第26話 守護
グレナは剣を振るう。悲鳴と血しぶきがそれを追う。伸びてくる腕を斬り払う。立ちはだかる胴を突く。
辺りに立ちこめ始める、むせかえるほどの鉄の臭い。
階段までたどり着き、駆け上がろうとする。しかし半ばまで来たところで上からも兵の姿が押し寄せた。挟まれた。
止まったグレナを下から狙う剣。即座に自分の剣で跳ね上げ、がら空きになった胸を斬り裂いた。絶叫とともに騎士が落ちていく。
背後から兵が来る。グレナは逆手に持った
それでも騎士と兵士は次々と現れる。上からも下からも。
「相手はたかが一人だ!」
「斬れ! 斬れ!」
剣を構え直す。しかし上下の敵は
周囲は暗がりの、狭い空間だった。わずかな光に照らされ目に入るのは、床や壁に散った朱色。そして圧倒的な鉄の臭い。
――
濃密な絶望。身を刺す孤独。
アア――
イマオキテイルノハ――
オキヨウトシテイルノハ――
グレナはもがく。けれども狭く暗い箱の中で、凍り付いたように動けない。近づいてくる兵たちの姿も、もう見えない。
アア――
背が壁につく。それさえも彼女は感じない。
腕と剣をだらりと下げ、グレナは、目を閉じようとした。
「グレナ姫――――っ!!」
声。闇を貫き降り注ぐ声。
ハッとして頭上を見上げた。そこにあったのは金色。
「グレナ姫、今おそばに!」
太陽のように光り輝く金髪。カルメナミドの者にはありえない光輝。
兵たちの悲鳴と倒れる音がまた聞こえた。だがグレナに見えているのは、ただ、
「――――マルスさま……!」
グレナは手を伸ばした。
助けてと、閉じこもっていた箱から、手を伸ばした。
その手が大きくて熱い手に
「マルスさま、マルスさま……!」
「はい、姫……!」
応えて、彼は笑った。だからグレナも笑った。
グレナドーラ姫の手を握って。マルタレクスは階段を駆け上がった。倒した兵たちの体を踏み越えていく。
姫の手。それを今自分は、確かに握っている、彼女を感じている。きつくきつく力を込めた。
よどんだ臭気の地下階段を抜け、地上の通路に飛び出す。新鮮な空気を求めて、胸が大きく上下する。
「こいつ、グレナドーラを……っ!」
斬り倒してきたはずが、通路には新たな兵が集まっていた。マルタレクスは即座に剣を構えた。
すると握った手を離したグレナドーラ姫が、彼に背を合わせた。ぴたりと剣を構え、彼の背を、守ろうとする。マルタレクスは息を飲んだ。
腹の底の方から何かがせり上がってくるのを感じた。熱い、暴れ出したくなるぐらい熱いもの。そう、彼女になら、自分の背を預けられる――!
彼の口が大きく笑みの形になった。それを見た兵たちが、ひるんだように体を引く。
「グレナ姫は、私が守る……!」
高らかに宣言して、彼は剣を振りかぶり兵たちに襲いかかった。マルタレクスの身体は歓喜に満ちていた。
一息に剣を振り下ろす。悲鳴を上げた兵を逃さず肩を斬り裂く。さらに剣を真横に振り抜けばまた一人の兵が倒れた。
大きな動作にできた隙、別の兵が迫る。それを姫の剣が止め、跳ね返して斬り捨てた。その間にマルタレクスはさらに先へ。
カルメナミドの
「グレナ姫、こっちへ!」
マルタレクスが叫び、姫とともに走ろうとした。だがそこへ、地獄から悪鬼の声が襲いかかった。
「待てえぇぇぇ――っ!!」
思わず振り向く。地下牢への階段から、サイルード大臣が
グレナドーラ姫を庇おうとしてマルタレクスは前に立ちはだかる。すると大臣は目を
「貴様、マルタレクス王子ぃぃ――っ! なんということだ! ノルフィージャの王子が! 我が国の騎士、兵士を
両腕を振り回す。手についた血が周囲に飛び散る。
「これは! ノルフィージャの暴虐! 横暴! 断じて我がカルメナミドは許さぬ! 戦争だ! 戦だ! 大戦だ!」
大臣の指が、マルタレクスをまっすぐ指した。
「この者を捕らえよ! 我が国に害をなした、隣国から来た敵を!」
マルタレクスは動かなかった。
「その首を
グレナドーラ姫が剣を上げて進み出た。周囲の兵たちも一斉に間合いを詰める。
「愚かな王子! 貴様が招いた戦争だ!」
白目を剥いた鬼の形相で、大臣は吼え続けていた。騎士の一人が剣を振り上げた。
「待て!」
鮮烈な声がその場に響いた。
「その者を害することは許さぬ!」
グレナドーラ姫が驚愕の表情で振り返る。だがマルタレクスは、それが誰なのか分かっていた。だからゆっくりと振り返った。
コルンヘルム王子がいた。侍従に支えられ、よろめきながら、しかし確実に近づいてくる。血の気のない、だが毅然とした、王子たる顔。
「こっ、コルムっ! なぜ、お前が……!?」
王妃の動転した声。彼女も今まさに地下から這い上がってきていた。その母親に、コルンヘルム王子は感情を含まない視線を向けた。
「飲んですぐに吐き出した。毒が入っていたことは、知っていた」
これまでの常の王子とは思えない口調。大臣がまた腕を振り回した。
「な、何を言っているのだ、コルム!?」
「私は知っている。王妃ソニアルーデが、私の杯に毒を入れた」
冷酷なまでに静かな王子の声。それが電光のように兵の間を駆け抜けていく。彼らが一様にうろたえ、視線を交わすのをマルタレクスは見た。
「わ、わ、わたっ、私が、そんなことをするわけがないわ! 毒を入れたのはこの娘、グレナドーラよ!」
床にへたりこんだまま王妃はわめく。甲高い金切り声、血みどろのドレス、真っ赤に汚れた腕。
「いいや、私はこの目で見た。王妃の手が、袖から出した茶色い小瓶の中身を、私の杯に入れるのを」
王妃の顔が蒼白になる。
「そんな、ま、まさ……!」
叫ぶ母親を無視し、息子である王子は続けた。
「王妃が昨日着ていた紫と紅のドレスを調べよ。左の袖に、こぼれた毒の染みがあるはずだ」
囲みの外れにいた二人の兵が、周囲をおろおろと見回しながら、その場を離れようとした。王妃の悲鳴が飛ぶ。
「やめっ、やめなさいっ……!」
「もはや言い逃れはできぬ、王妃」
赤毛の王子は母を母と呼ばなかった。
「私自身が、すべての証人だ」
「こ、こっ……お……おおおっ!」
王妃は突然跳び上がった。血に濡れた両腕を突き出し、突進する。誰もとっさに動けず、彼女はまっすぐに息子に飛びかかった。
「コルムっ、コルンヘルムうぅぅっ……!」
王妃の朱色の手が、王子の首を絞めていた。
「お前など、お前などっ……死んでしまえばっ……殺してしまえばっ……!」
口から泡を噴き、目を血走らせ、顔中の血管が破けたかのような朱色の面相で、母親は息子の首を絞めていた。
最初に動いたのはマルタレクスだった。
無言で静かに王妃の背後に近づき、その両手首を掴む。力を込めれば華奢な女の手はたやすく王子の首から外れた。
「はなっ、無礼者っ、放せっ!」
叫びながら暴れる女を拘束しながら、コルンヘルム王子に目をやる。王子は再び侍従に抱えられてしばらく咳き込んでいたが、やがて何も言わず
ふっと絶叫が
「ソニアっ!? 貴様、ソニアに何をした!?」
我に返ったように大臣が叫んだが、誰も何も返事をしなかった。
「……皆も見たであろう」
コルンヘルム王子の
「カルメナミドの世継ぎを
しかし即座に動く騎士や兵はいなかった。王子と大臣を見比べる目。どちらにつくのが賢いのか、迷う目。
「それとも、あくまで王妃と大臣を
騎士たちの様子に声を荒げることもなく、王子はただ静かに言葉を続ける。
「そうして私を廃し、グレナドーラを殺し、残ったセリアルーデをこのカルメナミドの跡継ぎとするか。王家の血を引いていない女を」
その場の全員がぎょっとした顔を王子へ向けた。
「ななな、何を言うかコルンヘルムっ!」
大臣が叫んだが、極度に裏返った声がむしろ真実を示していた。
「セリアルーデの本当の父親が誰か、この王宮で知らぬ者はおるまい」
マルタレクスがグレナドーラ姫を見ると、姫はかすかに頷き、大臣――王妃の兄を目で指した。マルタレクスの中で驚きではなく、いっそ納得感が広がっていく。
「シドヌカード公爵家による王位
常に筆頭大臣と王妃に虐げられていた王子は、すでにいない。そこにいるのは冷厳として立つ、大国カルメナミドの正統なる世継ぎだった。
騎士や兵の表情が変わり始めていた。王子を見る視線が侮蔑を含んだものから敬意を含んだものへ。大臣を見る視線が媚びへつらうものから排除しようとするものへ。
「し、しっ、しかしだなっ!」
サイルード大臣が叫ぶ。体全体をわななかせながら、朱に染まった腕でマルタレクスを指さした。
「こ、こここここに! ノルフィージャの、他国の王子が! こやつを引き込み、カルメナミドの者を斬り殺させたのはコルンヘルム、お前だろう! これはカルメナミドへの反逆行為! 謀反! 離反! 世継ぎ自身による反乱など!」
周囲の騎士や兵を見回し、訴え絶叫する。
「このコルンヘルムに、王となる資格などない!! そうだろう、皆の者!!」
グレナドーラ姫がキッと大臣をにらんだ。マルタレクスは黙ったまま動かない。そしてコルンヘルム王子は、にっこりと微笑んだ。
コルンヘルム王子とマルタレクスの目が合った。王子の瞳は笑ってはいなかった。まっすぐに射抜いてくる、挑んでくる、空色の瞳。それは色は違っても、妹のものとよく似ていた。
スッとマルタレクスは動いた。
コルンヘルム王子に向かって
多くの者が息を飲んだ気配、抑えきれないどよめき。
ありえないことだった。誇り高き
ありえない、屈辱、のはずだった。
「何を言っているのか? サイルード」
軽い笑みを含んだ声が響く。
「この者は私の部下。私が、妹グレナを救い出すよう、命じた」
そしてコルンヘルム王子は言った。
「よくやった、アレックス」
北の至高の王族の名「
「はっ、ありがたきお言葉でございます、コルンヘルム王子殿下」
王子は
「では続けて命じる、アレックス。筆頭大臣サイルード並びに王妃ソニアルーデを大逆罪、我が命を狙った罪にて、捕らえよ」
伸ばされた指が、震える伯父と気を失った母を指した。
「ははっ」
応え、マルタレクスは立ち上がった。まっすぐ立てないほど震えているサイルード大臣の腕を掴み、後ろにひねり上げる。
「ぐわっ……」
苦悶の声を上げて大臣は膝を屈した。ちょうどグレナドーラ姫の足下に、這いつくばる。
姫はその姿を口を結んで眺めていた。そして汚らわしい物から遠ざかるように、足を引いた。
グレナドーラ姫の動きを合図にしたように騎士と兵たちも動き始めた。今度こそ他の者へ知らせに走る者、気絶したままの王妃を抱え上げる者、マルタレクスから大臣の身柄を受け取る者。皆が、コルンヘルム王子の命に従い動き出していた。
「な……どうして……どうして……」
わななく口で筆頭大臣は泡とともに呟き続けている。それにマルタレクスは答えた。
「私が、
目を上げるとグレナドーラ姫の瞳とぶつかった。緑の炎。血生臭い中にあって
守りたかったのはこの炎だった。
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