第19話 リアリズムを煽るために
あとまあ、出来た物語の冒頭に
「この物語は実話に基づいている……」
と入れておけば、なんとなく読者も惹かれてしまうかもしれない。
いや、これはあまりにも姑息か?
そんなことはない。
わたしはけっこうやっている。
トビー・フーパー監督のホラー映画「悪魔のいけにえ」の冒頭に、こんなナレーションが入る。
「この物語はテキサスで実際に起こった事件を元にしている。犠牲者たちの若さを思うとこの事件の悲劇性はますます高まるが、だからこそこの事実を伝えたい……この『テキサス電動ノコギリ大虐殺』事件を……」
確かに「悪魔のいけにえ」はエド・ゲインという死体愛好家の変態の話に基いているが、エド・ゲインは電ノコで人を殺したりしていないし、確認されているだけでも1人しか生きている人間は殺していない。
あとまあ柳楽優弥くんがカンヌで主演男優賞を受賞した是枝裕和監督の「誰も知らない」の冒頭(ラストだっけ?)には、こんなテロップが入る。
「この映画は○○の○○で起こった実際の事件を元にしています。しかし登場人物たちの生活の細部や心情などは、製作者の想像です」
すばらしい。つまり、「事実にインスパイアされたウソだ」と宣言している。
だからあの映画はいいのだ。
「事実に基づく話」に、わたしはけっこう弱い。
たとえば、韓国映画には「実話系」のサスペンスが多いが、あれは大好物だ。
ポン・ジュノ監督の「殺人の追憶」はその最高傑作だと思う。
あんまり詳しく書くとまだ観ていない人へのネタバレになるので書かないが、物語は田舎町で起きる連続殺人事件を捜査する二人の刑事の視点で描かれる。
フィクションなら物語は、全てが落ち着くべきところに落ち着いて終わる。
そしてそれがカタルシスに繋がる。
たとえば犯人が見事逮捕される、とか。
犯人が逮捕されずとも、真相はすべて解明される、とか。
しかし、同作では「事実」に基いているがゆえに、そうはならない。
なぜならモチーフとなっている実際の連続殺人事件は、未解決だからだ。
フィクションの定石をブチ壊す予想外の展開が、観るものにインパクトを与える。
また、これも実話系韓国映画だが、イ・ギュマン監督の「カエル少年失踪事件」、あれはスゴイ。
田舎で起こった少年5人の失踪事件。
これを追うのが刑事ではなく、一旦はヤラセ報道で仕事を干されたテレビディレクター、というところがスゴかった。
映画自体も「実際の事件を元にしたフィクション」なのであるけれども、映画の構造自体も「事実を食い物にしてフィクション化し、エンターテインメントとして消費する」ということのウサンクサさを戯画化しているのだ!!!!
そして、事件の解明のためにいかにも頼りになりそうな心理学者が登場する。
これは観てない人へのネタバレになるので書かないが、フィクションなら絶対出てこないようなキャラクター、というかああいうキャラクターが出てくる以上、フィクションが成り立たない、というレベルのキャラクターなのだ。
凡百のフィクションに慣れ親しんでいると、多くの人間はお話の決まり事に慣れ親しみ過ぎて、物語を「物語として」楽しむことに慣れきってしまう。
多少、お話くさくても「まあフィクションなんだから仕方ないよな」で済ませてしまう。これは個人的に、よくないことだと思う。
少なくとも、物語を書いている人にしてみれば。
なぜなら物語は、辻褄が合わないと物語として成立しない。
起承転結があって、伏線が回収され、結末までに物語が終わらないと、「物語」的ではなくなってしまう。
そこがいいんじゃない!
という人も多いかもしれないが、わたしはあえてそれに異議を唱えたい。
だいたい現実とは、納得がいかないこと、辻褄が合わないこと、どうも腑に落ちないことばかりである。
わたしたちはそれに、なんとなく自分で合理性(のようなもの)を見出すことで、正気を保ってこの現実を生きている。
では、現実を映したものであるはずの物語が、合理性やら物語的なお約束に支配されてしまうのはなぜか?
それは、物語を書く人が
「現実が不合理・不条理なんだから、せめて物語のなかだけでもマトモに」
と願っているからではないだろうか。
現実にウンザリしている人は、物語のなかで理想の条理を構成する。
あるいは、そういう人の書くもののほうが、物語としてマトモなのかもしれない。
しかし、本来はイマジネーションを自由に羽ばたかせ、完全な思考の自由にひたることができるはずの創作の世界で、逆に合理や条理に縛られてしまう、というのは非常に皮肉な状態だといえる。
いかにもお話的で、物語くさい、フィクションっぽいものを書きたい人もいる。
しかし、リアリティとはどういうところに宿るのだろうか。
それは、「物語としてはありえない」展開やら、登場人物の描写、思考、行動に宿るのではないか、とわたしは考えている。
「物語としてありえない」というのはつまり、「現実だったらありえる」ことだ。
ニュースを観る、人と話す、社会生活を送るうえでさまざまなことを経験する。
「マジかよ? こんなことフィクションだったら0点だぜ!」
と思えるようなことに、しょっちゅう出くわす。
そういう経験の集積を、物語の構成に活かすと、なぜか物語は「物語として」調子ハズれなものになるけれども、ヘンにリアルなものになっていく。
そういう物語がわたしは好きだ。
そういう物語の素材を提供してくれる、現実というものをとても愛している。
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