第17話 文体と村上春樹について

 ところで、文体に関してだが、よく耳にする(あるいは目にする)言説で、こういうのがある。


「なんか、村上春樹は文体が好きになれないんだよね。どっちかと言えば村上龍のほうが好きなんだけど」


 まあ、文体の好みというのは人それぞれだが、村上春樹はものすごーーーく、この「文体」というファクターで「超大好き」と「死ぬほどキライ」に分かれる稀有な作家だと思う。


 しかし余談になるけど、なんで村上春樹と村上龍って、人の頭のなかでニコイチになってるんだろうね?

 苗字が一緒なだけで、ぜんぜん違う作家じゃないか。

 たとえば

「うーん、塚本晋也の映画はどうも好きになれないけど、ヘンリー塚本の昭和ポルノAVは好きなんだよね」

 つってるのと同じような気がするのだが。

 いや、どっちが悪くてどっちがいい、なんて話をしているんじゃないが。



 村上春樹が好きな人(わたしも含む)は、あの文章に魅了される。

 というか、読んでいて「ああ、コレコレ、これだよ春樹節(笑)」というところを、クスクス笑いながら読むのが楽しい。とくに村上春樹自身も最近の作品では、そういう読者を想定して、セルフパロディをやって楽しんでいる感がある。


 なんといっても、村上春樹といえばあの暗喩だ。


「そんなことはまるで月の裏側で誰かと待ち合わせをするようなものだ」


 とか、そういうの。


 あれが、苦手な人はホントにダメらしい。

「ウゲッ!」となるという。

 まあそれは好みの問題なので仕方ないけれども、なぜか村上春樹の暗喩は、頭に残る。読了して数年後とかに、「あ、なるほど。こういう感じが『月の裏で誰かと待ち合わせする』ような感じなんだな」と合点がいくことがある。


 極端すぎる暗喩のせいで「コジャレまくってる」と一部の人に嫌われる村上春樹だれけども、あれはもう唯一無二の芸であって、誰もあれをマネすることはできない。


 あと、村上春樹の文章はとても読みやすく、感情を感じさせない。

 それが苦手、という人もいる。

 いかにも翻訳調で、ウザいという人もいる。

 ちょっと、「共感」を拒否するような文章に思えることもある。


「わからん人は置いていきますよ。義務教育やないんやからね」


 と、テント兄さんの口上のような印象を受ける人がいるらしい。

 


 村上龍が村上春樹のことをどこまで意識しているのかは知らない。

 が、「コックサッカーブルース」は、村上龍が果敢に村上春樹的な世界に挑み、主人公である「私」が、


『ああいう連中の仲間入りを果たせないマトモな自分を肯定したい』


 と、開き直りながら自分を肯定する感動作である。


 

 村上春樹の文章が苦手な人は、あの人の文章が「なあ、そう思うだろ?」と訴えかけてこないところがウザいのではないか、と思う。

 いわゆる単純な「共感」を求めてこない態度、あれがイラつくのだろう。

 まあキライなものはキライであって、キライであることに理由などないのだが、わたしとしては、村上春樹の魅力はそこにあると思う。


 わたしは、人に馴れ馴れしくされるのがものすごーーーく嫌いだ。

 あとまあ、飲み会の席なのでみんなが誰かの悪口を言っていると不快になる。

 さらに、「男だからわかるだろ?……女ってのは……」みたいな物言いで共感を求められると、「知るかボケ」と思うタイプだ。


 

 「共感」あるいは「共通理解」というものは、この世界をわかりやいものとしてとらえるための方便であって、かたちのない、あやふやなものだと考えている。

 かといって、それがないと、他者とまともなコミュニケーションをとることはできない。だから、誰もがある程度、「わかったふり」をして過ごしている。



 他者に対する親しみや感情移入など、「共感」や「共通理解」はすばらしいものを生み出す。それがないと、やはり人間は物語を描けないと思う。


 その反面、


 物語の語り口が最初から「ねえ、こういう気持ちってわかるでしょ?」「男ならこういう行動をとるよな」「女だったらこう考えるはず」という「共通理解」のもとに成り立ち、安易に「共感」ばかりを求めるならば、なにか不満を感じる。


 

 あまり「共感」やら「共通理解」に乗っかりすぎると、物語は陳腐になる。

 そこで描かれるのは単に作者の偏見であって、一部の人間の共感だけを求めていることにもなりかねない。

 それは、ある種の「媚び」であるともいえる。

 読者を尊重すべきだけれども、甘く見すぎてもいけない。

 


 まったく余談や偏見をはなれて、この世界を見ることは難しい。

 しかしまあ、物語をつくるというのは、もともとそういう行為ではないかと思う。

 なにより物語を書く人間は、自分の世界を他者に露出したい。

 だからこそ、よりよく、より幅広く理解されたい。

 だから、「共感」や「共通理解」に乗っかって、物語をソフィスティケートする。

 そうしていくことで、自分がもともと表現したかった、「自分だけの世界」からどんどん離れていく。


 

 わたし個人としては、避けたいと思う事態だ。


 

 世の中に「ひとりよがり」と言われる作品がある。

 また、「難解だ」という理由で嫌悪される作品がある。



 いつも村上春樹の作品を読んで感じるのは、物語を描くということに関して自分のやりたいように、誤解を恐れず、批判など気にもとめず、あそこまで好きなことを追求してもいいんだ、という開放感だ。

 


 短い作品だが、わたしは「スプートニクの恋人」がいちばん好きだ。

 そこから、小学校の教師である主人公の青年の独白を引用する。



“「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」とぼくは小さな声に出して言ってみた。それはぼくがいつも教室で子供たちに向かって言い聞かせていることだ。でもほんとうにそうだろうか? 言葉で言うのはやさしい。でも実際にはどんな小さなことだって、自分の頭で考えるのはおそろしくむずかしい。いや、むしろ小さなことほど自分の頭で考えるのはむずかしいのかもしれない。”



 まあわたしは村上春樹が好きなのだ。文句あるか。

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