第7話 舞踏会

 カルメナミド王宮の大広間は、蝋燭ろうそくの光と宝飾品の煌めきと、豪奢ごうしゃに着飾った人々で埋めつくされていた。ノルフィージャの親善使節を歓迎するための、ぜいを尽くした舞踏会が盛大に開かれていた。


 色とりどりの華やかなドレスが翻る。扇で口元を隠し、優雅に笑う貴婦人たち。その手を取るやはり華美な衣装を身につけた男性たち。ひらひらと、ややごてごてとした装飾が目立つように感じるのは、ノルフィージャの宴での武人の正装と比較しているからかもしれない。


 その中で正賓のマルタレクスは、率直に言って、非常に不愉快な思いをしていた。


 ともかくセリアルーデ姫が片時もそばを離れようとしないのだ。さらにソニアルーデ王妃とサイルード大臣までくっついていた。


 最初のダンスがセリアルーデ姫とだったのは、彼も予想はしていた。序列として、王妃ソニアルーデを除けば第一王女である彼女がもっとも上位であり、正賓のマルタレクスと最初に踊るというのはごく自然だ。


 しかし、第一王女はそのままマルタレクスの腕を放そうとしなかった。彼はさりげなく、さりげなく、やんわりとセリアルーデ姫の腕を外すのだが、彼女はすぐさままた彼の腕に手を掛けてくる。それをもう何度繰り返したか。これではマルタレクスは身動きが取れなかった。


 そしてその様子を、ソニアルーデ王妃とサイルード大臣はたいそう上機嫌で見ていた。


けますなあ、マルタレクス殿下。美しい姫にそんなにも慕われて」


 サイルード大臣はそう言ってのける。


「まあ、伯父さま。マルスさまのご魅力なら、当然のことですわ。私、子供のころから、マルスさまのことをお慕いしていましたのよ」


 こびを含んだ笑顔――あいかわらず、セリアルーデ姫のヴェールは薄すぎるぐらい薄い――を向けられて、マルタレクスは蛇ににらまれた蛙になった気がした。しかしここで負けてはいけないと懸命に自分を叱咤する。


「大臣殿、私にカルメナミドの主立った方々をご紹介願えないでしょうか。他の大臣方や将軍方と、会議の場だけではよく知り合うこともできなかったので……」

「さて、主立った者とおっしゃいましても。今マルタレクス殿下のおそばにいる者たちが、このカルメナミドの主立った者でございますよ」


 マルタレクス以外の三人から朗らかな笑い声が起こる。マルタレクスは、ここで顔を思い切りしかめてもいいのか、それとも平静で流すべきなのか、真剣に悩んだ。


 視線を遠くに逃がすと、リーアヴィンが人々の間を器用に泳ぎ回っていた。多くの貴族へ盛んに話しかけ、令嬢たちの手を取ってダンスに誘っている。どうやら親善使節の副使殿は、包囲されている正使の代わりに親善という大事な任務を精力的に果たしているらしい。


 しかしそもそも、マルタレクスだって他の娘たちと踊りたかった。みずみずしいばかりに若く麗しい令嬢たちが、彼に近寄りたそうにこちらを向いては、セリアルーデ姫の様子を見て肩を落とす。それが彼からもよく見えた。


 マルタレクスはダンスが嫌いではない。自分では得意だと思っている。優雅さについては教師によく叱られたが、身のこなしの軽やかさには自信がある。だから、グレナドーラ姫と踊りたかった。自分のダンスの上手さを見せたかった。


「失礼、セリアルーデ姫」


 マルタレクスは蛇の手を注意深く押しやった。


「私はもっと、踊りたいのですが」


 そう言ってみせると、蛇のような第一王女はうれしそうな笑顔になった。


「ええマルスさま、私も。マルスさまはとてもダンスがお上手なのですもの」


 そして彼の手を取ろうとしたが、マルタレクスは腕ごと手を引っ込めた。


「いえ、申し訳ありませんが。私に、他の方々と踊る機会を下さいませんか」


 彼としては、公の、大勢の者が見ている場ということを考えて、できるだけ穏便な言い方をしたつもりだった。


 ところがセリアルーデ姫は、いきなりわっと泣き出した。声を放って、両手で顔を覆って。


「そ、そんな、マルスさま、私と踊るのは嫌だとおっしゃいますの? そんな、ひどい」


 大仰に嗚咽おえつを漏らしている。マルタレクスは驚きを通り越して、呆れかえった。


 一方ソニアルーデ王妃は、これまた大げさすぎるほど大げさに、狼狽しきった風に振る舞ってきた。


「これ、セリア。そんなに泣くものではありませんよ」


 半ば抱きかかえるようにして娘の背中や腕をしきりに撫でさする。


「殿方とは移り気なものです。お前のような麗しく咲き誇る大輪の花がそばにあっても、道ばたの取るに足らない小花へも目移りしてしまうものなのですよ」

「でも、お母さま……」


 芝居めいた愁嘆場。ちょっと待てとマルタレクスは心の中で叫んだ。どうして自分がすべての悪であるかのように言われなければならないのだ。


 するとサイルード大臣がことさら呑気のんきな声を出した。


「ならばこうすれば良いではないか、セリア。もう一度、マルタレクス殿下に踊っていただきなさい。そして殿下がご希望の娘一人と踊っていただく。その後でさらにもう一度、セリアがマルタレクス殿下と踊れば、一番殿下と踊るのはセリアだろう」


 とたんにセリアルーデ姫はぴたりと泣き止んだ。


「それなら! 踊っていただけますわよね、マルスさま」


 また腕を絡めてくる。マルタレクスの背筋を何かが走った。


「……よろしいでしょう」


 とにかくここで一曲この蛇と踊れば、解放してもらえるらしい。だったらさっさと踊ってしまって、その後で全力で逃亡しよう。そう彼は決意した。


 できるだけ軽く、軽く、羽のようにセリアルーデ姫の手を取って、マルタレクスは踊る人々の中に加わった。



 第一王女の魔の手からやっと逃れて、彼が次に踊る相手に選んだのは、当然のことながら第二王女グレナドーラ姫だった。


 足早にグレナドーラ姫のいる一角へ向かう。王女だというのに彼女は、周囲に取り巻く人々もダンスを申し込む男性たちもなく、ただあの女騎士一人とともに広間の隅に立っていた。


 マルタレクスが進むにつれ貴族たちが道を空けた。集まる視線を感じる。これは好奇の表れか、それとも忌避か、おそらくは後者だった。


 そして、別の鋭く強い視線が彼に突き刺さる。女騎士アルティグレナの燃える緑の瞳が、彼を見ていた。


 マルタレクスは彼女と真っ向から目を合わせる。剣戟けんげきにも似た、数瞬の交錯。


 目をそらしたのは今度も女騎士が先だった。ほんのわずか、彼女はグレナドーラ姫から離れた。マルタレクスが彼女の主に近づくのを許した、ということだった。


「グレナドーラ姫には、ご機嫌麗しく」


 マルタレクスはまたそう言って、姫の手を取った。皆が華やかな姿である場なのに、第二王女のドレスはなんと茶色だった。身に付けている装身具もいっそ貧相と呼びたくなるような物がわずかだけ。


「この舞踏会を、お楽しみいただけていれば幸いです」


 やさしく、細い声が厚いベールの向こうから漏れる。はいと答えてからマルタレクスは彼女の手を少し強く握った。


「私と踊っていただけませんか、姫」


 第二王女はためらったようだった。そばに控える女騎士の方を振り向く。女騎士も一拍あって、それから王女を励ますように頷いた。


 それでやっとグレナドーラ姫はマルタレクスの手を握り返した。


「はい……喜んで」


 マルタレクスは笑顔を見せた。心細い思いをしているだろう、グレナドーラ姫を力付けたくて。それを女騎士アルティグレナにも見せたくて。


「ちょうど曲が始まります。参りましょう」


 彼はグレナドーラ姫の手を引き、堂々と大広間中央へ進んだ。



 グレナドーラ姫のダンスは、巧みだった。軽い足の運び、正確なリズム。だが彼女がこうして舞踏会で踊ることは、これまで何度あったのだろう。


「姫、そんなにうつむかないで……いただけますか」


 マルタレクスが言うと、グレナドーラ姫ははっと顔を上げた。


「申し訳ありません……私……」


 そう言って、また顔を伏せてしまう。こんなに間近なのに、分厚いヴェールのためにグレナドーラ姫の顔も表情もほとんど見えなかった。それがマルタレクスには口惜しい。


「子供のころ、ノルフィージャに来ていただきました」

「……はい、そうでしたわね。私は、まだほんの子供の時で……」


 思い切って、マルタレクスは大事なことを口に出した。


「私が姫を、王宮の庭園にご案内したこと、覚えていらっしゃいますか?」


 ところが、グレナドーラ姫は押し黙った。続いた言葉は、


「……申し訳ございません……」


 一瞬、マルタレクスの目の前が暗くなった。心は一気に深みへ沈んだ。


「まったく……ですか?」

「……カルメナミドにはない、珍しい草木を見せていただいたような……そんな記憶はございますが……」


 申し訳ありませんと繰り返すグレナドーラ姫に、マルタレクスはなんとか笑顔を返す。


「仕方のないことです。姫はまだ本当にお小さかった」


 自分が草木の名前を教えたこと。氷菓子を食べさせてあげたこと。姫が自分に若葉のような瞳を見せてくれたこと。すべて忘れてしまったのだろうか――。


「姫は、七つでいらしたか……」


 呟いて、脳裏に何かを思い出しかけた。それを読んだかのように姫がかすかに顔を上げる。彼女の小さな声が、しかしざわめきを抜けてはっきりと聞こえた。


「あの後すぐに、母が、亡くなったのです……」


 はっとした。


 そうだ、リーアヴィンも言っていたではないか。グレナドーラ姫の生母が死んだのは九年前、姫が七才の時だと。なぜすぐに気づかなかったのか。


「それで……」

「……はい。そのころの記憶は、とてもあやふやで……」


 七才の少女が母を失った。その悲劇に、他の記憶は塗り潰された。


 ほほえましい、自分と少女だけが体験した、小さな思い出など、消えてしまったのだ。


「姫……申し訳ありません、おつらいことを……」


 グレナドーラ姫はゆるやかに首を振った。


「いいえ。もうずっと……昔の……ことですわ」


 十六才になった少女は、ほんのりと微笑んでいるかのような声で言った。



 曲が終わり、マルタレクスはグレナドーラ姫を彼女の騎士の所まで導いた。女騎士はまた燃える瞳を彼へ向けてきたが、受け取った姫の手からダンスの間の様子を察したらしい。わずかばかり炎が和らぎ、女騎士はマルタレクスに向かって礼をした。


「アルティグレナ、マルタレクス殿下はとてもダンスがお上手だったのよ」


 姫が女騎士へ言う。すると女騎士は、「それはようございました」と笑顔を見せた。


 マルタレクスは息を飲んだ。初めて見た、彼女の笑顔。


 花が開くように唇がほころんでいた。木々が芽吹くように瞳が輝いていた。手は優しく主の手を取り、体中から主への愛がこぼれているようだった。


 彼は初めて、女騎士アルティグレナを、女性らしいと感じた。


 ふいに、この女騎士と踊りたくなった。申し込んだら彼女は受けるだろうか。華やかな舞踏会で、彼女は鋲付きの上着という盛装から程遠い服装をしていた。踊る意志などないという表れにも見えた。それでも、受けてくれないだろうか。マルタレクスはどうしても試したくなって、口を開きかけた。


 しかしそれを蛇の声が遮った。


「マルスさま!」


 ぎょっとして振り返る。第一王女セリアルーデが、腰に手を当てた格好で間近に立っていた。その背後には憤然とした表情を隠しもしない王妃と大臣。


「約束ですわよ! 次は、いいえ次だけでなくその次も、そのまた次も、あとはずっと私とだけ踊ってくださるって!」


 蛇の手が乱暴にマルタレクスの腕を掴んだ。ざわっと毛が逆立った。兄弟国の王女が相手でなかったら、激しく振り払っていた。


 かすかな声が聞こえた気がして彼は慌ててそちらを見る。グレナドーラ姫と女騎士が頭を下げ、そして足早に立ち去ろうとしていた。まさに、逃げるように。


 マルタレクスは彼女たちを引き留めたかった。だが――


「マルスさま、早く!」


 強く腕が引かれる。マルタレクスはきつく唇を噛み、強い悪寒を堪えた。

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