21

 目を開くと、わずかに青色を帯びた薄暗い空が広がっていた。

 夜明けが近いのかとそう思った。

 体を起こしてみると、見慣れた風景が広がっている。どうやら僕は大橋のちょうど中間にあたる場所で倒れていたらしい。夢の中と同じ場所だ。

 傍らには僕の自転車が倒れている。さっきまで走っていたような疲労感と筋肉に残る熱を感じて、静まり返った夜明け前の町で僕だけが生きているように思えた。

 さっきまで肌身に感じていた奇妙な出来事を思い返そうと記憶を探ってみるけれど、真っ暗な沼に沈み込むように消えていく。何かとてつもない出来事があったような気がする、でも思い返そうとした途端にそれは音もなく消えていくのだ。

 何か大事な物を失ってはいないか。

 思い出せない。

 何か大切な物を受け取ったのではないか。

 思い出せない。

 音もなく消えていくんだ、今、この瞬間に。

「先に行ってくれ」先輩の声だ。頭の中にその言葉がわずかに響いた。

 倒れた自転車を起こして飛び乗った。

 白みゆく空を見上げて走り出す覚悟を決める。

 急げばまだラストシーンには間に合うはずだ。

 再会の場所は朝日が昇る浜辺。


 


 夜明けを前にして町は静寂に包まれていた。

 神聖なその瞬間を待ちわびる万物が祈りを捧げているようだ。誰しもが頭を下げ、目を瞑り、今日が始まるのを待っている。

 車も人も無く、街灯がわずかに残る薄闇を照らしている。

 一晩中走り回っていたような疲労感が両足に残っているけど止めることなくペダルを漕いだ。痺れるような倦怠感が足の感覚を奪っていく。

 学校の前を通り、駅前のアーケード街を抜けて牙城に入る。ここにも人気は無く、昨晩の残り香の中を突き進んだ。

 牙城を抜けて大通りに出る。空が開けて白い光が差し込んだ。

 もう足の感覚がほとんどない。力が入らないから体重をかけて漕ぐ。止まっている時間はない。朝日の登るその瞬間までに、浜辺へ行かなくちゃいけない。きっと先輩はそこに来るはずだ。

 車道を横切って広く長い大通りを突き進む、臨海公園の観覧車が見えてきた。  

 息が上がって、汗が噴き出して、足ががくがく震える。

 あとちょっとだ、あきらめるものか。


 


 臨海公園に入ったころには喉の奥までカラカラに乾ききっていた。

 呼吸のたびにヒューとかすれた音が鳴る。

 芝生の匂いに雑じって潮風が香る。遊歩道のなだらかな傾斜を必死になって上る。やがて下り坂になり、広場の向こうに水平線が見えた。美しい青とオレンジのグラデーションの配下にひときわ輝く部分がある。日の出はもう秒読みに入った。

 一気に斜面を下り切り、誰もいないのをいい事に徒歩でしか渡ってはいけない葛西渚橋を自転車で走り抜ける。潮風が汗を冷やして最高に心地よく、全身に風を受けて空を飛んでいるような気さえした。

 やがてオレンジ色の光がレーザー光線の様に差し込み、太陽がその頭を出した。

 眩しさに思わず眼前に手をかざして目を細めると、前輪がガタンと強く揺れて僕は体勢を崩した。本当に空を飛んでいるような気になっていたのかもしれない、橋はとっくに終わって、その先にある砂の積もった石段まで来ていたのだ。慌てて体制を立て直そうとしたが間に合わず、バカみたいな不注意のせいで自転車は横転し、僕は砂浜へ投げ出された。

 

 砂まみれの顔を上げて辺りを見渡す、先輩に見られていたらきっと笑われるだろう。でも見渡す限り人影はなかった。

 早すぎたのだろうか。なんだか嫌な予感がする。先輩の事だからいつもみたいに遅刻してくるのかもしれない、でも……。

 震える足で立ち上がり、体に付いた砂を払っていると、辺りの砂を巻き上げるほどの強い海風が吹いた。水平線の輝きは頂点に達し、ついに太陽はその全貌を表した。空にかかる薄雲を吹き飛ばし、街に残る夜の欠片を焼き尽くすほど力強い輝きを放つ、「燃えるような朝日」そのものだった。

 それは今まで見たどんな朝日よりも美しく、力強く、震えるほど孤独で、痛いほど寂しい瞬間だった。

「こんなに美しい朝日を見たことがあるだろうか」

 僕の問いに答える者は無く、波の音だけが静かに響いた。

 太陽を見つめる目から涙がこぼれた。心臓が握りつぶされるほど苦しくなって、僕は思わず目を閉じた。

 溢れた涙が頬を伝う感触が、波の音が、太陽の温かさが、しだいに弱まっていくのを感じる。僕の意識がまた暗闇の中へ沈み始めた。そうと分かっていても、僕は抗おうともしなかった。一刻も早くこの場から逃げてしまいたかったからだ。

 

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