終章 王子妃の氷室
第28話 夏
夏の日差しがマルタレクスの執務室に注ぎ込んでいた。全開にされた窓の直下の床が白く照らされ輝いている。その奥のテーブルで、マルタレクスとリーアヴィンは頭を突き合わせていた。
「東部は雪解けの水も豊かでしたし、今年の農作は期待できそうです」
広げられた地図の上をリーアヴィンの指が滑る。
「逆に西部は、去年から雪や雨が少ないと聞いたが?」
マルタレクスも地図の上に指を置く。
「はい、いくつかの村を視察した者の報告では、作付けが上手くいっていない傾向があると」
うーん、とマルタレクスは腕を組んだ。
「ということは……秋の税では、西部には軽減なり何なりの施策が必要か。支援まで必要になるほど、ひどくなってしまうだろうか?」
「報告ではそこまでには至ってないようですが、用意はしておいたほうがいいかもしれません」
マルタレクスはさらに指を地図に走らせる。
「そもそも、西部は東や南に比べて、灌漑用の水路が少ないと思うんだ。せっかく太い川が流れているのに」
地図の上の青い線をなぞった。
「コルム
「ああ、私も聞いたことがあります。数代前の王の時代からでしたか」
「一時的には王室の資金負担が増えたけれど、その後は税収が安定して十二分に元が取れたのだとか」
ふむと考える様子のリーアヴィンにマルタレクスは続ける。
「我が国でもこの方法を試してみるべきじゃないかと思うんだ。今年の西部の農民に収入を与えることもできるし」
「では、王陛下に進言しますか?」
「ああ。素案を作ってもらえるか?」
「分かりました」
友は微笑んだ。そこでマルタレクスは頭を上げ大きく伸びをする。軽い喉の渇きを覚えて、自分で壁際の水差しまで行った。
「リーン、お前も飲むか?」
「あ、はい。お願いします」
二つの杯に水を
「何だ?」
「いいえ、別に。変わるものだなあ、と」
「……うるさい」
言い返して、マルタレクスは水を一口飲んだ。そこへ窓から声が聞こえてきた。大勢の者が叫ぶ声援。
とたんにマルタレクスは杯を放り出し、窓へ走って身を乗り出した。外の明るさに目が
窓から見下ろせる訓練場、そこで剣の試合が行われていた。
大柄な騎士に向かって小柄で細身の騎士が果敢に挑んでいた。鋼がぶつかり合う音が高く響く。訓練用のなまくら刃であっても、まさに真剣勝負。
二人の騎士の周囲には他の騎士たちが集まり、盛んに声援を送っていた。マルタレクスも
ひときわ強く、鋭い音。次いで大柄な騎士の剣が地面に落ちた。沸き起こる歓声。マルタレクスも跳び上がり、快采を叫んだ。
後ろからリーアヴィンの苦笑まじりの声が掛かった。
「……いいですよ。行ってらっしゃい、マルス」
「えっ、いいのか?」
「いいです、その調子じゃこれ以上、徴税についての相談なんて無理でしょうから」
さっさと済ませてくるんですよ、というリーアヴィンの声を背中に、マルタレクスは執務室を飛び出した。そして途中でちょうどすれ違った侍女を捕まえて、一つ二つ言いつける。
彼が訓練場に着いた時には、小柄な騎士は他の騎士たちに取り囲まれていた。
「グレナ!」
はたして彼女はぱっと振り向いて、顔を輝かせた。
「マルタレクス殿下!」
周囲の騎士たちも即座に彼のため道を空ける。そこを進みながらマルタレクスは破顔しかけて、だが意志の力で顔を引き締めた。厳しい表情で言ってみせる。
「マルス、だよ、グレナ」
彼女は急にうろたえた。頬を紅に染めて手を口に当て、周囲をはばかるように前後左右を見て、それからようやく言った。
「ま……マルス……さま」
今度こそマルタレクスの顔は笑み崩れた。騎士たちも、先ほどまでと違うにやにや顔になっている。嫁いできて半年が経つのに、妃はまだとても初々しかった。
「見ていたよ。近衛団の副団長にとうとう勝った。すごいじゃないか!」
「ありがとうございます」
グレナドーラはまだ赤い顔のまま、それでも誇らしげに胸を張った。
「八回目の挑戦で、ようやく一勝を挙げることができました」
「まったく、王子妃殿下の熱意と技量には敗北せざるをえませんな」
負けた当の副団長も笑顔だった。
「私が負けたとなると、妃殿下の次の標的は団長殿、あなたですかな?」
「おお、これは一大事だ」
話を向けられた近衛団長は、白いものが目立つ頭を大仰に振った。
「私まで敗北してしまったら……さて、次代の王陛下の近衛の長は、王妃殿下ご自身がなさるかな?」
マルタレクスは妃と顔を見合わせた。彼女の若葉の瞳は、期待に
「それはすごく、素敵です……!」
また周囲がどっと沸いた。気安い騎士たちが、頑張ってくださいなどとグレナドーラに言っている。マルタレクスへ向かって知った風に
自分の妃がこうして周囲の者たちに愛されているのが、マルタレクスはうれしかった。と同時に彼女を独占したくもなる。
「グレナ、日陰に行って休まないか」
指さした先は、訓練場に向かって屋根の張り出した場所。訓練の様子を眺めるための椅子が並んでいる。
「もう訓練は終わる時間だろう? 今日は日差しが暑いし」
「え、でも……」
グレナドーラはためらって他の騎士たちを見る。
「後片づけを、しなければ……」
「よろしいですよ、妃殿下」
団長はそんな彼女に笑顔を向けた。
「勝利者の権利ということに致しましょう。それに――」
団長は指を一本立てる。
「王子殿下と
まだ若い妃は一気に耳まで真っ赤になった。マルタレクスも熱さを頬と首筋に感じる。王子妃の懐妊の知らせはいつになるか、王宮内で公然と賭まで行われているのは、王子も王子妃もよく承知していた。
「じゃあ、そういうことで。行こう、グレナ」
ここは堂々といくべきだ。彼は妃の手をしっかり握ると、わざと悠然と騎士たちの間を通り抜けていった。グレナドーラはまだ少しおろおろとしながら、それでも素直についてくる。そんな二人を、はやすような口笛と羨むような視線が追いかけてきた。
グレナはマルスと一緒に日陰に入った。ふっと空気の温度が下がり、体が楽になる。ノルフィージャはカルメナミドに比べてずっと寒く、涼しかったが、夏の訓練はやはり少しきついものがあった。
そして急にグレナは自分の格好が気になった。こんな、訓練を終えたばかりの
椅子に腰掛けながら、不安が籠もった目でマルスを見てしまう。すると不思議そうな表情が返ってきた。
「どうした? グレナ」
「いえ……その……」
何をどう言えばいいのか、言葉が出てこない。
「私が、近衛団長になりたいなんて……お気を害されなかったかと……」
口から出てきたのは少しずれた違うことだった。だが同じことかもしれなかった。
「私も、とても素敵な案だと思ったよ?」
思わず顔を上げた彼女の目に入ったのは、眩しい太陽のような笑顔。金の髪が輝いて本当に太陽のようだと、グレナはその日もまた思った。
「私が王で、君が王妃で近衛団長なら、いつでもどこでも一緒にいられる」
それこそが彼女の望みだった。不安が一気に霧散して、逆に心が浮き立ちだす。
「なら私、目指します! マルスさまと一緒にいられるように!」
笑う彼の手が彼女の頬を撫でる。
「それでこそ、このノルフィージャの王妃となる女性だ」
胸の鼓動が大きくなる。苦しいのではなく、ただ胸の中が一杯になる。
「失礼いたします、王子殿下、妃殿下」
声に気づくと、盆を持った侍従がやってきていた。
「氷菓子をお持ちしました」
「わぁ……!」
ついはしゃいだ声を上げてしまい、慌てて口を手で塞ぐ。マルスも声を出して笑った。
「ささやかながら、勝利の宴だよ」
「ありがとうございます……!」
礼を言う必要はないんだよと、また彼は笑う。
「君には君の
はい、とグレナは頬の熱さを感じながら頷いた。彼女の、王子妃の、氷室。グレナが嫁いできて、マルスが真っ先に用意してくれた物だった。
器から氷をすくって口に運ぶ。オレンジの香り。グレナの大好きな、香り。
その香りを感じても、闇の
「コルム義兄上がたくさんのオレンジを送ってくれたから、今年はオレンジの氷菓子が食べ放題だ」
マルスも氷を口にしながら楽しげに言った。グレナもマルスも、オレンジの果汁をかけた氷菓子が一番好き。彼女が嫁いできてから知った、うれしいことの一つだった。
「
訊かれて、グレナははいと答えた。
父と兄からは半月と空けずに手紙が届いていた。それはグレナにとって驚きで、強い戸惑いでもあった。内容も通り一遍のものではなく、細々としたカルメナミドの様子や、彼女が幼いころの思い出や、そんな想いがあふれるものだった。
初めは、なかなか返事が出せなかった。マルスに励まされ、何度も書いては破り書いては破りをくり返して、ようやく出した最初の返事。するとすぐさま、喜んだのが手に取るように分かる手紙が二人から届いた。それ以来グレナは、返事を出し続けていた。
視線を上げ、グレナは南の空を仰いだ。太陽が
アルティからの手紙は、きっかり一月に一度だった。グレナもそうしていた。それより多くも、少なくもしない。月の満ち欠けのように決まった巡り。
従妹との手紙は、身近で起こった楽しいことや愉快なこと、たまに泣き言。けれど互いに、けっして、寂しいとは書かなかった。
寂しさを感じないと言えば嘘になる。時々、頻繁に。それでも――彼女はかたわらの、マルスを見た。
彼が気づいて笑顔になった。グレナの唇も自然にほころぶ。グレナには、マルスがいた。
ふいにそうしたくなって、少しだけ、マルスにもたれた。彼はそのまま受け止めてくれて、そしてグレナの肩に大きな手を回す。これはマルスだけの仕草だった。
「マルスさま」
グレナは彼女の王子を見上げて言った。
「私は、マルスさまを、守ります」
間近の唇から応えが返ってくる。
「グレナのことは、私が守ろう」
彼女は彼のために剣を取る。彼は、彼女のために剣を取ってくれる。
グレナの座る正面では、近衛団の皆が訓練場に散らばっていた。それは真に愛すべき同胞たち。その上にはどこまでも遠く、広い空。
世界はグレナの前に、どこまでも広がっていた。
〈了〉
この手に剣を、その手に誓いを 良前 収 @rasaki
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