22

 闇の底に足が着いた気がした。

 でもそれは勘違いだ、僕にはもう手も足も無いのだ。無限に広がるこの闇が僕自身なのだから。

 僕はまた真っ暗闇の中へ戻ってしまった。

 どうしてまたここに戻ってしまったのだろうか。先輩がいないことがそんなに悲しかったのか。こんなに悲しむくらいなら、どうして先輩を連れてこなかったんだ。いや、もし僕が先輩を連れて来たとして、それは先輩が望んだことなのだろうか?

 僕らが一緒に過ごしてきたのは、僕が望んだことであり、先輩が望んだことでもあった。そんな曖昧な信頼関係で僕と先輩は繋がっていたんだ。でもだからこそ居心地が良かったのだと思う、だからこそ一緒に居られたのだと思う。

 僕らは同じ夢を見ていたわけじゃない、同じ布団で寝ていた時の様にちょうどいい距離感で隣り合っていたに過ぎない。先輩が望まなくなれば簡単に壊れてしまうと知っていたはずなのに、僕はこの関係が永遠に続くとでも思っていたのだろうか。

 今ならはっきりと分かる。この関係は先輩が望んだことで、僕が望んだことじゃない。僕はもっと先輩に近づきたい。先輩に触れられるくらい近くまで。それを先輩が望んでくれないんじゃないか、そうと思って怖がっていただけだ、僕はあきらめたくない、夢も、東京の生活も、先輩の事も。

 先輩に会いたい、こんな場所に居たいわけじゃない。

 埋め尽くす闇を見渡して、ここから抜け出す方法を探す。

 大昔の人は真っ黒な布が空を覆って夜になると考えていたと、先輩が言っていたな。ひょっとしてこの闇も果てのない奥行きがあるように見えて実はただの布なんじゃないだろうか。もしそうなら、僕は闇に溶けてなんてない。

 集中して手の感覚を研ぎ澄ます。手の形をイメージして、それを前に押し出した。ほんの少しだけ闇が揺らいだように見えた。もう一度、今度はもっと強く。

 すっと指先に何かがふれた感触があった。

 もっと強くできれば、この闇を引きはがせるかもしれない。

 集中して、押す。

 ダメだ、あともう少し、もっと早く!

 集中して、押す!

 くそ、もっと、もっと強く!

 何度やっても上手くいかない。触れる感触は強くなってきているのは確かだ、でもふわりとひるがえるだけで押しのけられない。

 どうして上手くいかないんだ。手元に視線を落として、その原因が分かった、手の感覚は確かにある、なのに暗闇に飲まれて見ることができない。

 なぜならそれは、僕が目を閉じているからだ。

 もう一度集中して、力いっぱい手を前に張り出した。

 それと同時に、目を開く。

 押しのけられた一枚の闇がひるがえり、真冬のような冷たい風と共に、まばゆい光が差し込んだ。


 


「パチン!」

 何かが弾けたような音と同時に手のひらが何かに触れた感触が伝った。

 痛いくらいの眩しい光の中でどうにか目を開くと、眼前には確かに僕の手があった。その手はオレンジ色の物体に触れている。温かく少し湿っていて、柔らかい表面の奥に堅い筋のようなものがある複雑な代物だった。

 その物体は触れられた事に反応し、ぐにゃりと動くと「痛ってーなこの!」と怒鳴って僕の頭を殴った。

「寝ぼけてんじゃねーよ、バカムツ」

 そう吐き捨ててから、ごろん、と背を向けて横になった人物が、小坂先輩だと認識するのに多少時間がかかった。確かに寝ぼけていたのは認めるが、殴られた痛みですっかり目は覚めた。

 先輩はいつも寝間着として使っているオレンジ色のTシャツを着ているし、

 声に似合わない粗暴な言動は確かに先輩のものなのだが、先輩のトレードマークともいえる金髪がどこにも見当たらないのだ。

「あの、小坂先輩」

「んん?」と不機嫌さをそのまま声に出したかのように唸った先輩の髪は、朝日を浴びて青黒く光る黒に染まっていた。

「んん、じゃなくて。何してるんですか」

「後で説明するから、とりあえず寝かして。帰りのバスの中であんまり寝られなくて……ねむい……」

「寝る前に説明くらいして下さいよ」

 肩を掴んで正面に向けると、先輩はすでに寝入っていた。

 仰向けに無防備な寝顔を晒している姿を見ると、無理に起こす気も失せてしまった。

 辺りを見回してみる。間違いなくここは僕の部屋だ。先輩の部屋じゃない。玄関に先輩のものと思しきキャリーバックとお土産の紙袋が置いてある。やっぱり先輩はどこかに行っていただけなのだろう。

「人騒がせな先輩だな」

 フーっと、エアコンが冷めた息を吐いた。


 寒々しい部屋からベランダへ出ると蒸し暑い熱気と海風が僕を出迎えた。

 輝く朝日が今日はまだ始まったばかりだと告げている。車が走り、人が行き交い、電車が走る。当たり前のように川が流れ海へつながる。

 変な夢を見ていた気がするのだが、うまく思い出せない。歯がゆい気持ちのまま欄干に肘をついて掌を眺めた。


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