高校卒業後、僕は映画脚本家を目指すべく、東京にある映画制作の専門学校に通い始めた。

 そこは映画制作に必要な知識を学ぶための学校で、各分野に特化した色々な専攻が存在する。映画監督、プロデューサー、カメラマン、照明、メイク、編集、役者などなど映画を作る為に必要な仕事の数だけ専攻がある。脚本家志望の僕はその中でシナリオ専攻に属しているわけだ。

 僕は語れるような映画の知識を持っているわけでもなければ、映画好きを公言できるほど映画館へ通ったわけでもない。ならばなぜこの道に舵を切ったのかと言うと、ちょっとした切掛けがあったのだ。

 それは高校最後の文化祭での事。クラスの出し物として映画を撮ることになり、国語の成績が良いからという安易な理由で僕が脚本を執筆することになった。クラスで作った自主制作映画は意外にも好評で、文化祭での上映後にいろんな人から褒められる事となった。

「面白かったよ」と言われる度にうれしいような、恥ずかしいような気持がして、心の内側を優しくなでられたような良い心地がした。それは今まで味わったことのない類の喜びだった。

 平々凡々と生きてきた自分に嫌気がさしていたということもあり、僕は夢というものを追い求めてみようと決心した。幼少の頃に両親から「思うように生きなさい」と言われた事が頭の片隅に引っかかっていたのだろう、こういう決断の時が来るのを僕は無意識的に望んでいたのだと思う。

 脚本を書いたことがある、その事にすがり僕は軟弱な決意を胸に進路を決した。思えば清水の舞台から飛び降りるような自殺同前の平凡からの脱却であった。

 僕の決意を聞いた両親は相変わらずの調子で、反対するどころかむしろ応援してくれた。「辛くなったらいつでも帰っておいで」とも言っていたが、僕の現状を知ったら強制的に連れ戻されるだろう。だから定期的にかかってくる実家からの電話には、内情を悟られないよう可能な限り手短に済ますよう心掛けている。申し訳ないと思うけど致し方のないことだ。

 不眠症の事も、こちらでの生活も、とても両親には話せない。

 夢を追うなんて聞こえが良いけど、その内情は思い描いていた物とは違い、現実というのはやはり厳しいもので、すんなりと道を開けて通してくれるわけではなかった。学べば学ぶほど、いかに自分が無知であるか気づかされる日々だ。一つの物語のためにどれほど多くの事を考え、計画し、定められた尺の中で最も的確で最良の設計をしなくてはならない。その境地への道のりは遥か彼方、僕はまだはじめの一歩も踏み出せてはいないのではないだろうか。

 入学して間も無く才覚を発揮して、一年後にはシナリオ大賞の一つでも取っているつもりだったのだが、実際は一日一行、三日で三行、三行書いては全部消すといった絶望的な創作の日々を過ごしている。

 今となれば高々一年で何かしらの結果が出るような甘い世界ではないということは百も承知だ。それでも求めずにはいられない。同じ一年間でも、他の専攻の連中は学生ながら仕事をもらって現場で働いたりもしている。目指す場所や戦い方が違うと知っても焦らずにいられるものか。

 しかし焦れば焦るほど、僕は物語を書けなくなる。書けなくなったらここにいる意味がない。寝ている暇があるならとにかく一行でも書いてやろうと思うのだが、やはり書けない。乾いた雑巾を絞るが如くアイデアを振り絞り、才能の一編でも見て取れたらと無理やり書いた短編は、翌日の授業で「なんだかなあ」「よくわからないなあ」と、講師、生徒共々アンニュイな笑顔で答える始末。こんなことが二度三度と続き、僕はすっかり自信を失った。

 毎日ライティングソフトを起動したパソコンの前で途方に暮れるばかり。書いては消して、消しては書いて、地団駄踏んでは空回り。

 こうして僕の睡眠時間は削り取られ、やがて体は眠ることを忘れてしまったらしい。


 


 翌朝。

 幾度となく中途覚醒を繰り返し、総合的な睡眠時間は三時間ほどだろうか。酷くぼんやりした頭を抱えて起床した。

 時間を確認すると既に十時を回っていたが携帯に先輩からの着信履歴は無かった。やはり寝坊しているようだ。

 エアコンを止めて窓を開けると、もやっとした熱気が部屋に入り込んでくる。家の前を流れる荒川は朝日を浴びてこれでもかというくらい輝いている。

 入居当時はこの景色が気に入っていた。ひょいとベランダから身を乗り出せば、川が海に流れ込む様が見え、天気が良い日は水平線まで見える。

 しかし、よくよく見ていると、目の前で音も立てず膨大な質量が一方に延々と移動しているというのは何とも壮大であり不気味でもある。気を緩めた途端、アパートごと流されてしまいそうな気さえする。とても恐ろしい。

 夏になると海から湿気を含んだ生臭い風が吹いて来たりもする。いい加減慣れたが決していい臭いではない。なにより東京の夏はどうしてこんなに暑いのか。


 僕のアパートから先輩の家までは自転車で数分の近場であるが、あいにく自転車を仕事へ行く同期の友人に貸し出してしまっていたので、仕方なく歩くことにした。

 先輩は去年、学校近くのマンションから、路地裏のボロアパートに引っ越していた。僕の家から大通りを真っ直ぐ進み、コンビニを通り過ぎたら、細い路地へ入る。古い木造家屋が軒を連ねている薄暗くて大型の車が入り込めないくらいの狭い路地を進むと周囲に溶け込む褐色のアパートがある。ひいき目に見ても良い物件とは思えない。

 急遽引っ越さなくてはならない事情があったのは知っているけど。それにしたって、またすぐに引っ越すつもりで一時的に借りた部屋にすっかり居着いてしまっている。住めば都ということじゃない。単に引越しが面倒だからというそんな理由で。セキュリティの面でかなり心配には思うけど、前回の引越しでは部屋探しから荷物運びまで終始手伝うはめになったから、卒業までここにいてくれると助かる。

 路地に入ってから先輩に電話をかけた。

 待ち合わせは駅前の喫茶店だったけれど、駅に行くには位置的に先輩が住むアパートの近くを通ることになるから立ち寄っても問題はない。どうせまだ寝ているだろうし、毎度のことだからお互い気に留めることもない。

 何回も電話をかけて、ようやく先輩が電話に出た頃には、もうアパートの手前まで来ていた。

「もしもし、六津木ですが」

 しばし無言の後「んあ」と間の抜けた声が返ってきた。

「おはようございます」

「んん」

「寝てましたね」

「起きている」

 今起きた、故に起きている。そう言いたいのだろうか。どちらにせよ遅いんだけどね。

「アパートの前にいますけど」

「鍵開いているから」

 そう言い残し、先輩は電話を切った。

 先輩の部屋はアパートの一階、一番奥の角部屋。

 とにかく日当たりが悪くてずっと入居者がいなかったらしく、家賃も安かったので先輩はすぐこの部屋に決めてしまったのだ。僕が止めていたらもう少しマシな部屋も見つかったかもしれない。この部屋のドアノブに手をかける度に、少しながら罪悪感が湧いてくる。しかし当の本人はまったく気にしていないようだ。

 部屋に入ると程よく冷房が効いていたが、すぐにでも窓を全開にして空気の入れ換えをしたい衝動に駆られた。

 酒臭い。とにかく酒臭い。玄関に立ったこの時点ですでに臭い!

 息を止めて部屋の奥へ踏み込む。酒瓶やチューハイの空き缶が転がり昨晩の盛り上がりを物語っている。テーブルの上にはガスコンロと空の土鍋。女だらけの鍋パーティーの残骸である。

 雑然とした部屋をよくよく見渡せば、あられもない姿の女子が四人、タオルケットやバスタオルに包まり、リラックスしきった寝顔を晒して寝入っている。たぶん昨夜に酔いつぶれてそのままなのだろう。そのうちの一人、部屋の隅うつ伏せで寝ている小坂先輩の金髪頭が確認できた。お腹に掛けたタオルケットからほっそりとした生足がのぞいている。

 その惨状に背を向けため息をついた。こんな光景を見るのはもう何度目だろうか、何より若い女性の無防備な姿を見て、どうしてこんな切ない気持ちにならなくてはいけないのだろうか。性差別と言われてもいい、幼稚な理想主義者だと笑われてもいい。頼むからもっと女性らしい生活をしてくれないか。僕が赤面して目を背けたくなるような可憐な生活を……無理か。せめて人間らしく生きてほしい。


 キッチンの窓を開け、備え付けの小さな冷蔵庫から缶ジュースを取り出そうと屈み込むと、ツンと背中を小突かれた。

「勝手に飲んでんじゃねーよ」

 先輩は眠そうな目をこすりながら、つま先で僕をさらに小突く。いつも寝巻きで着ている大きなオレンジ色のTシャツはすっかり伸びてワンピースみたいになっている。

「前に僕が買ってきたやつですよ」

 先輩に背を向け立ち上がり、プルタブを開けた。

「短パンくらい穿いていてくださいよ」

「全部貸しちゃった。いいだろ別に女しかいないんだし。もっと喜べよラッキースケベ」

「悲しい気持ちで一杯ですよ」

「ああ? 生意気だな」

 先輩は僕から缶ジュースを奪い取ると、一気に飲み干そうと試みた。

「これ炭酸ですよ」

「んぐぅ!」

 ぎゅーっと眉間にしわが寄った。

 先輩は炭酸が飲めない。「飲むと喉が剥れる」と、よく分からない事を言う。

「寝起きに冷たいもの飲むとお腹をこわしますよ」

「もうこわれてるから」

 先輩はお腹をさすりながらとぼとぼとトイレへ入っていった。

 冷房の効いた部屋で薄着のまま寝ていれば腹も下すだろう。僕のように布団に包まるべきだ。

 喉まで出かかったため息を堪えて、飲みかけのジュースを片手に僕は酒臭いアパートを出ることにした。


 

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