第16話 文章について(当たり前のこと)

 文章は、読みやすいものがいい、これにつきる。

 それが自分にはできていないから、改めて自分に言い聞かせているのだ。


 読みやすい文章を追求するということに関しては、「よし、俺は読みやすい文章を書けるようになった、これで大丈夫だ」と安心することはないだろうと思う。


 この章ですでに4行の文章を書いたが、たぶん明日、改めて読みなおしてみれば、「ああ、ここがダメだ。ここはこうすればよかった」と、反省するに違いない。


 いや、文章に関しては一生、反省し続けるべきだと思う。

 文章を書き続けるのをやめないかぎり。


 でもまあ、わたしの仕事はコピーライターだ。

 仕事で文章を書いている限り、納期がある。

 というわけで、文章に対する反省もある程度にしておかなければならない。

 まあ、文章をゼニにしている人はみんなそうだろう。

 ある程度、後ろ髪を引かれながら、文章をゼニにしている。


 

 では、どういうのが「読みやすい文章」なのか、といえば、これは単純な話で、通して読んで「ん?」となるところがない文章だ。


 あたりまえだろう、と思われるかもしれない。


 しかし、これがメチャクチャ、ムッチャクチャ難しい。

 どういうところで「ん?」となるか、それは読む人の目の厳しさに掛かっているけれども、意味が通じないとか表現があいまいとかいう以前に、書かれた文章を意識せずに読み通せる、そういうのが名文だと思う。


 つまり、極端な話でいえば、

「誰かが意識して何かの文章を書いたような『作為』を一切感じさせない文章」

 もうちょっと高望みすれば、

「『誰かが書いた』という事実を感じさせない文章」

 そういう文章を、わたしはめざしている。


 これは、誰それの文章がそんな感じだ、と例を挙げることはできない。

 というか、わたしはそこまでの名文に、まだ出会ったことがない。


 たとえば、句読点が絶妙な位置にあり、多すぎも少なすぎもしないとか。

 最近になって、句読点は、あまり、多くないほうが、いいことに、気づいた。

 あるいは、漢字の開き方のセンスが絶妙であるとか。

 誰もが読める漢字でも「開く」と「ひらく」でびみょうに文がやわらかになる。


 こういうことがすべてバランスよくととのっている文章が、わたしがめざすところの「空気のような文章」なのだと思う。


 おそらくそういう文章をめざして、めざし続けて、わたしの生涯は終りをむかえるのだと思う。そして途なかばで、息絶える。

 たぶん一生、理想の文章を書ける日はこないと思われる。


 まあでも、文章に関しては一生をかけて向上心を持ち続けたいと思っている。


 

 ただ、あまり文章にこだわりすぎるのも問題だと思う。

 一行書いてみて、「文章が」しっくりこないから、それ以上書き進められない。

 というような状態になったら、もうそれは文章への理想が高すぎて、それが物語を書くことの障害になっているという危険な状態だ。

 

 頭から小説を書く場合、最初の1~2章はもう肩慣らしというか、自分がその物語に入っていくためのスタートダッシュなので、あんまり余計なことにとらわれていてはやってられない。


 うまいこと最後まで書き上げられたとき、ああ、こりゃいらねえな、と思えば冒頭部分をバッサリ削ってしまう、という手もある



 文章は自分に対する厳しさと、甘さの加減を調整する目安であるように思う。


 文章とは、読者とのコミュニケーションの言語なのだろう。


 相手のことを思うなら、わかりやすく、読みやすいほうがいいに決まっている。

 さらに言えば、わざわざ読んでくれている相手に苦痛を感じさせないほうがいいに決まっている。


 読者はありがたい。

 今回もこんな文章を読んでくれて、どうもありがとうございました。

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