に意識せず、子供のころの呼び方で呼んでいた。
姫の手が、ほんのわずか動いた。マルタレクスはそれを逃すまいと、さらに握った手に力を込める。
「グレナ姫、私が分かりますか……!?」
姫の手に少しだけ力が戻る。そして、本当に小さな小さな声が聞こえた。
「……マルス……さま……?」
たしかにそう言うのが聞こえた。
「はい、グレナ姫……!」
彼女の手が、彼の手を握り返した。
ややあってから姫は身じろぎした。起き上がろうとするのをマルタレクスが支えて助ける。
「……私……」
茫とした様子の彼女にアルティドーラが言った。
「グレナ、大丈夫よ。私も……マルタレクス王子殿下も、ここにいるわ」
「アルティ……」
姫は頭を巡らせて従妹を見た。
「……あなたじゃなかったの……?」
「ええ」
少し離れて立ったままの少女は頷く。
「マルタレクス王子殿下よ」
姫はかたわらにいる彼へと顔を向け、それから彼が握ったままの手を見た。突然息を飲む気配。直後、手が乱暴に振り払われた。
マルタレクスは唖然とした。グレナドーラ姫は、取り返した自分の手をきつく胸に抱いていた。
「……失礼を、致しました」
平静を装おうとしている声がヴェールの向こうから聞こえた。彼も動揺しながら、それでもできるだけやさしく話しかける。
「お体は大丈夫でしょうか、侍医を呼びましょう」
だが即座に拒否の言葉が飛んできた。
「いいえ、結構です。慣れておりますので」
「そんな――」
「失礼を、致しました」
繰り返される堅い口調。
「いえ……」
マルタレクスはただそう返すしかなかった。それでもどうしても気になって、アルティドーラを振り返り尋ねた。
「グレナドーラ姫には、度々こういった発作――があるのか?」
「はい」
少女が答える。その声は木々のざわめきにかき消されてしまいそうだった。風がさらに強くなって、枝葉の揺れ
「時折、こういったように、気を失いかけてしまうことがあるのです」
「アルティ!」
強い声がヴェールの奥から飛んだ。
「いらないことを言わないで。マルタレクス殿下がご存じになる必要は、ないことよ」
「でもグレナ」
アルティドーラは一歩前に出た。
「私は、お知りになっていただくべきだと思うわ。だって……あなたは、このノルフィージャに嫁ぐかもしれないのだもの」
「そんなこと……!」
ヴェールの陰で姫は口を手で覆ったようだった。そして無理に押し殺したような声が続く。
「そのようなことを、マルタレクス殿下の前で言うべきではないわ。王子殿下がお困りになるでしょう」
言われたマルタレクスは、二人の少女を交互に見ながら困惑していた。この少女たちは何を言い争っているのだろう?
姫は激しさを殺した声でさらに言った。
「マルタレクス殿下とノルフィージャは、セリアルーデ王女をお選びになるおつもりなのに」
えっ、と彼はグレナドーラ姫を見た。
「ちょっと待ってください」
手を挙げ二人の少女を押し
「グレナ姫もアルティドーラ殿も、落ち着いてくださいませんか」
少女たちは黙った。黙ってマルタレクスを見た。アルティドーラは真剣な顔で、グレナドーラ姫の表情はヴェールのために分からない。
彼はゆっくりと口を開いた。
「……ともかく、私はグレナ姫の御身が心配です。本当にもうお加減はよろしいのですか、グレナ姫」
間があってから、答えが返ってきた。
「はい、ご心配をおかけして申し訳ありません」
少しだけ柔らかくなった口調に安心して、彼は肩の力を抜いた。
「ではアルティドーラ殿」
もう一人の少女に向き直って尋ねる。
「どうしてグレナ姫は突然倒れられたのか? 何か、ご病気を……?」
また抗議の声を上げようとする姫を、マルタレクスは軽く手で制す。
「私はグレナ姫の御身が心配なのです」
くり返すのを聞いたアルティドーラが答えた。
「昔の記憶が……グレナを襲うのです」
小さな声。風の音にまぎれて、聞き取りづらい。
「子供のころを思い出そうとすると、昔の記憶までいちどきに蘇って。それで今の自分を見失ってしまうのです」
囁くような声。
「それは昔……グレナがこの国を訪れた直後にあった、とても悲しくつらい出来事……」
グレナドーラ姫の体が大きく震えた。考える前にマルタレクスはまた、彼女の手を取った。今度は振り払われなかった。
――マルタレクスも、そういった話は聞いたことがあった。ノルフィージャが激しい戦乱の
はっとした。もしやグレナドーラ姫は、生母と叔母が暗殺される光景を目撃したのだろうか。七才の少女が。
「グレナ姫……」
彼は握る手の力を強くした。
「大丈夫です」
絞り出すような声が返ってきた。
「身構えていれば、それほど動じませんから」
それでもマルタレクスは、さらに両手で姫の手を包むようにした。
「私がその時、おそばにいれば」
知らず、呟きがこぼれた。
「必ずや、姫と姫の大事な方を、この剣でお護りしたのに」
グレナドーラ姫が驚いた気配があった。けれどマルタレクスは、本当に自分がそうしただろうと思ったのだ。十を過ぎたばかりのまだ非力な子供であっても、恋した姫のため剣を取って戦っただろうと。
「……おかしいでしょうか?」
少し自嘲気味にマルタレクスは尋ねた。
「い……いえ……」
グレナドーラ姫は口ごもっているようだった。
「でも、そんな、信じら――」
その時いきなり激しい突風が三人に吹きつけた。
「きゃっ……!」
「きゃあっ……!」
小さな悲鳴が上がる。マルタレクスも思わず目をつぶった。顔にザッと砂粒が当たる痛みが走る。
そして再び目を開けた時に、マルタレクスの目の前にあったのは――緑の炎。
燃え盛る、こちらを射抜くような、生命の結晶のような、光り輝く緑の瞳。
アルティグレナの瞳だった。
彼女は茫然としてこちらを見ている。マルタレクスもまた、茫然と彼女を見返した。手を握り合ったまま、互いを見つめていた。
次の瞬間、彼女はばっと手を振りほどいて立ち上がった。風に飛ばされたヴェールを拾い掴むとそのまま背を向け駆けだす、王宮の方へと。
「グレナ……!」
アルティドーラもまた慌てふためいてかろうじて一礼だけして、姫を追って走っていった。
後にはマルタレクスだけが残された。
マルタレクスは膝をついたまま、まったく動くことができないまま、ただグレナ姫が逃げていった方向を見つめていた。
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