第8話 抑圧
ぐったりと疲れた体を、グレナは寝室のソファに沈めた。普段なら先に寝る
「グレナ? ちょっと待って、今お茶の用意をするから――」
疲れのにじむアルティの声に、グレナは自分を励まして再び立ち上がった。
「いいわ、今日は私がやるわよ」
従妹のように上手くは
棚まで行って、並ぶ花茶の茶葉から一つを選ぶ。乾燥した果実のたくさん混ざった、甘みの強いものにした。子供のころからアルティが好んでいる花茶。
慎重に茶葉を計って、湯の中に落とす。本来の淹れ方なら茶葉に湯を注ぐのだが、そのために必要な茶器が「グレナドーラ姫」の部屋にはなかった。
口の中でゆっくり数えながら湯に茶葉の色と香りと味が広がっていくのを待つ。それがグレナは下手なのだ。いつも早すぎてしまう。衝立の向こうからは衣擦れの音が途切れ途切れに聞こえていた。従妹のためにグレナは少しでもおいしい茶を淹れたかった。
数え終わって、念のため少しだけ茶器に注ぎ味見をした。案の定まだ少し薄い。もう一度火に掛け直したところで、着替え終えたアルティが出てきた。
「私の好きな花茶を選んでくれたのね、ありがとう」
従妹はにっこり笑う。疲れていても彼女はいつもやさしい。
グレナは真剣な顔でもう一度茶器に花茶を注いだ。この色なら、大丈夫だろう。
「頑張ってみたわ。はい、召し上がれ」
差し出した茶器を受け取って口をつける従妹の様子を、
アルティが満面の笑みを浮かべた。
「おいしい!」
グレナも弾けるように笑顔になった。
「よかった……!」
自分の分の花茶を飲む。まずまず、といった味だった。
「やっぱりアルティの淹れてくれるお茶のほうがおいしいわ」
少し唇をとがらせると、従妹は軽くグレナの肩に触れた。
「私は、グレナの淹れてくれた花茶が、一番おいしいわ」
くすぐったさにグレナははにかむ。
「ありがとう、アルティ」
寄り添いあって、従姉妹たちは甘い花茶を飲んだ。
「今日の舞踏会は、踊れたから……少し、楽しかった」
アルティが呟いた。
「ええ、よかったわね」
グレナも返し、付け加える。
「マルタレクス殿下がダンスを申し込んできた時は、驚いたけれど」
「そうね、あんな貴族たちの視線の中で、堂々としてらしたわ」
「でもあっという間に
グレナは肩をすくめた。その肩に、またアルティが触れる。
「それでも『グレナドーラ姫』に、ダンスを申し込んでくださったわ」
「他の貴族の令嬢ではまずいと思ったんじゃない?」
アルティの茶器にお代わりを注ぐ。炉の火は、消えそうに揺れていた。
「マルタレクス王子殿下は、とてもおやさしかったわ」
茶器を取らず、アルティはグレナの肩に手を置いたままだった。
「ねえグレナ、私ね……」
言いかけて、彼女は口ごもる。グレナは首を傾げ、従妹を見た。
「なあに?」
しばらくためらうようにしてから、アルティは口を開いた。
「マルタレクス王子殿下が、『グレナドーラ姫』を、妃に選んでくださったらって思うの」
一瞬、意味が分からなかった。それからグレナは思わず声を上げて笑いだした。
「やだ、アルティ、そんなことありえるわけないじゃないの!」
花茶をこぼしそうになってテーブルの上に置く。グレナの笑いは続いた。
「間違いなく、ノルフィージャへ嫁ぐのはセリアルーデよ。王妃とサイルード大臣が絶対にそうするに決まってるじゃない」
けれどアルティは笑っていなかった。グレナの肩を押す手の力が少し強くなる。
「そう……かしら」
「そうよ。そうに決まってる。……でも、もしかして……アルティ?」
急に気づいて、ぴたりと笑うのを止める。ひどく戸惑って従妹を見た。
「もしかして……アルティは、マルタレクス殿下のことが……素敵だって……思ってるの?」
今度はアルティが目を丸くした。ややあってから、彼女は微笑む。
「違うわ、そうじゃない。王子殿下が『グレナドーラ姫』を選べば、嫁ぐのはグレナ、あなたでしょう?」
え、とグレナは声を出した。
「……そうなるの?」
「ノルフィージャでまで私たちが入れ替わる必要はないもの」
グレナは押し黙った。従妹はゆっくりとグレナの肩を撫でている。
揺れ続けていた茶炉の火が、ふっと消えた。グレナは言った。
「ありえない」
アルティの手が止まった。
「グレナ」
「ありえないわ。マルタレクス殿下が、ノルフィージャが、『グレナドーラ姫』を選ぶなんてこと、ありえない」
グレナはいやいやをするように首を振った。
期待をするのは、とうに諦めた。
「ね、アルティ、花茶が冷めちゃうわ。せっかく淹れたのだから、飲んで?」
「……ええ、グレナが淹れてくれたのだものね」
アルティはグレナから手を離し、茶器を手に取った。香りを味わうようにゆっくりと目を閉ざす。そんな従妹にグレナはもたれかかった。
「アルティのことが、私は一番大好きよ」
やさしい声が返ってくる。
「私も、グレナのことが一番大好きよ」
沈んだ茶色で飾られた寝室。タイルの装飾も茶色や灰色。灯りの数は少なく、部屋のそこここには真っ暗な闇が巣くっている。その中を、せめて甘い香りが満たしていた。
ふくよかな紅茶の香りが鼻をくすぐる。マルタレクスは姉たちと違って茶の良し悪しなど気にしないほうだったが、それでも注がれる紅茶がとても上質なものだとは分かった。ただしだからといって、この茶会の席が楽しいものになるわけではない。
彼の前に菓子が置かれる。たっぷりと大きく切られた、焼き色の強いタルトだった。
「マルスさまのお国のお菓子を、作らせてみましたの」
はしゃいだ声でセリアルーデ姫が言う。マルタレクスは仕方なく笑みを浮かべてみせて、小さくかけらを作って口に運んだ。期待にあふれた三対の目が彼を見る。
……これは。口元が歪みそうになるのを慌てて誤魔化す。酒の香りと味がきつすぎた。どんなにどれだけ譲歩したとしても、ノルフィージャの者としては断じて許せない代物だった。
「……ノルフィージャを思い出します」
かろうじてそれだけ述べた。王女と王妃が満面の笑顔で
「北国の酒の香りですな。私はもう少し、酒を多く加えたいところです」
マルタレクスの舌が引きつった。それなら酒そのものを飲んだほうが早い。
そしてつい、彼は目の動きだけでその場を見回した。セリアルーデ姫に茶会に誘われたのはまあいい。そこに母親であるソニアルーデ王妃が同席しているのもよくあることだろう。だが、なぜサイルード筆頭大臣までいるのだ。
姫がやたらと話しかけてくるのに適当に相づちを打ちながら、マルタレクスは紅茶をがぶ飲みしていた。そうしないと、あまりに味がきつすぎるこの焼き菓子を腹に収めきることができなかった。
「カルメナミドの紅茶をお気に召したようですね」
王妃が誤解してホホホと優雅に笑った。彼は曖昧に頷く。すると、
「それでしたら我が国からの紅茶の輸出量を増やしましょうか」
いきなり身を乗り出した大臣に驚いて、マルタレクスは急いで首を横に振った。
「いえ、私の好みで決めるわけにはいきませんので」
交易については会議で散々話し合った上ですでに決めたことだ。それを私的な茶会という場でまた蒸し返そうとするサイルード大臣に、彼は心底うんざりして頭痛を覚えた。
「でしたら私からの贈り物として、マルスさまへお届けしますわ! ねえ伯父さま、よいでしょう? そうしても」
「おお、セリアがそう言うのなら、そうするといい」
甘える王女に、大臣はまなじりを下げてとろけるような笑顔になった。またマルタレクスののどの奥が引きつった。
シドヌカード公爵サイルードはカルメナミド王家の臣下だ。たとえ現王妃の実兄であり、王子王女の伯父であるとしても。王女を甘やかすのは彼のやるべきことではないし、その振る舞いは臣下としての範を越えすぎていた。年長の縁戚の行うべきことは、あくまで王族と臣下との間の一線を引き、王子王女にその自覚を促すことのはずなのに。
マルタレクスは酒の味しかしない菓子を必死に飲み下す。目の前の情景はまるで、王妃と王女とその縁戚ではなく、「王」と王妃とその間の娘であるように見えた。
「でもこうして、こんなにお若いマルタレクス殿をお迎えすることができて、本当によかったこと」
ねえ、と王妃は娘へ話しかけていた。
「他国の姫君たちに取られる前に、こうしてセリアを迎えに来てくださったわ」
マルタレクスの茶器が大きく音を立てたが、三人は気にした様子もない。
「ええ! 私、待っていた甲斐があったわ!」
セリアルーデ姫はこのうえもなく上機嫌だった。そろそろマルタレクスの我慢も限界だった。
「前から気になっていたのですが……」
何でしょう、と姫が無邪気に弾んだ声で言う。
「セリアルーデ姫にはこれまでご縁談はなかったのでしょうか?」
伯父大臣と母王妃が、ぴたりと動きを止めた。ガシャンとけたたましい音がしたのに目をやると、大臣の茶器の周りに茶がこぼれ広がっていた。
マルタレクスは小さく胸のすいた思いをした。しかしそこへ、変わらぬ無邪気な声が割り込んだ。
「ございましたわ。私が知っているところでは、一度。でも伯父さまとお母さまが断ってしまわれましたの」
驚いた彼が目を瞬くと、姫はおかしそうにころころ笑いながら続けた。
「私やお父さまの耳に入る前に、話が来たとたんに即座に断ってしまわれて」
「それはいったい……どうして?」
思わず訊いてしまった彼の質問に、姫は笑ったまま答える。
「私はまだお嫁にいったりしたら駄目だからですって。後で聞いた私はちょっと怒ったのですけれど、私は伯父さまとお母さまの手元にいなければいけないって叱られてしまいましたわ。その後で他の縁談が来ていたのかどうかは、私は知りません」
不自然なまでに続く姫の笑いは、完全に
「でも! マルスさまが
私はむしろ、すっかり蚊帳の外。姫はそう言いながら笑い続けていた。
「セリア……もうその辺に、しておきなさい」
大臣がやや掠れた声で言った。それに対し二十五才の姫は、幼子のように邪気のない顔を向けた。
「あら、どうしてですの?」
真っ白な沈黙が流れた。
大臣の顔は蒼く、王妃の顔はさらに蒼い。薄すぎるヴェールの向こうの第一王女の顔は、すっかり上気して赤かった。
「し、失礼いたします」
勇気を振り絞ったような声がした。皆が一斉に振り向く。侍従が震えながら立っていた。
「筆頭大臣閣下、商人組合の代表の者が、お約束の面会のため参りましたが……」
「そ、そうか、なら今行く」
慌てた風にサイルード大臣は立ち上がった。
「マルタレクス殿下、失礼いたします」
「いえ、私もそろそろ戻らせていただきます」
この機を逃すかとマルタレクスも立ち上がる。
「あら、マルスさま!」
抗議の声を上げるセリアルーデ姫に向かって
「楽しい時間をありがとうございました、ご機嫌よう」
彼女が伸ばしてきた手を避け、彼は身を翻してその場を立ち去った。
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