第16話 記憶
たった一人きりでマルタレクスは自室にいた。御前会議の日以来見るからに気が立っているためだろう、侍従たちからすっかり距離を置かれていて、本来であれば数名控えているべき
その日、カルメナミドから二人の王女が到着していた。表向きはマルタレクスが受けた歓待への返礼としての招待。そして同時に先方へは、ノルフィージャの国王と王妃が自らの目で王子の妃となる姫を選びたいがため、と伝えてあった。
彼がカルメナミドに赴いた時と同じく、二人の王女も真っ先に国王と王妃、そして王子の彼の前にやって来た。姉王女は異国の地でも変わらず、自分こそがここに嫁ぐのだと疑っていない言動。一方妹王女も、口数少なく控えめな様子は変わらなかった。
しかしそれよりもマルタレクスにとって予想外だったこと。女騎士アルティグレナの姿が、ない。自国を遠く離れる旅、彼女は当然グレナドーラ姫に従ってここへ来るものと思っていた。しかしいない。
謁見の場にいなかっただけかとも思い、王女の随行員を世話する役の者へ尋ねたのだが、やはり見なかったらしい。女性の騎士という目立つ存在、見落とされたとも思えなかった。
疑問と不安がマルタレクスの中で膨れ上がっていた。もしや、自分が避けられているのか。あるいはグレナドーラ姫が彼女を遠ざけたのか。――自分の想いが、考えが、知られている?
それとも、彼女が何か旅ができないような大病を患ったのでは。あるいは重傷を負った?
マルタレクスの頭に悪い予想があふれかえって、割れそうなほどになっていた。どす黒い混乱が激しく渦を巻いている。負い目と罪悪感がそれに拍車をかける。
もうどうにもならなくなるまでさほど時間はかからなかった。衝動的に立ち上がり、扉へ向かった。開け放って部屋の外に飛び出す。侍従の「王子殿下どちらへ!?」の声を無視し、マルタレクスは駆け出した。
確認すればよいのだ。カルメナミドの者、グレナドーラ姫付きの者を捕まえて。グレナドーラ姫自身でもいい。アルティグレナが本当に来ていないのか、来ていないのなら何故なのか。
立場も踏むべき手順も、すべて忘れてマルタレクスは走っていた。グレナドーラ姫の部屋へ向かって。
勢いのまま廊下の角を曲がって、
「きゃっ……!」
誰かに激しくぶつかり、悲鳴が上がった。マルタレクスは踏みとどまったが、相手は転倒して尻餅をついた。
「す、すまない、大丈夫か?」
見れば、若い娘だった。彼はとっさに謝りながら手を差し出した。見覚えがないからカルメナミド側の侍女だろうか。
「は、はい、申し訳ありません……」
彼女はマルタレクスの手を取って立ち上がった。そして彼の顔を見て、はっとしたように飛びすさる。即座にその場に膝をつき、床に着きそうなほど頭を深く下げた。
「も、申し訳ございません! 王子殿下に大変なご無礼を……!」
「いや、私が走っていたんだ。君が謝ることはない」
マルタレクスは少し奇妙に思った。どうしてこの侍女は、一目で自分のことが分かったのだろう。自分は彼女を知らないのに。
あまりに恐縮しているのでくり返しなだめて、それでようやく彼女は頭を上げる。その顔をよくよく見て、おやと思った。彼女のことは知らない、だが、誰かに似ている――。
気づいた時、マルタレクスはあっと声を上げかけた。
「君はもしや、アルティグレナ殿の縁者ではないか?」
若い娘は驚いたように目を瞬き、そしてまた頭を垂れて言った。
「はい……私はアルティグレナの妹、アルティドーラにございます」
道理で。髪の色や背格好、声もよく似ている。けれど瞳の色は、似てはいるけれども、あの女騎士のほうがもっとずっと美しい緑だ。そんな風に思いながら、同時にマルタレクスは勢い込んだ。願ってもいない機会だ。
「アルティグレナ殿の姿が見えないが、彼女はどうしたのだろう。彼女なら必ず、王女方の供としてやって来ると思っていたのだが」
アルティドーラという娘は顔を上げてマルタレクスを見た。姉のものより淡い色合いの瞳が、輝いていた。
「アルティグレナは……足を痛めてしまい、この度はグレナドーラ姫にお供することがかないませんでした」
「足を」
マルタレクスは息を飲んだ。
「それはひどい怪我なのか? まさか、また何か――」
襲撃があったのか。そう訊こうとするのを押し
「いえ、大した怪我ではありません。ただ……グレナドーラ姫が、大事を取るようにとお命じになりましたため……」
そうか、とマルタレクスは少し安堵した。なら足をくじいた程度なのかもしれない。
ちょうどその時、「お、王子殿下、こんな所にいらしたのですか!」と侍従の声が飛んできた。「もうすぐ晩餐が始まります。ど、どうぞお支度を」
怖々と彼のほうを見ている侍従へ、仕方なく頷いてみせる。それでももう一度娘へと振り返った。
「ぶつかってすまなかったな。……後で、また話を聞かせてくれ」
彼女の返事も待たず、マルタレクスはその場を足早に立ち去った。
翌日、朝、マルタレクスは王宮の庭園で待っていた。空は明るく晴れているが、風が少し強く肌寒い。庭園を散策するにはあまり適していない日かもしれなかった。彼は少し神経質に、上着の襟を立てた。
じりじりと待ち続け、そしてやっと待ち人が現れた。グレナドーラ姫とアルティドーラが連れ立ってやって来る。マルタレクスにとって好都合なことに、他に供はいなかった。
姫は淡い黄色の、ふわりと布を多く重ねたドレスだった。濃茶の髪は頭の上でゆるく結われてから背に流されていたが、風にやや吹き乱されている。付き添いの娘も、主と揃えたかのようなあっさりとした黄の服だった。
二人へマルタレクスは駆け出す勢いで歩み寄る。まずは姫の手を取った。
「グレナドーラ姫には、ご機嫌麗しく」
習い性になった挨拶を言ったとたん、ひどく後ろめたい思いにかられた。この台詞を熱心にくり返した幼い頃と、変わってしまったのは自分だった。
「お招きいただきありがとうございます、王子殿下」
応えたグレナドーラ姫の手はどこか
「ご案内いたしましょう、ようやくこの地も春の盛りとなりました。花も咲き揃っています」
アルティドーラ殿も一緒にと声をかけると、女騎士の妹は礼をして応えた。三人だけで木々の立ち並ぶ庭園を巡り始める。グレナドーラ姫は空いている手で、風に吹かれるドレスを押さえていた。やはり屋外を歩くには適していない日だった。
マルタレクスは、いつどのようにしてアルティグレナの話を持ち出すべきか、悩んだ。彼女たちを耳目の少ない庭園に連れ出したのは全てそのためだった。だが、言い出すことができなくなっていた。グレナドーラ姫に対する罪悪感のために。それに気づいているのか否か、姫の所作も硬い。
「姫は、覚えていらっしゃらないと思いますが」
「昔、お小さい姫をご案内した折に、ノルフィージャにしかない菓子を差し上げました」
あのころは、自分はこの姫に恋をしていた。マルタレクスの胸が針で刺されたように痛む。
「菓子を……?」
姫が細い声を出した。ヴェールの奥でくぐもって、よく聞こえない。
「ええ、とても冷たくて、甘酸っぱいものを。姫は初めて食べたとおっしゃっていました」
マルタレクスは東屋を見ていた。小さなグレナ姫の姿が目に浮かんだ。愛らしさにあふれていた、幼い少女。
「冷たい……菓子……」
かたわらの姫が呟く。彼女も東屋を見ているようだった。
「……それは……オレンジの……」
そして彼女は立ち止まった。
「……こおりがし……?」
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