第5章 閉ざされた扉とそれを開く鍵

第21話 変転

 日暮れが近づき、ノルフィージャからカルメナミドへ向かう使者の一行は野営の準備を始めた。通常なら街道沿いで宿を取るのだが、急ぎの使者であるため開けた草地を選んでテントを張ろうとしていた。


 使者を務めているのはゲールジーク伯爵リーアヴィン。求婚の使者は王子本人ではなく王子の学友が務めるという慣例に従った人選だった。


「おい、ぐずぐずするな! 早く水をんでこい!」

「は、はいっ!」


 黒髪の青年が年長者に怒鳴られ、大きなおけを二つ両手にげて走る。一年でももっとも昼の長い時期、旅の一日はひどく長かった。ずっと歩き続けた青年の足はすっかり棒になっていたが、一番の新入りである彼が休む暇はまったくなかった。


 傾斜を下る方向へ走っていき、細い川を見つける。水を汲めば桶はとてつもない重量の物と化した。持ったことのない重さとは言わないが、疲れきった彼の手足ではよたよたと運ぶのが精一杯だった。


 元の場所にやっと戻ると、また次の桶を放られる。拒否できるはずもなくまた川へ向かって走る。結局、川との間を五、六回は往復しただろうか。もういいと言われ地面にへたりこむと、年長者が笑いながら背を叩いてきた。


「よしよし、お前根性あるな! ノルフィージャの男はそうじゃなくちゃな!」


 背の痛みに顔をしかめながらも、青年は素朴な賛辞にうれしくなった。


 夕焼けも終わり、闇が徐々に濃さを増していた。焚き火が赤々と輝いている。パンと干し肉が青年に投げ渡された。その強い匂いに急に空腹が刺激され、彼はパンにかぶりつく。


っ……」


 パンはひどく堅かった。保存し携帯するための物だから当然だと、遅れて気づく。仕方なく水を少しずつ飲みながら苦労してパンと肉をかじっていった。


 と、そこへ近寄ってきた影があった。慌ててその場の者たちが立ち上がり、姿勢を正す。青年も体を叱咤しったしてそれにならった。


「ああ、構いませんよ、そのままで。何も問題は起きていませんね?」

「はい、リーアヴィン様。しごく順調です」


 それは良かったと、見回りをしていた使者様は歩み去ろうとした。だが、その足が一瞬止まる。青年に視線が向けられた。


 黒髪の青年はぎくりとした。目を合わせないよう、微妙な角度で顔を伏せる。頭を下げるのが良いのだろうが、プライドが邪魔をして、それができなかった。


 さいわい、使者様は特に何も興味を覚えなかったようですぐに他へ目を移し、そのまま立ち去っていった。他の者といっしょに再び座りながら、黒髪のカツラを被った青年――マルタレクスは密かに安堵あんどの息を吐いた。


 自分の正体が友に見破られてしまったかと思った。リーアヴィンに見つかれば、慣例に反することをするなと即座に捕まって強引に本国へ送り返されてしまうだろう。それはどうしても避けたかった。マルタレクスは、どうしてもカルメナミドへ行きたかった。


 必死に考えたのだ。どうすれば、グレナドーラ姫の心が、得られるのかと。けれどどれだけ考えても分からなかった。ただ、一つだけ思った。自分はカルメナミドへもう一度行かなければならない。彼女が嫁いでくるのを座して待つのではなく、自分から彼女に会いに行かなければならない――。



 グレナはひどく落ち着かなかった。いるのは「グレナドーラ姫」の部屋、その小さな居間だ。「グレナドーラ姫」として、淡い緑のドレスを着て、髪を結い上げ、ヴェールを被っている。「グレナドーラ姫」として、椅子に座っている。そのことにひどい違和感を覚えていた。


 従妹との入れ替わりを止めよという父の命令が、まだ続いていた。むしろ父の意図はもう二度と入れ替わらせないこと、グレナを「グレナドーラ姫」に戻すことだと、彼女にも分かっていた。だからこのひどい状態がずっと続く。その未来に、グレナは目眩めまいを感じた。


「ね、よかったらお茶でもれましょうか?」


 そばに座っていたアルティがいたわるように声を掛けてくれる。言葉もなくうなずくと、衝立ついたての向こうから侍女が急いで出てきた。


「よろしければ私が致します、グレナドーラ王女殿下」


 熱心に言ってくるのが鬱陶うっとうしく、黙って手を振り拒絶する。代わりにアルティの方を見た。ヴェールが邪魔で、従妹の顔がよく見えない。


「あのね、アルティ。まだ寝る前じゃないけど、花茶がいいな」


 つい子供のような、甘える口調になった。アルティはにっこり笑って立ち上がる。おろおろしている侍女へ新鮮な水を持ってくるよう言い付けて、彼女は茶器を取り出した。いつの間にか完全にそろえられていた一式。ずっと欠けたままだった物を誰がどんな意図で用意したのか、グレナは考えたくもなかった。


「やさしい香りの茶葉がいいかしら。取ってくるわね」


 そう言って、アルティはスカートの裾をひるがえし扉の向こうに消えた。「グレナドーラ姫」としてずっと教育を受けてきた彼女は、立ち居振る舞いがとても優雅だ。


 ――それに対して、自分は。グレナはドレスのしわを神経質に伸ばした。そもそもドレスを着ること自体に慣れていない。こんな格好をするのは嫌だった。ヴェールも何もかも。


 着替えてしまおう、せめて乗馬服かなにかに。そう思って立ち上がった瞬間、廊下から侍女の叫び声が聞こえた。


「な、何ですか、あなた方は!」


 とっさに左の腰に手をやり、そこで初めて剣を帯びていないことに気づく。剣は暖炉の上の壁。走ろうとするより早く、扉が激しい音を立てて開かれた。


「いたぞ、グレナドーラ姫だ!」


 一斉に大勢の男たちが踏み込んでくる。数人の騎士と多くの兵士。控えていた侍女たちが悲鳴を上げた。あっという間に男たちはグレナをぐるり取り囲む。


「何事です、この無礼者どもが!」


 せめて傲然ごうぜんと顔を上げ、グレナは問うた。声を震えさせてはいけない。剣は自分の手に、ない。


「そんな台詞を言っていていいのかな、グレナドーラ姫、いいやグレナドーラ!」


 男たちの向こうで声がした。囲みが少しだけ開き、声の主が姿を見せる。


「サイルード大臣……」

「グレナ!?」


 空気を切り裂く悲鳴。


「アルティ、来ちゃ駄目!」

「グレナ!」


 従妹が男たちに取り押さえられるのが見えた。


「やめなさい! アルティに手を出さないで!」


 サイルード大臣はふんと鼻を鳴らした。


「何を偉ぶったことを。この謀反むほん人、大罪人めが!」

「謀反?」


 きっと、グレナはサイルード大臣をにらむ。


「どういうことです」

「とぼけても無駄だ。お前が、このカルメナミドの宝、お世継ぎたるコルンヘルム王子殿下の暗殺を謀ったこと、すでに明白である!」


 大臣は手を振り上げた。


「さあ! グレナドーラを捕らえよ!」


 男たちが次々とグレナの体に手をかける。肩を、腕を、手首をつかまれ、押さえ込まれる。男たちの重みでグレナは膝を床につけさせられた。


「グレナ、グレナ! ひどいことはやめて!」


 アルティが叫んでいる。


「サイルード……」


 グレナは低くうなり、床の間近から大臣の顔を仰いだ。


「お前、お兄さまに何を……」


 見上げた大臣はただ薄く笑った。そして声高に言い放つ。


「謀反人、グレナドーラを地下牢へ! 連行せよ!」

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