16
長方形の通路は進むにつれて広がり、半円形の大きなトンネルとなった。
真っ暗闇であってもうっすらと風景が見て取れるのはこれが夢であるからに他ならない。
さらに進むと、等間隔にオレンジ色の明かりが足元を照らすようになり、暗闇はアスファルトとコンクリートへ姿を変え、完全なトンネルとなった。
今にも車が走ってきそうな雰囲気に怯えながら、僕は道の端に寄り歩いた。
やがて交差点へと行き着いた。トンネル内の交差点なんて見たことがなかったけど、僕はあまり車に乗らないから珍しい光景かどうかは分からない。でも信号すらない様子を見ると、やっぱりこれは無知な僕の想像力が成せる技なのかもしれない。
「あれ、ムー君だ」
警備員の制服を着た藤田がそこに居た。夜間警備のバイトをしているとは聞いていたけれど。
「ここで何しているんだ」
「バイトだよ。警備の」
「ここで?」
「うん」
車どころか生物の痕跡すら見当たらないこんな場所で何の警備をするというのか、トンネル内の交差点で。
「バイトはいつもここで?」
藤田は首を横に振った。
「家で寝てたらさ、本社から電話があってね、車で迎えに行くから別の現場に行ってくれって言われて。それでここに」
「その迎えって変な連中じゃなかったか?」
「変かどうかは分からないけど、外国の人たちだったかな」
僕を缶詰工場へ連れて行った連中か、それとも似たようなグループが他にもいるのだろうか。
「知り合い?」
「……たぶん」
「でもさあ、正直不安だったんだよね、言葉通じないし、何となく車降りちゃったけど本当にここでよかったのかなあ。宿直室誰もいなかったし、人通りも無いし……」
辺りは相変わらずの静寂を守っている。
ここは藤田の夢なのだろうか、仕事に備えて寝たはずが夢の中で仕事をしているなんて残念な事だ。
「不安に思うなら、一度本社に電話して聞いてみたらどうだ?」
「そうだね、じゃあ宿直室戻って電話してみる。ムー君はどこか行くところ?」
「行くというか、帰りたいんだけど、どっちに行けばいいのかな」
「うんとね」藤田は僕と同じ向きに立ち直して、慣れた様子で道案内をし始めた。
「右が宿直室のある方で行き止まりになっていて、左は僕が車でやって来た方面だから外に続いているとは思うけど、結構長いこと車で走って来たから徒歩だと辛いかも。さっき宿直室の地図を軽く見ておいたんだけど、ここを直進すると何かの建物に直結しているらしから、地上に出られるかもよ」
地上に出られるかも、ということはここが地下であるということか。藤田がそう認識しているのなら間違いない。そもそも僕は先輩の部屋から落ちてきたんだった。地下であってしかるべきか。
「ありがとう、さすがだな」
「いやーそれほどでも」
恥ずかしそうに笑いながら藤田は帽子の向きを直す仕草をした。
「じゃあ行くよ」
「はーい。またねー」
藤田に見送られながら十字路を直進した。
道は緩やかな上り坂になっている。大した傾斜ではないが、坂が途切れる終着点は遥か彼方にある。登りきる間に朝を迎えてしまいそうだ。
うんざりしながら一歩一歩足を進める。小さな一歩には違いないが、確実に進んでいる。でもあまりに小さい。
引き返そうかとも思った。思いながらも足は進む。
いや待てよ、これは夢なんだ。僕が望めば状況も変わるはず。エスカレーター、エレベーター、車とか自転車でもいい。何でもいいからこの徒労を掻き消す物を想像した。
しかし何も変化はなく、時折小魚の群れが僕を追い越していく程度。どうしてこんな目に合わなくてはいけないのか。僕はいったいここで何をしているのか。
僕の幻覚であるはずの奇妙な三人組が大森に仕事を頼み、藤田は仕事先が変更になったと、外国人風の青年達に車でここに送り込まれた。二人とも目的がある、ならば僕はどうしてここに来た。何かしらの目的があって僕を突き落したというのか。この坂の向こうに、それがあるというのか。
トンネルは進むにつれて道幅を狭くし、上り切るころには四つん這いで進むしかないほど狭くなった。歩き疲れた上に思わぬ全身運動を強いられて、そこを抜けた時には汗だくになっていた。
これは本当に夢なのか。この疲労感はあまりにも現実的すぎる。間違いなくこれは悪夢だ。
息も絶え絶えに行き着いたのは広く長い板張りの廊下。数日前に見た夢に出てきた場所と同じであった。
古い旅館のような内装で、壁にはフードコートのように色んな料理屋の店舗が軒を連ねている。廊下は浴衣姿の人たちと料理を提供する店員たちの活気でとても賑わっている。やっぱり牙城によく似た雰囲気だ。
以前来たときはここで小坂先輩と再会した。なら、先輩はまだここに居るということなのか。ここで、まだ亡くなった恋人が自分に会いに来るのを待っているのだろうか。
浴衣姿の人たちが往来を通り抜けて先に進む。料理屋のいい匂いにつられて足を止めたくなったが、そんなことをしている場合ではないと気を引き締めた。
人の流れは途切れることもなく賑わい、お店はどこも繁盛しているようだった。右往左往とよたよた歩く人たちの顔をできる限り注意して見渡してみるが、どこにも見慣れた金髪頭は確認できなかった。
そうこうしている間に廊下の端に行き着いてしまった。ここの階段を上がると宴会場があるけど、先輩はまたそこに居るのだろうか。
急な勾配の階段を上がると、数千畳分の宴会場が眼前に広がった。所々襖によって区切られ、迷路のように遥か奥へと続いている。いくら小坂先輩が目につきやすい格好の人だとしてもこの中から見つけ出すのは、無理だろうな。
「おい少年、六津木少年!」
「あれ、山本さんじゃないですか」
宴会場の一角、六畳ほどに区切られた所に山本さんが時代劇の悪代官の様にふんぞり返っていた。手前に置かれたお盆にはサーモンの寿司がピラミッドの様に積み上げられている。
山本さんは朱色の盃に並々注がれた液体をくいっと飲み干し舌なめずりをした。
「うめぇなこれ。なんだろうなこれ」
「お酒じゃないんですか?」
真っ赤な顔をした山本さんは明らかに酔っているように見える。そんな山本さんの傍らには、天井から吊るされた体長三メートルもあろうかという巨大な大王イカが居て、大きな目をギョロリと動かし、長い触手を使って器用にお酌をしている。徳利から注がれる透明な液体は時折虹色に輝いた。
山本さんは、青柳さんたちと牙城で飲んでいたのに、気が付いたらここに居たのだと言う。
「怪しげな美女に誘われて変な店に入った所までは覚えてるんだけどな、ちょっと飲みすぎちまった」
山本さんは「わっはっは」と笑った。笑っている場合なのか。隣にいる巨大なイカはさて置き、怪しげな美女というのが気になる。
「なんだ少年、急に色気づきやがってこの野郎」と茶化された。
なんでも顔はよく覚えていないが青いドレスを着た金髪の女だった事は記憶しているらしい。ひょっとしたら僕の前に現れた三人組の一人かもしれない。あいつらの目的は何なのか。
「あれは高級なお店の人だったのかな、財布が無事でよかった。少年も気を付けろ、牙城は危険な場所だからな」
イカが液体を注ぎ、山本さんがそれを飲み干す。
「お前な、美女に興味を持つ前に小坂を何とかしろよ。あ、ひょっとして金髪の女なら誰でもいいのか?」
「いいえ、決してそんなことは……」
山本さんは笑う。僕の話は聞いていないようだった。
「僕は帰りますけど、山本さんも一緒に行きませんか?」
「俺はもう少しここに居るよ。青柳たちも来るかもしれないから」
「そうですか……じゃあ、僕はこれで」
「おう、小坂を頼んだぞ!」
そう言われても困ってしまう、先輩がどこにいるのか僕には分からない。
宴会場の賑わいに背を向けて階段を下り、再び板張りの廊下へ戻った。宴会場の向こうまで歩ける気がしなかったし、この廊下は他の通路と繋がっていると思ったからだ。
行き交う人たちの間を縫うようにして歩く、金髪頭がいないか確認しながら、他の通路がないか確認しながら。
廊下を進むにつれて人気が無くなり、お店もシャッターが閉まったままの薄暗く寂しい風景になってしまった。
喧騒は遠のき、向かう先は暗い風景が続いている。
横道は見つからず僕は先に進む他なかった。
振り返ると賑やかな場所が一点の光の様に見えた。戻りたい気持ちもあったけど、戻ったところでどうしようもない。
閑散とした通路を歩いているとどうしようもなく心細くなってくる。戻ることもできずただ歩き続ける。他に道はないものかと探してはいるけど、もはや両端の壁には店はおろかシャッターもなく味気ない壁板があるだけ。進むにつれて闇は深くなっていく。
不安を払拭するため走ることにした。
ここまで来てしまったら、どうせ横道などないのだから、もうこの先に出口があると信じて進んだ方がいい。
軽くストレッチをして呼吸を整えると、マラソンの要領で軽く板床を蹴って進む。思いのほか体は軽く感じられ、どうせ夢なのだからと僕はすぐ全力で走り始めた。
でもこれは誤算だった。さっき坂を登って来た時の疲労感が嫌なくらい現実的だったことを忘れていたのだ。すぐに息が切れて横腹が痛くなってくる。変なところだけ現実的なのだ。
足を止めて僕はその場に座り込んだ。もう立っている気力もない。
息を整えながら振り返って見ると、もう背後に光は無かった。辺りは壁も見えないほど真っ暗で僕は何もない空間に浮いているような気分になった。
そう思ったのがいけなかったのか、不意に床板の感触が消えた。かといって落下しているふうもなく、本当に僕はその場に浮いているような感じだった。
意外と心中は穏やかで、何も見えない空間を呆けたように眺めていた。
やがて目を開いているのか、閉じているのか分からなくなり、上と下の区別がつかなくなった。平衡感覚が麻痺してゆっくりと動いているような気もする。
不思議と不快な感じはなく、むしろ心地が良かった。暗闇にぽっかりと浮かんでいるのは、眠っている時のように心が安らいだ。
やっぱりこれは夢なんだ。そして僕は眠っている。だからこんなにも心地がいい。でも、それならどうして僕の意識はこんなにもはっきりとしているのだろうか。
術後の大森が「もし手術が失敗していたら俺はあの闇に置き去りにされていたに違いない」と言っていた。ここがあいつの言う「闇」なのだろうか。ともすれば僕は死んだのかな? あれ、なんでだろう、全然危機感が湧いてこない。
別にそれでもいいかとすら思える。
いやいや、死んじゃダメでしょ。
僕を溺愛している両親が悲しむだろうし、何よりまだ脚本家になるという夢を果たしていないじゃないか。こんなところで死んでいる暇があったら一行でも書くべきだ。のんきにしている場合じゃない。
僕は手足をバタつかせたが、やはり空を切るばかり。その場でクロールや平泳ぎの動きをしてみたけれどそもそも進んでいるのかどうか確認できない。
仕方ない、荒療治ではあるが他に手がない。
ぐっと拳を握る、これで顔を殴ればきっと目が覚める。
いくぞ!
あれ、空振りだ。
自分の顔の位置が分からなくなったのか? 頭を掴もうとした両手も空振りに終わる。頭がない、いや手も足も体も、もうない。
全部この闇に溶けて無くなってしまった。
僕は闇だ。この果て無く広がる暗闇が僕自身だ。
これじゃどうしようもない。無限に鎮座する闇が僕なら、どうやって抜け出せというんだ。
朝が来れば勝手に目が覚めるだろうか、でももし大森が言っていたようにここに置き去りにされたのなら、僕はもうここから出ることはない。
しかし驚くべきことに、それでもいいかと思う自分がいる。
元の生活に戻れたとして、また学校が始まる。一生懸命書いた作品をけなされてみじめな思いをしなくてはいけないし、その事を思い出してまた嫌な気持ちになるんだ。
認められる作品を書こうとして苦悩するうちに何を書いたらいいかわからなくなってくる。何が良くて、何が悪いのか、書いては消して書いては消して、だんだん自分の希望が擦り切れていくのを感じながら、それでも続けなくてはいけない。
僕は終わらせたかったのかもしれない。
これが僕の願望なのかもしれない。
夢に絶望するのもこれが最後。
これで、終わり。
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