15

 病院からの帰り、先輩の住むアパートを訪ねた。

 呼び鈴を押しても反応は返ってこない。期待はしていなかったけどやはり留守のようだった。

 部屋のカギはどういう訳か僕が持っている。足取りをつかむ為に家探しをすることも可能だが、そういうことを嫌えばこそ先輩は僕に鍵を預けるのではなく、部屋に隠すというおかしなことをしたのだ。

 やっぱり止めておこう。

 帰ろうとした時、背後で鍵の開く音がした。

「先輩、いるんですか?」

 返答はない。

 不気味に静まり返った廊下に明かりが灯った。急に辺りが暗くなったような錯覚を覚える。重々しい空気、にじみ出る汗が頬を伝い唇に染みる。塩気と共に覚悟を飲み込み、僕はドアノブに手をかけた。

 カチャ、と弱々しい音と共にドアが開く。その向こうは完全なる闇に包まれていた。日が落ちているので室内が暗いだけかとも思ったが違う。玄関も廊下も天井も何もない、真っ暗だ。

 その闇の遥か下方から湿気を含んだ生暖かい風が吹き上げて来る。地獄の底まで続いているんじゃないかと思えるほど深い闇。落ちたどうなるのだろうか。

 そんな事を思った矢先に、何者かが僕の背中を思い切り蹴とばした。背中にくっきりとした靴型の痛み。振り返る間もなく僕は暗闇に真っ逆さまに落ちた。

 

 完全な闇の中を落ちる。

 両手両足を広げて吹き上げて来る風を全身で受け止めるようにすると少し落下速度が緩やかになった気がする。辺りが見えないから自分がどれくらいのスピードで落ちているか知りようがなかったけれど。

 落ち始めてから結構時間が過ぎたはずなのにまだ底が見えない。底無しなのだろうか、それとも地球の裏側まで続いているのか。もし底があったとしたらどうなる? 

 この期に及んで僕はとても冷静だった。こんな状況ありえないからだ。

 また変な夢に入り込んだ、この表現がしっくりくる。これまで起きたことを思えばこう考えるのが妥当だ。

 これが夢なら僕の思考が反映されるかもしれない。いつまでも落ち続けるのは僕が着地を拒んでいるからかもしれない。堅い地面に激突するは、例え夢であっても嫌だ。可能なら、柔らかい所がいい。落ちても痛くないような。

 想像力を巡らせると色々な映画のシーンが回想された。主人公が高い所から飛び降りた場合、着地場所は大抵プールや湖などになっている。

 いいぞ、これなら痛くない。

 想像を巡らせてちゃぷちゃぷと水がたゆたう様を思い描く、すると遥か下方に弱々しいピンク色の光が見えた。それは見る間に大きくなり、長方形の光となった。

 プールだ。それも学校にあるような二十五メートルのプール。

 ちょっと待て、これじゃ浅すぎないか? 水を継ぎ破って底に激突するんじゃないか? どうしよう怖くなってきた。


 着水の衝撃はそれなりにリアリティのあるものだった。つまりそれなりに痛かった。

 一瞬にして冷たさが全身を包み、唸るような着水音が耳元に渦を巻いた。痛みに痺れる手足の感覚を確かめながらゆっくりと目を開く。

 どうやら水自体がピンク色に発光しているようだ。暗闇の中でも水中は電気をつけたように明るかった。ピンポン玉くらいの水泡が割れもせず水中に漂っている。驚くべきはその球体の中心に雛人形が鎮座しているのだ。手を伸ばすとそれはホログラムのように僕の手をすり抜け、水の動きに合わせてその身をひるがえした。

 体を起こすとプールの深さは腰ほどしかなく、とても浅いものだった。思い描いたものとは多少違うけれど、一応助かったということか。

「おいおい、何かと思えば六津木じゃねーか」

「あれ、大森。なんでここに……なんで全裸なんだ?」

「衣装はあるんだけど」

 大森が指差した先には緑色の全身タイツが吊るされていた。

 今一度辺りを見渡すと、ピンク色の光にプールサイドとそれを取り囲む緑色の金網が照らし出されていた。全身タイツはその金網にかけられている。

 暗闇は四方からその全てを取り囲む真っ黒な壁となっている。天井は見えず壁は光の届かない遥か高みまで続いているようだった。

「お前が帰ってからおとなしく病室で寝ていたんだけど、気が付くと妙な三人組が居てさ、仕事に行けって言うんだ。ふざけてるだろ? 

 だから手に刺さってる点滴を指差してこれが見えねえのかって言ってやったんだが、連中聞きもしないで俺をベッドから引きずり落としたんだ。そしたらドボン、ここに落ちてきた」

「裸で泳ぐのが仕事なのか?」

「いや、だから衣装はあるんだって。なんでも河童の役を演じろって事らしい」

「河童?」

 隅っこにある衣装をもう一度見る、あれが河童の衣装だといのか。

「あんなものを着るくらいならいっそ全裸が心地いいだろ? 素晴らしい解放感だ」

「お前、傷口は大丈夫か?」

「何言ってんだ、これは夢だぞ。ベッドに縛り付けられた俺の不満と、水樹をプールに誘えなかった後悔がこの夢の主成分だ。さあ朝が来るまで存分に泳ぐぞ、全裸で!」

 ピンク色に発光する水をかき分けて大森は泳いだ。クロールからバタフライへ歪なフォームチェンジをして、時に奇声上げ、この夏の無念を浄化するかのように束の間の自由を謳歌し始めた。

 反面僕はとても暇だった。少し泳いでみたりもしたけれど、服が体にへばりついて不快感だけが募った。大森を見習って全裸になるべきかとも思ったが、そこまでして泳ぎたいわけではない。

 一足先にプールから上がろうとした時、シャツが一瞬にして乾く感じがした。シャツに含まれた水分が磁石に吸い付く砂鉄ように、霧状になってキラキラと輝きながら水面に引き寄せられていく、どうやらこの水はプール内にしか存在できないらしい。

 これは面白いと思い、再び腰をプールに沈め、手のひらで水を掬って外へ思い切り投げた。

 空中で水は爆発するように気化し、やがて細やかな霧となって七色に輝きながらゆっくりと水面に落ちていく。

「それ凄いな!」

 大森も水を掬ってプールサイドへ放る。ぼわっと輝きが吹き上がった。

 二人で水を投げる。いくつもの光の柱がそそり立ち柔らかな霧となって頬をなぞる。ばしゃばしゃわいわい、僕と大森は夢中になってその幻想的な光景を作り上げた。晩年の黒澤明もこれほど美しい夢を見ることは出来なかったはずだと、僕は勝手に決めつけた。

 神々しく光を放つ水の粒子、水面は妖艶な桃色に輝き、淡く美しい光景の向こうには、全裸の大森がいる。

 あれ、ひょっとしたらこれは悪夢ではないのか?

 そう思うと急に興ざめしてしまった。

 そもそもなんで僕はここに落とされたのだろうか。

 暗闇に蹴落としたのは誰だろうか。

 闇に落ちる刹那、ほんの一瞬だったけれど、頭上にあるドアの光を振り向いた。逆光になって見えなかったけど三人の人影があったように思う。ともすれば。

「なあ、大森。お前の言う変な三人ってどんな連中だ?」

「あー」大森は記憶を探るように唸りながら、それでも左右の手で水を掻いていた。

「猿みたいな顔したおっさんと、タバコ吸ってるムカつく女、あともう一人はよく見えなかったなあ」

「同じか」

「お前もそいつらに連れてこられたのか?」

「かもしれない」

 連中の不気味な存在を思い返した。僕がここに居るのが連中の思惑とするなら何か嫌なことが起きるような気がして、一刻も早くここから抜け出したくなった。

「そろそろ帰るよ」

「そうか、それなら」

 大森は壁の方を指さした。闇色の壁の隅っこをよく見ると、まったく同じ色の梯子が繫っている。

「その梯子で外に出られる、らしい」

「らしいってなんだよ」

「俺にもよくわからん」

 プールを出ると瞬時に服から水分が失われる。

 ザラザラとしたプールサイドを進み、空間の端に立って梯子に手をかけた。

 梯子は三メートルほどで途切れていたが、そこには暗闇を掘りぬいた通路があった。暗闇に継ぐ暗闇だ。遠目からでは見えないわけだ。

 ここから先に進めそうだと大森に向かって叫んだ。大森は何も言わず大きく手を振って返した。


 

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