第7話 少年に対する欲望(とその正体)
まったくもって犯罪的な章のタイトルになってしまったが、それを裏切ることなく本文も充分、犯罪的なものになりそうだ。
わたしがウェブサイトに載せるコンテンツとしてのエロ小説の方向性を探っていたとき、女性一人称告白体小説のほかに、もうひとつ大きく惹きつけられたジャンルがあった。
それはつまり……思春期(第二次性徴期~中高生)の少年に対する性的欲求を書き散らした、『少年愛』をテーマとしたものだ。
なんだ、そんなの今だって腐るほどあるじゃん、と思われる方も多いと思う。
が、いま、巷に溢れているいわゆる「ショタ」ジャンル、女性作家の手による「BL」ジャンル、あるいはイイ線行ってるかもしれないが、女装した少年をテーマにしたラノベ的な「男の娘」ジャンル、これらのものと、当時、わたしが惹きつけられた『少年愛』テキストは、まったく趣が異なる。
それらは、ほとんどホンモノの性的異常者による代物だった。
そういうコンテンツを作る人々は、本気で少年たちを性の対象として見ており、自分の犯罪的欲求のはけ口を求めて、サイト運営を行っていた。
“「らめええ! おち●ぽミルク、いっぱいでちゃうううううっ!」
ビュク、ビュク、ビュルルル!(云々)”
という昨今の定型化されたショタ系テキストと、それらは明らかに違う。
彼らの願望は、ロリコン趣味と同じく犯罪そのものである。
そして性的倒錯者としてある程度社会に認知され、
「そうとも! 俺はロリコンだぜ!」
と開き直ることもできるロリコンに対して、彼らの欲求には、あまりにもはけ口がなさすぎた。
彼らは、厳密に言えば、「ショタコン」ですらない。
そんな可愛らしいカテゴライズは、彼らには当てはまない。
アニメに出てくるような、マンガに出てくるような、あるいはアイドルのような、人気子役のような、そういう可愛らしい男の子に欲情するような人間は、いまでは一般的に「ショタコン」あるいは「ショタ」などと呼ばれる。
彼らを指す言葉として、わたしは便宜上『少年愛者』と言う言葉を使うが、厳密な意味でも『少年愛』とも、彼らの嗜好は違う。
『少年愛』と言えば、萩尾望都の耽美な世界、あるいは稲垣足穂のアカデミックな世界と結びつけることもできるだろう。
あるいは、
「古代ギリシャではプラトニック・セックスとは少年愛を指す言葉だった云」とか、「日本の少年愛の源流は“衆道”に求められており云々」とか、そういうアカデミックな方向付けに逃避することも可能だろう。
ぜんぜん違う。
彼らを現す言葉で、いちばんその実像に近いのは、幼児性愛者を指す「ペドフェリア」の思春期版「エフェボフィリア」というのが一番近いと思う。
どこに出しても恥ずかしくない、性的倒錯である。
これらのウェブコンテンツは思春期の少年が大人の男性から性的搾取される様を、「加害者側」からよりもむしろ「被害者側」から、つまり自分の過去の体験として描いているものが多かった。
“今まで恥ずかしくて誰にも言えなかったことをここに告白します。中学2年生の、梅雨の時期でした。自転車で下校中、川の堤防を走っていたところで突然、激しい夕立ちが降り始めました。自転車を押して土手を駆け下り、とりあえず一番近くの橋の下へ。濡れた頭をタオルで拭いていると、突然、後ろから知らない人に抱きすくめられました。「静かにしろ……大人しくしていれば怪我はさせねえ」ぼくは恐怖のあまり、固まってしまいました。誘拐される……? そう思った瞬間、突然、ぼくの股間に違和感が……なんとぼくを羽交い締めにしている男は、ぼくの股間をジャージの上からゆっくりと愛撫しはじめたのです。「なあ、もうオナニーはしてるんだろ?」……男が荒くて熱い息とともに、ぼくの耳元で囁きます。確かにその頃は、毎晩少なくとも3回はオナニーしていましたが、生まれてはじめて他人に、しかも男性に股間を触られたことは、とんでもないショックでした……(云々)”
こういう調子。
そして、まあだいたいのところ、少年は望まぬ射精を強いられる。
どう考えても、文学的にはならない。あるいは、不特定多数の読者の劣情を煽るような、エンターテインメントにも成り得ない。
確かに、犯罪的なコンテンツではある。
しかしこういうものを描く書き手というのは、少年への性的搾取を描きながら、自分自身が積極的に少年に対してそういうことをしたいと願っているのか、といえば、そうでもないような気がする。
彼らは、自分の妄想のなかで、変質者に辱めを受ける思春期の少年たちに、自分を投影している。
「ああ、自分にもこんな過去があればよかったのに」
というのが、彼らの描きたい妄想だ。
おそらく、彼らはポルノ愛好者ではあるけれども、男性的かつ攻撃的なポルノでは自らを満足させることができない。
ポルノの世界で、受け身の立場を取らされるのは、多くが女性である。
しかし、少年愛者は男性なので、完全に自分を女性に置き換えることができない。
だから、彼らは、かつて自分がたどってきた少年期の思い出を、淫らにアレンジして捏造し、それを表現する。
確かに、こういうコンテンツを並べていたウェブサイトのなかには、カルト的な人気を持つものもあった。
しかし、こうしたコンテンツを描いていた人々がなにを求めていたのかといえば、
既存の、店に行けば売っているような、あるいはネットで検索すれば出てくるような、そういうコンテンツでは慰めることができない、自らの特殊な欲望の救済を求めていたからにほかならない。
ファンがつこうがつくまいが、読者がいようがいまいが、関係ない。
物語を綴るということは、純粋に自己の救済であるべきだ。
その手のコンテンツから、わたしが学んだのは、この真理である。
だからわたしは、自分を救済するために、物語を描く。
でも、確かに誰かに読んでもらったり、感想をもらったりすれば、人並みにうれしいこともまた事実である。
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