小坂先輩と初めて会ったのは去年の新入生歓迎会だ。居酒屋の座敷を借り切って新入生と在学生が入り乱れる大規模なものだった。

 あっという間に酒盛りされ一人また一人とへべれけに潰れていく同期生たち。すぐに僕も標的にされた。

 先輩方曰く、これは上京したての小僧どもが酒に溺れて面倒事を引き起こさぬように、自分たちの管理下の元で酒の怖さを存分に思い知ってもらう為の通例行事なのだという。しかし真っ赤な顔をして血走った目で酒を進めてくる彼らを見る限り、この教訓は生かされていないように思えた。

 そんな先輩方の厚かましい歓迎を一身に受け、僕も開始一時間もしないうちに意識を失った。

 その時に泥酔した僕を介抱してくれたのが小坂先輩だったのだ。

 良い先輩じゃないか、そんな誤解を招かないようちゃんと話しておく。小坂先輩は後輩の介抱という大義名分を楯に、二次会に移行するごたごたに紛れ、集団を抜け出し参加費を踏み倒したのだ。

 意識が朦朧とした僕を、当時住んでいたマンションまで連れ帰るとそこらに寝転がし、自分は風呂に入り歯を磨き、就寝の準備を整えていた。

 まもなく意識を取り戻した僕に対し先輩は「お前はもう用済みだ。帰れ」と冷たく言い放ったのだ。先輩と差し向かいで言葉を交わしたのはそれが初めてだった。

 酔いつぶれた挙句、先輩に介抱してもらい家にまで上がり込むなんて、僕はなんて無礼な事をしてしまったんだと思いこみ自責の念に駆られていた。その時の先輩は怒っているようにも見えたし、基本無愛想な人だと知ったのはもう少し後のことだから、その時はかなり怖い印象だった。

 申し訳ないことをしてしまったと思いながら立ち上がったとき、何気なく口にした一言が僕と先輩がつるむようになった原因、いや、正直に切欠と言っておこう。僕にとってこの出会いはそんなに悪いものじゃない。


 


 近所の寂れたゲームセンターで時間を潰して、本来の待ち合わせ場所である喫茶店へと向かった。先輩にメールを送ったところ、準備ができたらそっちへ行くとのことだった

 結局、先輩が喫茶店に現れたのはそれから一時間後。お気に入りの黄色いバンドTシャツに赤チェックの短パン。黒いエナメルのリュックを背負っていた。派手な服装だがこれでもかというくらい色素を抜いた金髪のショートカットにはよく似合っている。体のラインが細く、きりっとした顔立ちの小坂先輩は、ファッション上級者の男子中学生に見えなくもない。ボーイッシュといえば聞こえがいいが、限りなくボーイに近いボーイッシュだ。しかしながらこの風貌にコロッと心を奪われる男は少なくない。本人が無自覚な分たちが悪い。

 先輩は悠々と席に着き「もうすっかり昼だな」と残念そうに言った。

「のんきに鍋なんてやっているからですよ」

「怒るなって、次はお前も呼んでやるからさ」

「そうじゃないでしょう」

 僕の言及を避けるように手を上げて先輩はコーヒーを注文した。

「なあ、最近怖いことなかったか?」

「特にないです」

「なんだよ、つまんねえ」

 運ばれてきたコーヒーにミルクと砂糖を入れて、熱心にかき回す。黒と白が混ざり行く様子を、先輩は頬杖をついてしばし眺めていた。

「もう少し早い時間に来たかったなあ」

「腹出して寝ていたのは誰ですか?」

「わかってるよ。でもわたしが朝弱いの知ってるだろ」

「それ以前の問題だと思いますけどね」

「はいはい、ごめんなさいでした」

 先輩はコーヒーを混ぜていたスプーンを口にくわえた。そしてゆっくり辺りを見回してから小さめの声で言う。

「朝の喫茶店っていいよな。なんか大人な雰囲気でさ。二十歳過ぎたらコーヒー飲みながら新聞読んだりしたいなって思ってたんだよ」

「そっか、先輩は二十歳になったんですよね。おめでとうございます」

「めでたくはないだろう。昼にコーヒー飲んでるようじゃまだまだガキだ」

「金髪頭がよく言うよ」

 口が滑った。しまったと思いながら恐る恐る先輩の顔を見てみると、先輩は頬杖をついたまま窓の外に視線を向けている。手元のコーヒーはちっとも減っていない。何か考え事をしているようだった。

「怖い話じゃないですけど、思ったことがあって」

「ん、なになに?」

「人は死に直面すると走馬灯のように人生を振り返るっていうじゃないですか。でもそれは直面したから走馬灯のように、ですけど。本当に死んだら本編が始まるんじゃないかと思うんです」

「本編って?」

「人生のハイライトシーンやら珍プレイ好プレイをピックアップした総集編というか、ドキュメンタリーみたいなやつですよ。それを神様と膝つき合わせて何時間も見ながらオーディオコメンタリーみたいに根掘り葉掘り聞かれるんです」

「うわ、キツイなそれ」

「あまつさえそれで天国行っていいよ、なんて言われたら最悪ですよ。記憶の片隅に追いやってきた人生の恥部を嫌というほど見せられて永遠の平穏なんてありえませんて。ふかふかの雲に顔押しつけて、足ばたつかせながら恥ずかしさのあまり泣き叫びますね」

「その度に下界では雷鳴が轟きしくしくと雨が降るわけか」

「いっそ地獄の業火で焼き尽くしてほしいです」

 先輩はケタケタと笑った。

 ひとしきり笑ってから「面白いけどちょっと趣旨が違うなあ」と言ってコーヒーをちびりと飲んだ。

「ホラー映画でも撮るつもりですか?」

「いやいや、今日のイベントの話だよ。あ! 産婦人科の話はするなよ。あれはわたしの持ちネタだからな」

 ふふんと息巻く先輩。何か薄ら寒い予感が頭を過ぎった。

「イベントって、百物語ですか?」

「当たり前だろ」

 まともに寝ていないせいか、最近は物忘れが激しくなってきている自覚はあったのだが、今になって先日に先輩と交わした会話が鮮明に思い起こされた。知り合いが百物語をやるからお前も来いと言われていたのだった。

「何しに来たんだよお前」

「今日だったんですね、うっかりしていました」

「忘れていたのか。悲しいなあ、ショックだなあ」

「すいません、すいません」

「なあ、本当に何も無いのか? 金縛りに遭ったり、予知夢を見たりさ」

「そんなのありませんよ。産婦人科の一件だって勘違いと偶然が重なっただけですから」

「隠すなって、霊感とか、そういうのあるんだろ?」

「馬鹿にしていますね」

「違うって。かっこいいよ。なんていうかその、普通じゃない感じが」

「そうですか……」

 先輩に気を使われるのも妙な感じだ。あんまりいい気はしないな。どのみち暇していたわけだし、気を取り直してイベントに参加するか。

「さて、行くか」

「もう? 早くないですか?」

「わたし達が主催だからセッティングとかあるんだよ。それに昼飯ご馳走してくれるらしいから。ほれ行くぞ」

 急かされるまま店を出た。先輩はちっともコーヒーを飲んでいなかったようだったけど良かったのだろうか。気になって聞いてみると、先輩はへらへらと笑いながら「思ったより苦かった」とそう答えた。


 


 先輩の言う産婦人科の話とは、僕が先輩と初めて言葉を交わしたあの晩に起きた出来事。帰れといわれた僕が何気なく口にした「怖い夢を見た」という言葉に、先輩は過剰に反応した。

「どんな夢だった」と聞かれ僕は、「この部屋の天井を赤ん坊が這いずり回る夢」と答えた。すると先輩の顔は見る見る青ざめ「トレインスポッティングかよ」と絶叫してから「ちょっと来い」と僕を部屋に引っ張って行った。

 ベッド横の窓を開くと「見てくれ」と外を指差す。酔いが冷め切らない朦朧とした状態で僕は言われるまま外を見た。どこにでもありそうな住宅街、特に不自然な点は見当たらない。

「目の前の建物だよ」

「え?」

「産婦人科って書いてあるだろうが!」

 怒鳴られるとズキズキと頭に響いた。だからなんだってんだ、とその時はそう思った。

「しばらく、生理きてないんだ」

 先輩があまりにも唐突に込み入った話を神妙な顔で言うものだから、とにかく何か言わなければと焦り「おめでとうございます」と言ってしまった。すると先輩はかなり強めに僕の頭を叩いた。

「バカか! そうじゃねえよ!」

 思い出したら腹が立ってきた。割愛して話そう。

 当時、先輩は体調を崩すことが多く、生理不順にも悩まされていたそうだ。どうしてこんなに不調なのだろうか? そんなことを考えていたある晩。突然赤ん坊の泣き声が聞こえてきたという。時計を見るとちょうど丑三つ時。先輩は恐ろしくなり、この不調の原因は部屋の目の前にある産婦人科ではないかと思うようになっていた。死産や堕胎を余儀なくされた水子の霊の祟りではないか、そんなふうに考えていた矢先に僕が赤ん坊の悪夢を見たなんて言ったものだから、さぞ恐ろしかったに違いない。

 すごく馬鹿な思い込みなわけだが、いきなりそんな話をされた僕も怖くなってすぐに帰ろうとすると、先輩は泣き出して今日は泊まっていってくれと追いすがった。

 実は先輩もかなり酔っていたらしく、二人でおろおろとしているうちに眠りにつき、日が昇ってからひどい頭痛で目が覚めた僕は、先輩を起こさないようにこっそりと家路についた。

 以降、先輩は僕に霊感があると信じて疑わない。

 それからすぐに先輩は引っ越しの準備を始めた。新しい部屋を探すのに僕を同行させ、その物件が〝いわくつき〟でないか調べさせた。無論、僕にはそんな力はないから適当にやり過ごしてしまったけど。

 その後もついでにと引越しの準備から新居の片付けまでさせたのだ。

 僕が何も言わず従ったのは、半分は自分のせいで先輩を怖がらせて引越しまでさせてしまったという罪悪感があったから。もう半分は、なんやかんやこの人といるのが楽しいと思えたからだ。

 今思えば入学当時から破天荒な生活を続け、昼夜問わず遊び歩いてはジャンクフードばかり食べていた先輩が体調を崩すのは至極当然のことだ。

 僕が不摂生を指摘してようやく少しは自分の体を気遣うようになってくれたのは大きな成果だけど、最近では「お前にだけは言われたくない」と反論されるようになった。いつの間にか僕も同じ穴のムジナと成り果てたわけだ。


 


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