24
夏休みが終わり、後期授業が始まって一月が経った。
しぶとく居残っていた残暑もようやく過ぎ去り、夜には涼しい風が吹き、虫の音が心地よく、すっかり秋めいている。
相変わらず医者にも薬にも頼ってはいないけれど、どういう訳か不眠症の症状は鳴りを潜め、ちゃんと眠れる日が増えてきた。ただ、今までの睡眠不足を取り戻すかのように昼夜問わず眠くなり、時間も場所もお構いなしに寝てしまうという困った状態に転じてしまった。自分の体なのにどうしてこうもままならないのか。
盲腸で入院していた大森は無事退院したのだが、まだ学校に顔を出していないらしい。先日、傷をかばいながら牙城をよたよたと歩いている姿が目撃されたとか。
「彼氏ができたんだとさ……」
電話越しの大森の声からは感情をまるで読み取ることができなかった。だがそれが精一杯の虚勢であることはすぐに分かった。「どうしてこうなった」と自問しては「はぁ」「へぇ」と言葉にならない声を漏らすのだ。理由なんて自分が一番分かっているだろうに。学校には行く勇気はまだ無いとの事だった。大森は薄汚い風貌に見合わず少女のような可憐な心を持っている。
「いいな、六津木は」
「……そうでもないよ」
小坂先輩は予定通りこの街を去った。
引っ越しの際は手伝おうと思っていたのだが「お前は他にやることがあるだろう」と突っ返されてしまった。それから間もなくの事だ、あの日当たりの悪いアパートに空室が増えたのは。
あの部屋にはもう二度と行くことが無いのだと思うと酷く悲しい気持ちになる。お世辞にも良い物件とは言えなかったあの部屋が、今ではとても恋しいのだ。こんな感傷を抱いているのは、おそらく僕だけだろう。先輩は今まで積み重ねてきたそういった物を全て乗り越えて次へ進んだのだから。
「それで、その後の進展は?」
「特にないかな、先輩もずっとあの調子だし」
「ちげーよ。脚本のほうだ」
「ああ、そっちか」
小坂先輩から頼まれた脚本の執筆は思うように捗ってはいない。と言うのも先輩が物語の全容をちゃんと伝えてくれないからだ。
「男女の恋物語で、ラストシーンが夜明けの浜辺」とだけ僕に伝えてとりあえず書けと言うのだ。横暴にも程がある。
「先週書いたやつを見てもらったら、街中でキスをするシーンを付け足してと言われたよ」
「情報を小出しにしているのか。お前、小坂に恨まれるような事でもしたのかよ」
「まあ、先輩にも事情があるんだろう」
悲しい記憶を思い返しているのだから、一度に全部と言う訳にはいかないんだろうな。先輩も忙しいながら頑張っているのかもしれない。まあ、仕方のないことだ。
「次はいつ見せるんだ?」
「また週末。先輩が戻って来た時に」
小坂先輩はこの街を去ったが、その本分が学生である以上、学校には顔を出さなくてはいけない。特に、夜な夜な遊び歩いて午前中の授業をサボってばっかりだった先輩のような生徒は。卒業に必要な出席率がもうギリギリなのだとか。
「いいなあ。理由はどうあれそうやって会う時間があるって事は。脚本だって、それがあるうちは否応にも会わなくちゃいけないんだろう? 幸せな事だな」
「俺なんて……」と大森が再び口を閉ざした。
小坂先輩は金曜日の午後にある撮影照明の授業に参加するためこの街に戻ってくる。学校終わりに同期の友人たちと食事に行ったりすることもあるが、そのあとは決まって僕のマンションへ泊りに来る。先輩が来てくれるのはうれしいけど、脚本の事があるとどうしても身構えてしまう。そして土曜の夕方くらいに帰ったり、もう一泊していったり、その辺は先輩の気分次第だった。
週末、目を覚ますと部屋の片隅に寝袋に包まった先輩が転がっている風景も見慣れて来た。脚本の執筆も、講師の先生や友人たちの知恵を借りて何とか形になってきてはいる。万事順調となれば、僕と先輩の仲もよくなっていきそうなものなのだが。
どうにも最近先輩の機嫌が悪い。じっとこちらを睨み付けていたと思ったら「お前は馬鹿なの?」と、唐突に言ったり、食事中も「ムツはバカムツなんだなあ」とひとりごちて、ため息をついて見せたりする。
でも先輩が思っているほど僕もバカじゃない。何が言いたいのかはちゃんと理解しているつもりだ。だからと言って「そうですか、じゃあそうしましょう」なんて手軽な約束はしたくないんだ。こういう事にはふさわしいタイミングと場所が必要だ。バカだバカだと罵られながら僕なりに考えた。夜景の見渡せるレストランでディナーを食べながらなんてのは身の丈に合わない。僕らに相応しいのは、朝の喫茶店でコーヒーを飲みながら、くらいがちょうどいいだろう。
先輩は週末には泊まりに来るわけだし、誘う機会なんていくらでもある。ここぞというタイミングを見逃さないよう、僕はその期を見計らっていたのだ。
しかし、その期が訪れることが無いまま時間ばかりが過ぎてしまい。気がつけばもう年末になっていた。結果から言ってしまえば、夏休み以降、僕と先輩の仲は何一つ進展していないことになる。
脚本はすでに形になっており、現在は鋭意推敲中ではあるが、先輩に見せるたびに指摘箇所が変わるので、どうにもこの作業に果てが無いような気がしてきている。
先月から始まった大森の自主制作映画の撮影が資金不足で一時中断して、ようやく再開のめどが立った矢先に藤田が後輩の女の子と恋仲になったことが発覚、照れ笑いする藤田の頬を大森は無言のまま殴った。そのせいで人生を取り戻す感動作だった映画は血みどろの悲鳴が木霊する暗黒展開へと書き換えられてしまった。
そんな暗澹たる一週間が過ぎて待ちに待った週末なのに、僕はすっかり疲れてしまい、牙城に出掛けることもなく、マンションへ戻って一人眠りについた。
先輩からは「雑誌の撮影に駆り出されたから、今週も行けそうにないや」とメールがあった。仕事終わりに深夜までスチール撮影があるらしい。先輩は頑張っているのに、僕は…………。
布団をはねのけて、机のパソコンに向かう。暗い部屋にモニターの真っ白い明かりが落ちる。ライティングソフトを起動して、白紙に向き合う。何を書こうか、いや考えなくていいや。頭に浮かんだイメージを、そのまま書き写してみよう。誰に見せる訳でもないし。自由にやろう。
波の音が聞こえる。
そうだ、ここは海だ。辺りは暗くて、空と海の境界線がなくなるくらい。でも、漆黒の夜空には、たくさんの星が輝いている。それはとても綺麗な眺めなんだ。
真っ黒な波が押し寄せる砂浜には裸足で立つ女性の姿がある。まあ、どうしてもこれは小坂先輩の姿になってしまう訳だけど。
「おう、ムツ」
せっかくの幻想的な雰囲気が台無しになるセリフだ。
「何してんだよ」
「先輩こそ、仕事はどうしたんです」
「もう終わったよ、てっぺん超えたし」
そう言って先輩は満天の星空を仰いだ。海風にそよぐ髪は夜と同じ色をしている。
気が付くと僕の傍らには三脚に立て付けた一眼レフがあった。
「朝日を撮りたいな、ぐわーっと燃えるようなやつ」
「いいですけど、日の出にはまだ時間がありますよ」
先輩はこちらに振り向いて、「ふふん」と得意げに笑った。
「知ってるか、夜明け前が一番暗いんだぜ」
「夜明けって、まだ星だって出てるじゃないですか」
「あれは星じゃないよ、ただの穴だ。お前が夜だと思っているのは穴の開いたボロ布が空を被っているだけなんだよ。朝日が見たいなら、夜が終わるところまで歩いていけばいい。ほれ、行くぞ」
「ちょっと待って」
「ムツにも夜明けの眩しさを見せてやる」
「夜明け前が一番暗いんじゃないんですか?」
「ああ、眩しすぎて目が眩むぜ」
転寝から覚めると窓の外が白み始めていた。
痺れた足を引きづりながら立ち上がって、窓を開けた。
遠くの水平線が輝いて見えた。ひんやりした空気が肺を満たして思わず身震いする。せっかくだから散歩でもしてこようと、着古したコートを着こんで僕は部屋を出た。
大通りをのんびり歩いて進む。やがて駅に行き着いて、このまま牙城へ散策に向かおうかなと思っていた時、おかっぱ頭が目に留まった。
「どうも」と会釈する。
「おう」と返事が返ってくる。
小坂先輩は驚いているようだったが、僕はそうでもなかった。
「こんな早い時間にどうした? 散歩か?」
「まあ、そんなところです。先輩こそ、どうしたんですか」
「先週も来られなかったからさ。その、ムツが寂しがると思って……」
珍しく先輩が照れている。
「すいません、気を遣わせてしまって」
「何だよそれ。こっちはわざわざ始発で来てやったんだぞ。御礼くらい言ったらどうだ」
「ありがとうございます! 感謝してます!」
「ばか、うるさいよ」
駅前のロータリーには客待ちのタクシーが並び、その横で運転手たちがタバコをふかしながら談笑している。牙城の方からは飲み明かした若者たちが昨晩の余韻を引きながら家路を行き、通勤通学で駅へ向かう人の達とすれ違う。いつも通りの朝の風景に僕たちも溶け込んでいた。
「せっかくだから朝飯でも食って行こうか……あ! そうだ、コーヒー飲みに行こう! ちょっと待ってろ、新聞買ってくる」
「コンビニ行くならコーヒーも買ってきたらいいじゃないですか」
「バカ、それじゃ意味ないんだよ、ムツはここに居ろよ」
喫茶店が開くにはまだ時間があったので、僕らは東口のベンチに座って時間を潰すことにした。いったん家に帰るという手もあったのだが、それは先輩に却下された。
「始発できたんだぞ、家に行ったら寝ちゃうじゃん」
新聞を大事そうに膝に置いて、先輩は上機嫌だった。
「読まないんですか?」
「後で。コーヒー飲みながらな」
喫茶店が開くまであと三十分くらいかな。さて、どうやって切り出そうか。なんて言えばいいのかな。ロマンチックに決めるか、正攻法で行くか。いやいや相手は小坂先輩だ、もっと気の利いた事を言わなくては後々面倒なことになりそうだぞ、どうしよう。
日の光が駅舎に反射して目が眩んだ。緊張感が増してきて気が気じゃない僕の隣で、のんきに構えている先輩に意地悪をしてやろうと「コーヒー飲めるんですか?」と聞いてみた。先輩は「へっへっへ」と得意げに笑って、オレンジ色に染まる、朝焼けの空を見上げた。
おわり
彼女は星の無い空を見上げる せう @easyghost
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