23

 こうして小坂先輩の行方不明事件は幕を閉じた。

 泥の様に眠る先輩を横に、僕は山本さんに連絡を入れた。

 その一報を聞いた山本さんが各方面へ連絡をして、夜に先輩の生還祝いと夏休みの終わりを憂いて飲み会が開くことになった。

 百物語に参加していたメンバーと同期の友人、とにかく来いと呼ばれ訳も分からず参加した後輩などが加わり、予想以上に大所帯となってしまった。その為、居酒屋の座敷を貸し切っての大規模な宴会となった。

 そんな大人数を相手に先輩は乾杯の音頭をとる羽目に。散々人に心配をかけた罰が当たったのだろう。

 先輩は酒を飲む前から真っ赤になっておずおずと謝罪を述べた。それから、行方不明になったのではなく、携帯をアパートに忘れて実家に帰ってしまったのだと訳を話す。

「バカか!」「心配させやがって!」「大好きだ!」などのヤジを受けて先輩は一層顔を赤く染めて、これ以上の追及を避けるように「乾杯」と声を張り上げた。どっと笑いが起きて宴会が始まった。

 宴会の最中も、先輩はずっと宴の中心に置かれ、恥ずかしそうに何度も頭を下げていた。そうして何度も酒を勧められていたのだが、日本酒ばかり飲まされたせいであっという間に酔いつぶれてしまった。


 酔っ払いたちの気迫に押されて宴会の隅に追いやられた僕が一人でから揚げを頬張っていると、先輩がよろよろと歩み寄って来てごろんと横になった。

「うう、わたしが何したって言うんだあ」

「携帯忘れたのが運の尽きでしたね」

「ちっくしょお」

 酒の行き渡った宴はもはや先輩の所在など感知しておらず、何とはなしに盛り上がっている。それはもう異常なほど。

「なあ、ムツ。お前、なんでうちの鍵持ってたんだ?」

 帰省していた先輩は夜行バスで東京に戻ったのだか、道中ほとんど寝ておらず、やっとの思いでアパートにたどり着くもむなしく、鍵が無いことに気が付いた。どこかで落としてしまったのかと考えつつ、スペアキーを取りに最後の力を振り絞って僕の部屋までやって来たが、ついに力尽き、もうここでいいやと眠りについたのだという。

「そりゃ先輩がスペアキー置いておいたからでしょ」

「いんや、あれスペアキーじゃないんだ。隠しておいたのはちゃんとテレビの裏に張り付けてあったし」

 そんなところに隠してあったのか。

「なんで? どっかに落ちてた?」

「拾ったって事は、落ちていたって事ですよ」

「そっか」

 とは言え、どこで拾ったのか全く覚えがなかった。

 不眠症は改善に向かっているものの、物忘れの酷さは相変わらずで、ここ数日の記憶が曖昧になっている。もっと言えばかろうじて記憶に留めている出来事が、実際に起きたことなのか、それとも夢で見たことなのかはっきりしない。ちょうど今もそんな感覚に見舞われている。

 座敷で行われる宴会。楽しそうな笑い声と居酒屋の匂い。この雰囲気、この光景を、最近どこかで見たような気がする。それが現実だったのか夢だったのか区別ができなかった。

「あ、デジャブだ」

「先輩もですか」

「ムツも? そういえば、なんかお前もいたような気がするな」

「僕も、先輩がいたような気がします」

 奇妙ではあるけれど、無性に心地の良さを感じる光景にしばし見入っていた。

「そうだ、ムツに頼みたいことがあったんだ」

「僕にですか?」

「うん、ちょっと無理なこと言うかもしれないけどいいかな」

「僕に出来る事なら」

「わたしの代わりに、脚本を書いてくれないか?」


 


 数時間の後、宴会はお開きとなった。

 ほとんどの人が二次会に移行する最中、不眠症の僕と睡眠不足の先輩は帰宅することにした。もちろん会費は払おうとしたが、山本さんが僕たち二人の分を出してくれると言うのでお言葉に甘えた。

「じゃあな少年、また近いうちに」

「はい、また牙城にて」

「はっはっは、牙城は我が物なり!」

 次のステージに向かう一団に手を振り、今にも寝入ってしまうそうな小坂先輩の腕を持って家路につく。

 牙城を離れると喧騒は遠ざかり、物言わぬ街灯が点々と街を照らしている。道を行く人も疎らで、遠くに見える明かりの灯ったマンション群が間接照明の様にキラキラ輝いた。


 先輩は百物語イベントがあった次の日。実家へ帰ったのだという。思い付きとかではなく、最初からそうする予定だったのだ。

 ただし帰省の支度は「前日の夜にすればいいや」と安易に考えていた。そこが如何にも先輩らしい。でも知っての通りそれは出来なかった。まして翌日に寝坊したものだからさあ大変、慌てて支度をして家を飛び出し新幹線に乗ってからようやく忘れ物に気づいたのだという。

「携帯電話を忘れたのは痛手だったなあ」と思いつつ、それでもいいかとそう思っていたらしい。外部と連絡が取れない方が、逃げ場が作れなくなるから。

 久しぶりの帰省といっても、そこまで固い決意を要するものだろうか。

 その疑問に先輩はこう答えた。

「報告とか、お願いとか、あと、やっておかなきゃいけない事があったんだ」

 まず、就職先が決まった事を両親へ報告したそうだ。

「え! 聞いてないですよそれ!」

「へっへっへ」

 つまるところ、以前に行われた「女だらけの鍋パーティー」とは、先輩の内定を祝したささやかなパーティーだったそうな。なんで僕には言ってくれなかったのだろうと寂しい気持ちになった。

 そしてお願いとは、就職先の近くに引っ越しをするための資金援助のお願いだったそうだ。まだ学生の身分ではあるがアルバイトとしてならすぐにでも働かしてくれるという事で、都心部への移住を決めたそうだ。

 この話を聞いて僕の心中は真冬の様に冷え渡ってしまった。そんなことも知らず先輩は話を続ける。

「金髪で帰ったらさ、婆ちゃんが泣き出しちゃって。孫が不良になっちまったーって。だから帰省早々に美容室に行ってきたんだよ」

 この期に及んではどうでもいい話だった。でも小坂先輩は近いうちに、確実に僕の元から離れていく。その事実だけが残っている。

「や、やっておかなきゃいけない事って何だったんですか?」

「あーそれね……」

 墓参りに行ってきたのだと先輩は言った。

 とても大切な人だったのに、今まで一度も行けなかったから、覚悟を決めて行ってきたのだとそう話した。

「わたしの初恋の人でね、恋人でもあったんだ。急に死んじゃって、それが受け入れられなかったというか、認めたくなかったっていうか。怖かったんだ、ずっと……」

 

 簡単な相槌を打とうとしてうまく声にならなかった。言葉が喉につかえるのを感じて、初めて自分が泣きそうになっていることに気が付いた。声を出したら涙まで出てしまいそうだ。

 その人とは中学と高校が同じだったこと。

 高校で仲良くなって同じ写真部にいたこと。

 その人が中心となって映画を撮ろうとしていたこと。

 その人のことが大好きだったこと。

 どうして死んでしまったのか、最後まで自分には分からなかったこと。

 先輩は僕に話して聞かせた。感情は表に出さず、淡々と事実のみを語るように、背負っていた荷を下ろすように。

 今まで色も無く先輩を取り巻いていた存在がいともたやすく、当たり前のように正体を明かしてく。映画のエンドロールみたいに次から次へと。僕は何度もうなずいて話を聞いた。

 僕が黙り、先輩も黙った。

 先輩が足を止めて、僕も止まる。

 冷たい秋風が濡れた頬をなぞり、僕は慌てて拭いた。

 もう、先輩のアパートの前だ。

 何も言わずできるだけこの瞬間を伸ばしたかった。先輩も僕と同じように思っていてくれるとうれしい。

 でも、だからといってこのまま突っ立っているわけにもいかない。

 僕は先輩の手を離した。

「寄ってく?」

 僕は首を横に振り、「いいです」と答えた。

「あっそ」と先輩はそっけなく答えて、僕に背を向けてアパートの廊下を進んでいく。明かりの灯った廊下は暗闇に空いた光のトンネル用ように見えた。僕も一緒に行きたかった。先輩の誘いを断る理由なんて僕には無いんだ。

 でも、その先でどんなに優しい言葉をかけてもらえたとしても、それは全て終わりを予期させるように思えて、余計に悲しい気持ちになるだろう。

 先輩は先へ進む覚悟を決めて過去と向き合った。それがどれほど勇気を必要とすることか、僕には分かる。だから僕が引き止めるようなことはしてはいけない。これで僕たちの関係が終わったとしても。

 先輩がポケットから鍵を取り出すのが見えた。ドアを開けるときこちらに振り向くかもしれない。そう思うと急に怖くなって、僕は逃げるようにその場を去った。もう涙を抑えることができなかった。

 

 部屋に戻り、冷房のスイッチを入れる。

 布団にくるまり目を閉じる。

 現実を切り離して幻想に身を沈めようとしてみても上手くいかない。どれだけ素晴らしい世界を夢想してもたちまち暗闇に沈み消えていく。閉じた瞼から涙が染み出して汗と雑じる。


 どれくらい時間が経ったのか、部屋は冷えて布団にくるまっていなければ寒いくらいだ。逆立った神経がようやく平静を取り戻しつつあるそんな時、ポケットの中の携帯が震えて着信を告げた。

 小坂先輩からの電話だった。少し迷い、それからすがるような気持ちで僕は電話を繋いだ。

「起きてたか」

「はい」

「なんだ、泣いてんのか」

「はい」

「そんなにわたしが居なくなるのが寂しいのか?」

「はい」

 先輩は小さく笑ってから「はっきり言われると反応に困るな」と言って少し間を置いた。

「また眠れないのか」

 僕が黙っていると、先輩は笑い交じりの溜息をついた。

「そっか、仕方ない奴だな。じゃあ眠れるまでお話をしてあげよう」

 子供をさとすようなやわらかい口調で先輩は続ける。僕は目を閉じてその声に耳を傾けた。

「それはある夏の事でした。女の子はその晩に行われる夏祭りに友達と一緒に行く約束をしていました」

 先輩の声が耳を通り抜けて頭の中で鮮明な映像に変わっていく。


 遠くから祭囃子が聞こえる。

 提灯の明かりが照らす商店街を間近にとらえ、女の子は暗い小道を小走りで先を急いだ。この道を抜けたところにある商店街の広場で友人たちと待ち合わせをしているのだ。

 お婆ちゃんに着付けてもらった浴衣は少し窮屈で歩きにくかったけれど、その夜だけの特別な衣装は、そんな煩わしさを忘れさせるほど女の子の気持ちを高揚させていた。

「そんな時だった。先を急ぐ女の子の前に、現れたんだ、アレが……その、分かるだろ? ヌルヌルしていてゲロゲロ鳴く生き物。名前は言わなくていいぞ、とにかくソレが出たんだ。最悪だったよ」

 眼前に現れたソレは薄暗い路地にあっても特徴的なシルエットを成し、女の子の行く手を阻むように鎮座している。

 気付かなければ通り過ぎる事もできたかもしれない、しかし苦手意識が仇となり、視界の隅にあったはずのソレを無意識に判別し、認識してしまったのだ。

 さっと血の気が引く思いがして、女の子は慌てて足を止めた。一度目に留まった以上、恐怖心から目を背けることもできず、その場から一歩も動けなくなってしまった。

 きつく締めた帯の内側で気持ち悪さが形を成して外へ飛び出そうと蠢いている。そんな妄想に駆られて女の子は思わず口を覆った。

 泣きたい気持ちを抑えて立ちすくんでいると、ぴしゃりと水を打つような音が聞こえた。それはカエルのお尻に当たり、驚いたカエルは飛び上がって小道から横の茂みへ逃げていく。

 いつの間にか女の子の傍らには一人の男の子がいたのだ。

 暗がりで彼の顔はよく見えなかったが、手に持った緑色の水鉄砲が見えた。縁日のくじ引きでもらえるような小さくて安っぽい水鉄砲だったが、彼がこれでカエルを撃退してくれたのだと女の子は理解した。

 男の子は「カエル嫌いなの?」と問い、女の子は恥ずかしそうにうなずいて「ありがとう」と言う。その男の子が自分と同じ中学校の同級生だと気付いて余計に恥ずかしい気持ちを感じながら、二人は連れ立って小道を進んでいく。

 何か話をしているように見える。

 僕は闇向こうからその二人の後姿を見つめていた。

 二人が遠ざかるにつれてその映像は収縮して、やがて消える。

 闇と静寂が戻り、寂しさや焦燥感から隔絶された暗闇の淵で、僕はゆっくりと眠りへ落ちていく。

「今度はわたしが待っていてやるから、もう諦めるなよ」

 僕の発した返事は声にはならず、闇をわずかに揺らし、小さな波紋を作った。

 やがてそれも収まり、ゆっくりと消えていくのだった。


 

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