第4章 失うことと得られぬこと

第15話 決定

 マルタレクスはノルフィージャ王宮の訓練場にいた。鎖帷子くさりかたびらに大盾を背負い兜を被った姿で、木柱の前に立つ。重い両手剣を力尽くで振り上げ、柱へ叩き込んだ。


 大きな鈍い音。両腕にしびれが走り、マルタレクスは顔を歪めた。カルメナミド滞在の間は素振り程度しかできなかったために、体がなまり出していたらしい。


 こんなことでは駄目だ。


 また剣を振り上げ柱に打ち込んだ。何度も何度も、何度も。


 柱から木片が飛び散る。剣は訓練用のなまくらだ。それでも激しく打ちつければ、木製の柱は削り取られる。元から深い傷が刻まれた柱にさらに傷が増えていく。


 訓練を行うアルティグレナの姿が脳裏によぎった。


 急にマルタレクスは剣を下ろした。鞘に収めるでもなく、だらりとぶら下げる。剣の鍛錬とは無心で行うものだ――鍛錬を行えば無心になれると、思っていた。


 汗が面当てに覆われた顔を流れていく。苦い笑いが浮かんだ。幼い頃の剣の師匠なら、今のこの様子を怒鳴り飛ばしたことだろう。


 情けない。戦神の守護マルティ-アレクスを名に負う者が、何を腑抜ふぬけているのか。守護アレクスの名は何のためなのか。


 マルタレクスはまた剣を頭上に掲げた。柱目がけて振り下ろす。柱と剣から響くひずんだ音。剣が正しく入っていない証拠。だが彼は剣を振り下ろし続けた。


 彼が守るべきは第一にノルフィージャ王国。それが世継ぎの王子の務め。


 ではノルフィージャ王国を守るとは。武を鍛え、学を修め、次の王にふさわしい者となること。――そしてしかるべき妃をめとること。


 マルタレクスは執拗しつように柱を打ち続ける。


 しかるべき妃とは。王妃にふさわしい才覚を持ち、王妃にふさわしい家柄であり、そして何より、その婚姻がノルフィージャに益をもたらすこと。


 一際激しい音が鳴る。反動に耐えかねてとうとう剣を取り落とした。遠巻きにしていた者たちがざわめく。しかしマルタレクスにそれを気にする余裕はなかった。


 自分が守護したいのは何か。――自分がしたいことは何か。自分の、望み。


 燃え盛る緑の炎。生命の力あふれる、きらめく瞳。


 どうすれば、彼女を――。


 彼は地面に転がる剣を拾い上げた。足りない、何かが。それは何だ? 自分は一体、どうすればいい?


 また柱を打ち据えようと、彼は剣を振り上げた。そこに鋭い声がかかった。


「マルス!」


 一拍おいて、マルタレクスは剣を下ろし、声の主をにらんだ。


「……なんだ、リーン」


「なんだじゃありません。剣は素人同然の私ですけどね、見れば分かります。そのままじゃ怪我をしますよ、あなたは」


 マルタレクスは舌打ちをして、しかし剣を鞘に収めた。


「言うじゃないか、剣術指南がこぞってさじを投げたお前が」

「はい、それが『ご学友』の私の役目ですから」


 布を差し出してくる。


「それにそろそろ御前会議の時間です。今日の議題、あなたが出ないわけにはいかないでしょう?」


 言われて、マルタレクスは乱暴に兜を脱いだ。ひったくるように布を取って顔を拭う。汗が目に入り、染みた。


 空を仰ぐ。気づけば、太陽はすでに南の中天近かった。あの方角にグレナドーラ姫と――アルティグレナがいるはずだった。



 御前会議は、予想通り、紛糾した。


 その中でマルタレクスはただ沈黙していた。かたわらに座るリーアヴィンも、珍しく発言をしようとしない。


 会議の議題はカルメナミドへの今後の対応、持つべき関係。王子の身が剣に晒されたことを、ノルフィージャとしてどう扱うのか。そもそもカルメナミドの王女を妃に迎える話はどうするのか。


 一つ、王子を危険に遭わせたことをとがめ、カルメナミドに賠償を求める。


 一つ、王子を危険に遭わせたことを咎め、カルメナミドに武力攻撃を行う。


 一つ、王子を危険に遭わせたことを不問にする代わりに、カルメナミドの内政へ干渉する。


 一つ、王子を危険に遭わせたことを不問にし、王女の一人を娶った上で人質とし、カルメナミドの内政へ干渉する。


 様々な意見が出た。多くの過激なもの、少しの穏便なもの。もともと武門の力が強いノルフィージャには、血の気の多い者が多い。興奮して怒号めいた声を張り上げる者もいた。


 話を複雑にする要因があった。ノルフィージャにとってカルメナミドという国は必要不可欠だという、動かしがたい事実。北方に位置するノルフィージャは食料生産力が弱い。カルメナミドから運ばれてくる農産物がなくなれば、途端に冬を越すのが難しくなりかねない。だからといって、完全な併呑へいどんを安易に謀るにはカルメナミド王国は広大かつ強大すぎた。


 カルメナミド側から持ちかけられた、カルメナミドの王女をノルフィージャの世継ぎが娶るという提案。それを受けただけの理由がノルフィージャにもあったのだ。そしてそれは、王子が「自ら進んで危険に飛び込んだ」後になっても、全く変わらずそこにあった。


 議論が完全に硬直に陥ろうとした時、マルティネル国王――マルタレクスの父が、おもむろに右手を挙げた。すっと場が静まり、皆が王へ注目する。


「皆の意見はよく分かった」


 会議の間全体に王の声が響き渡った。


「しかし、この事態を引き起こした者であり、この結論によって最もその身が左右される者である、王子がまだ意見を述べておらぬ」


 マルタレクスは父王に見られていた。


「マルタレクス、そなたの意見はどうなのだ」


 指名を受けてしまえば、発言をせざるを得なかった。マルタレクスはゆっくりと立ち上がる。居並ぶ重臣たちの視線が一身に集まった。


 世継ぎの王子として、こういったことは初めてではない。だがその時は、まるで押しつぶされそうなほどの重圧を感じた。


「父王陛下に申し上げます」


 声が、出しにくい。


「まず……カルメナミドに対し、何らかの武力を行使することには反対いたします」


 軽いざわめき。


「それは何故か」


 父王の問い。


「カルメナミドの民の心は、その王室から離れてはおりません。そういった国に武力を振るえば手痛い反撃を受けることになるでしょう。我が国が益を得ることは、難しいかと存じます」


 頷きが返ってきた。視界の隅で、リーアヴィンも小さく頷いていた。


「ではどうするのが良いと、そなたは考えるか」


 言葉に詰まった。胸が空気を求め、上下する。


 その場で、望みを、言うわけにはいかなかった。カルメナミドの女騎士、アルティグレナを――求めているなどとは。


「カルメナミドの王女を、我が妃に迎え……カルメナミド王室への人質とする……のが良いと、考えます」


 また走るざわめきを、マルタレクスはずっと遠いもののように聞いた。


「その上で、カルメナミド王国へ干渉し……ノルフィージャにとって良い方向へと、動かす。そのためには――」


 彼は言葉を切った。父王が、リーアヴィンが、周囲の皆が、彼を見ている。


「グレナドーラ王女を、我が妃とするべきと、存じます」


 ああ今、自分は、最低のことを言っている。


「しかし、カルメナミドの実権はサイルード筆頭大臣が握っていると聞いた。ならばその姪であるセリアルーデ王女を妃とするべきではないのか」


 当然の問いを父王が発した。マルタレクスは夢の中にいるように口を動かす。


「サイルード大臣は狡猾に過ぎ、その姪を迎えることで、逆に我が国という獅子の身中に虫を入れることに、なりかねません。またグレナドーラ王女を娶る……のであれば、サイルード大臣にないがしろにされてきた、コルンスタン国王とコルンヘルム王子に、働きかけ、大臣を除かせることも、将来に可能でしょう」


 そこまで言って、それで力が抜けたように着席した。


 大臣の一人が挙手をした。ノルフィージャには貴重と言える、穏健派の者。マルティネル王が許すと彼も立ち上がった。


「私は王子殿下のおっしゃる案に賛同いたします。付け加えて具体的な策と致しまして、かの地の二人の王女をここノルフィージャに招くことをご提案します」


 いぶかしむ声が上がるも、大臣は続けた。


「いきなり居丈高な態度をこちらが取るのではなく、礼を尽くして妃を選ぶふりをする。こうすることで、カルメナミド側が恐慌状態に陥るのを防ぐことができます。またカルメナミド側が推す第一王女でなく第二王女をお妃に迎える件についても、この地での様子を理由にできますので、好都合かと考えます」


 大臣が着席すると、マルティネル王はふむと指で顎をひねった。


「両名の言には一理ある、か」


 その後も討議は続いたが、マルタレクスはもう何も言わず押し黙っていた。そして結局、マルタレクスと穏健派大臣の案をれるという結論に、なった。


 リーアヴィンはとうとう一言も発言しなかった。



 起立して父王の退出を見送ってから、マルタレクスはふらつく足取りで会議室を出た。悪夢の中にいるかのように現実感がなかった。だが現実だった。会議での彼の発言も、彼がやろうとしていることも。


 突然、腕を強く掴まれた。後ろに大きく引かれ、たたらを踏む。


 のろのろと振り向くと、そこにいたのはリーアヴィンだった。友に似合わぬ力、そして険しい表情。


「ちょっと来てもらえますか」


 返事をする間もなく、近くの一室に押し込まれる。マルタレクスはただされるがままだった。


 薄暗い部屋だった。日没近いのに灯りが用意されていない。窓から細い、赤い光が幾筋も、床に、壁に、伸びていた。その中で友とマルタレクスは向かい合った。友の顔に赤が斜めに走った。


「あなたの考えていることが、私に分からないと思いましたか」


 リーアヴィンの声は低い。彼の紫色の瞳は見えない。動く口元だけが、赤い光で浮かび上がっていた。


「グレナドーラ姫を妃に迎え、彼女に従ってやってきたアルティグレナ殿を、愛人にする……そのつもりなんでしょう?」


 愛人。その言葉の響きに、マルタレクスの体が震えた。だがその通りだった。彼がしようとしていることは。


「アルティグレナ殿は、それを拒めないでしょうね。主の姫は人質という弱い立場で我が国に入るのですから。もちろんグレナドーラ姫も、何も言えない。――なんて、下劣な」


 リーアヴィンは吐き捨てた。誰よりも信頼している友が、軽蔑も露わに。


「じゃあ、どうしろと言うんだ!」


 マルタレクスは叫んだ。


「私が傍らにいてほしい女性は、アルティグレナだけなんだ!」


 喉から血を吐きそうだった。部屋を走る赤い光のような、血を。


「何を世迷い言を」


 胸ぐらを掴まれた。


「あなたの一時の気の迷いで、二人の女性を不幸にするつもりですか。ノルフィージャの世継ぎの地位を笠に着て」

「気の迷いなんかじゃ……一時のものなんかじゃ、ない……!」


 もがいたが振りほどくことができなかった。おかしい、力では友は自分に遠く及ばなかったはずなのに。


「彼女の、アルティグレナのことばかり、頭によぎるんだ。彼女のことしか考えられないんだ……!」

「だから」


 リーアヴィンはさらに手に力を入れてきた。マルタレクスの首が圧迫される。


「コルンスタン王と同じことをするのですか。セリアルーデ姫とグレナドーラ姫、あの不幸な姉妹を、あなたも生み出すと」


 マルタレクスは何も言えなかった。友の言うことは、いつだってまったく正しい。正しすぎるぐらい正しい、のだ。


「歯を、食いしばりなさい」


 反射的に顔を上げた。直後、襲ったのは拳。


 頬にまともに受け、壁に頭を打ちつける。激しい音が反響した。崩れそうになってマルタレクスはそのまま壁にすがった。


「あなたがそこまで、王子という地位にあぐらをかいているとは……思いませんでした」


 口の中が切れていた。不快な血の味が口に、意識に、一杯に広がっていく。


「そんなあなたが、良き王になれるわけが、ない」


 リーアヴィンは彼に背を向けた。その背に走る、幾本もの赤い筋。


「私は今……王宮に上がりあなたの学友になったことを、初めて後悔、していますよ」


 言い捨てて。マルタレクスの友は、彼を置き去りにして、部屋を出ていった。


 とうとうマルタレクスは床に崩れ落ちた。

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