第8話 で、わたしは書き始めた。とりあえず。
で、自分のエロサイト「西田三郎商店」を立ち上げ、わたしはオリジナルのエロ小説を書くことになった。
まあアイデアはいくつかあった。
あったけれども、それを形にするには多少、肩慣らしが必要だと思い、とりあえず、短い小説を3本ばかし書いて、それをアップした。
思ったより、すらすらと書けた。
よっぽどエロいことが頭につまっていたからだろう。
人が読んでエロいと思うかどうかは別にして、まあ自分で読む限りはそこそこエロいと思える作品を書けたことは、それなりの成功体験だった。
はじめて書いたのは、
「ほんとうにお願いします」というタイトルの小説。
とてもエロい会社の同僚の先輩がいて、彼女は誰とでもセックスさせてくれる、という評判が立っている。主人公はその噂を真に受けて、彼女の自宅マンションへ遊びに行き、正面から「セックスさせてください」とお願いする。先輩は「しゃあないなあ」と言いながらセックスさせてくれる。
そういう、元も子もない話だった。
それ以来「元も子もない話」というのは、わたしの創作すべてに通じる基本になっている。
ほとんどのものごとが、元も子もないのだ。現実の世界では。
そういうのが、ひょっとしたらリアリティなのではないか、と考えた。
けっこう、浅はかな考えだが、だいたいのエロ小説というのは元も子もない。
しょうもないオチをつけることは、あまり考えなかった。
なんかオチがついているエロ小説というのは、ダサい感じがした……「問題小説」とかに載ってるような、おっさん臭い小説みたいな。
わたしの敬愛する作家に、サマセット・モームがいる。
サマセット・モームは、小説にオチがあると「文学的ではない」とされた当時の英国文壇において、あえて短編小説にオチをつけることを恐れなかったという。
確かにモームの短編には「マジかよ?」というオチがついていることが多い。
「なにもそこまで?」という感じのオチがついていて、たまにビビる。
モームは「通俗作家」として評価され、その評価を屁とも思わずに、わかりやすく、丁寧なことばで、しかも読んでおもしろい作品を死ぬまで書き続けた。
モームはとてもひねくれていて、シニカルで、意地悪な作家だ。
だから短編小説のオチは、必然的にエグいことになる。
わたしは、モームほどの作品を書けるようになったら、作品にちゃんとオチをつけたいと思う。いや、たぶんいまの人生ではむりだろう。それは来世に期待している。
オチをつけることを回避し続けているのは、わたしの甘えなのかもしれない。
たとえばわたしは同時に、サキの小説が好きだ。
この作家も、たいへん性格が悪く意地悪でシニカルな作風が特徴だが、その性格の悪さを芸術の域まで昇華させた実に素晴らしい作家である。
この作家のオチは強烈だ。
読み終わると、ニヤリとするどころか、冷や汗が出る。
テメエ、いったいどこまで人をおちょくるんだ、と怒りすら湧く。
これもまた、生まれ変わったらそういう作品を描きたいと思う。
また、短編の名手として、わたしはパトリシア・ハイスミスの小説が好きだ。
ハイスミスの小説のオチは、それがいったいなにを意味しているのかわからない、不可解な寓話を読まされたような気分にさせるものばかりで、あの読後感はちょっとドラッグじみた魅力にあふれている。
たくさん読むと、ちょっと鬱になる。
わたしは自分で言うのもなんだがとても人がいいので、こういう性格の悪い作家たちの作品に強く惹きつけられる。
そういう傑作を読むたびに、
「ああ、こういう作品はおれにはぜったい書けない」
と痛感させられる。
だからわたしは、オチのない小説という作風に逃げた。
でも、へたくそな作家や中途半端なアマチュア小説書きが、
「ホレ! どうです? ヤバいほどしっくりくるオチでしょう!」
とでも言いたげに、「はい?」と言いたくなるようなオチを小説の最終章に持ってきているのを見るたびに……わたしはとてもゲンナリする。
ちなみに、「ほんとうにお願いします」は、近日中にカクヨムにて公開する予定なので、どれだけオチがないか確認していただけるとありがたい。
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