20

「あいつは私の夢を壊しに来たのかな」

 先輩は遠くで上がる爆発の炎を見つめながら言う。

「夢の壊し人ですか、面白いこと言いますね」

 先輩を後ろに乗せながら僕は自転車のペダルを漕いだ。

 平坦で無機質な道が続く工場地帯は生き物の気配は一切なく、僕たちの存在が浮き立って感じられる。

 遥か後方でマシンガンの銃声が聞こえた。

 不気味に蠢く暗雲の空の下、煌々と立ち上る炎が随分と遠くに見える。

 コートの男が雨蛙と戦っている隙に距離を稼ぐことができたようだ。もう逃げ切れたと思っていいだろう。

「先輩、蛙苦手だったんですね」

「女の子だからな」

「そんな無条件に嫌いになるものですかね」

「そりゃ小さい頃はちょっと苦手な程度だったよ。ダメになったのは中学生から、最悪な事があったの」

「蛙の轢死体を見たとか?」

「私だって田舎育ちだからそのくらいよく見かけたよ、もっと嫌な事があったんだよ」

「言わなくていいです、聞きたくないです」

「なんでだよ!」

「トラウマになるくらい嫌な話なら聞きません」

「あっそ」

 一呼吸あってから「思い出すのも嫌だな」なんて前置きをして先輩はその出来事について話し始めた。

「中学の時さ、実家で犬を飼ってたんだ。毛がフサフサのゴールデンレトリバーでね、賢くて可愛い奴だったんだよ」

 先輩は「聞いてる?」と問いながら僕の背中をバシバシ叩いた。

「ある夏の日にその子の散歩をしてたんだけど、道へひょっこり一匹のアレが現れたんだ。んん、アレな。分かるだろ?」

 背後で何度も身震いをする振動が伝わってきた。

「はいはい」

「そしたらさ、そこ子が急にパクってそいつをくわえたと思ったらそのままゴクって、飲んじゃったの!」

「……それで?」

「それでじゃねーよ! 可愛い愛犬がアレを丸呑みにしたんだぞ! よく考えてみろよ、頭を撫でている時も、ソファーでまどろんでいる時も、あの子のお腹の中にはアレが入っているんだぞ!」

 話が突飛すぎてよくわからない。いかにも先輩らしい話ではあるけど。

 適当に聞き流そうとして「なるほど」と答えると、先輩は一層話に熱を入れた。

「いいや、お前は分かってない。あの瞬間の衝撃は私にしか分からないよ。とにかく、その時から私はアレを見ると自分のお腹の中にアレが居るような気がして気持ち悪くなるんだ。じっと見てると、お腹の中のアレが口から出てきそうな気がして……うう、吐きそう」

「大丈夫ですか? 家まで我慢できますか」

 家まで我慢できるか、自分でそう発言してこれが夢であることを再度思い返した。これはアルバイトの帰り道ではない。僕は先輩をこの夢の中から連れ戻そうとしていたのだった。

 でもどうやって? 

 無機質な公道の彼方に、ゆったりと弧を描く大橋の姿が見えた。

 あれだ。前に荒川を渡って夢に入ったことがあった。逆にあれを渡れば現実の世界へ戻れるはず。立ち上がって体重を乗せてペダルを踏みしめると、ゆっくりと速度が上がっていく。

「おい、急に立ち漕ぎするなよ。危ないだろ」

「ちゃんと掴まっていて下さい、スピード出しますよ」

 ギアがギリギリと苦しそうに唸る。

「どうした?」

「あの橋、あれを渡れば、きっと現実に戻れます!」

 急にペダルが重くなったような気がした。どれだけ力を込めても上手くスピードが乗ってくれない。

「現実に戻るって、目が覚めるって事?」

「そうだと……思います」

「そんなに急がなくていいよ、ゆっくり行こう。疲れちゃうだろ?」

「そんなこと言って、先輩は全然戻ってこないじゃないですか、みんな心配しているんですからね……今日こそ、連れて帰ります!」

「あっそ、お前頑固だよな」

「お互いさまでしょーが。いつまでも夢見てないで、いい加減現実を……」

 いい加減、現実を見ましょう。

 なんて嫌な言葉だろうか。


 ギシギシ、ギリギリ、不愉快な音を立てて自転車は進む。

 この夢において慣性の法則は無視されたらしく、いくら漕いでも速度は下がり続けた。

 大汗をかきながらもようやく大橋に差し掛かった。

 緩やかな傾斜ではあるが、この調子では心臓破りの急斜面と変わらない。

「んぐぅうう、どうして、進まないんだ!」

「なあ、わたし降りようか? 重いって言われているみたいでけっこう傷つくんだけど」

「だめ! 一緒に帰るんです」

「そう言ってもさ、歩いたほうが早いよ、絶対」

 先輩の言う通り、自転車はほとんど前に進んでいなかった。堅いペダルを全力で踏むとその分そろりと前へ進む程度。

 この現象の原因は僕にある。先輩を連れ戻すと大見得を切っておきながら、僕自身が現実へ戻ることを拒否しているんだ。

 戻るべき現実にも良い所はあるじゃないか。大森、藤田、山本さんや同期の友人たちの顔を思い描いてみるけれど、それに付随して嫌な思い出も引っ張り出される。こんなんじゃ、前に進めるわけがない。

 それでも、帰らなくちゃ。

 ここに居ていいはずがない。

 

 自転車はようやく橋の中腹へ差し掛かった。

「ずっとこのままじゃダメなのかな」

 弱々しく先輩が呟いた。

「ダメに決まっているでしょう!」

「でも、ここに居た方が楽しいよ。ムツだってそう思うだろ?」

 否定はできない。今だって心の半分は現実に戻ることを拒否しているんだから。それなら、残り半分はどうして戻りたいと思っているのか。

「無理して戻るほどの理由があるのかよ、わたしはもうこっちの方が楽だよ」

「僕はまだ……あきらめてない。そうだ、あきらめてない!」

 自分でも驚くくらい、その言葉がしっくりきた。

「散々逃げて来たけど、それでもまだあきらめ切れない」

「嫌な事と向き合わなくちゃいけなくなっても?」

「死んでから神様に突き付けられるくらいなら、生きてるうちに自分からぶつかって、どんなに痛くても自分で結果を見つけないと。何もしないで死ぬまで、死んでからも後悔し続けるなんて、それだけは嫌だ」

 脚本家になることも、東京での生活も、先輩との関係も、何一つあきらめたくない。 

「わたしは、あきらめたよ」

 ペダルが急に軽くなった。

 先輩が自転車から降りたのだ。

 慌てて止まり、振り返ると、悲しそうに佇む先輩がいる。

「あたしはあきらめちゃったよ。あいつに約束したのに、嫌になって逃げだして、全部放り出した。今度ぶつかったら、痛すぎてもう生きていけない」

「その夢は僕が引き継ぎます。だから全然後ろめたく思う事なんて無いです。きっと先輩のすべきことは、別にあるんじゃないですか?」

 白み始めた水平線にオレンジ色の光が差し込んだ。藍色の空が光に薄められ水色に輝く。

「…………そっか、そうだな」

 もっと早くそうすべきだった、今までの時間は無駄だった。

 いいや違う。今だからこそ出来る事だってある。ようやく、それが可能になったんだ。

 朝日が先輩の金髪を照らし、キラキラと輝いた。

 風になびく髪から光の粒が零れて七色に輝く、そして、幾多の光は空中を漂いながら形を変え、銀色の小魚に変化した。

 小魚たちはその小さな銀色の鱗で光を反射させながら群れを成して先輩の周りを泳いだ。いたるところで光が乱反射して花火の様に七色にはじけ飛んだ。

「ムツに会えて本当に良かった」

「僕だって、先輩がいなかったらどうなっていたことか」

 先輩は目を細めてほほ笑んだ。

「あたし、あいつに会ってくる。それで文句言ってくるよ。

 勝手に死んで、挨拶にも来ないで今まで何してたんだバカヤローって。ちゃんと帰るから、ムツは先に行ってくれ」

 

 小魚の群れが一枚の鏡の様に先輩を取り囲む。光が飛び散り、世界が分断され、全ての色彩を消し去る眩い光が、この夢の終わりを告げた。


 

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