彼女は星の無い空を見上げる

せう

 人は死に直面するとそれまでの生涯のあれこれが走馬灯のように頭を過るのだという。僕は小学五年生の時に交通事故に遭い、三日間意識不明だったことがある。そんな大事にあっていながら、その当時の事はよく覚えていない。だからその時の僕が走馬灯のように短い半生を振り返ったかは定かではない。

 その事故が切掛けとなり僕の生活に若干の変化が起きた。

 僕の教育方針で度々口論をしていた両親は僕に課していた期待の全てを帳消しにして「元気に生きていてくれればそれでいい」と、僕を無条件に溺愛するようになり、同時に口論の主な火種になっていた中学受験も無しになった。

 一人息子の命が風前の灯火であるという事実を突き付けられた両親は、学校の成績でしか我が子を見ることができなかった自分たちの行いを恥じ、同時に息子が自分たちにとってどれほど尊い存在なのかを再認識したのだとか。そして二人は手に手を取り合って、地獄のような三日間を乗り切ったのだ。そのおかげもあって両親の仲は今でも良好だ。

 僕はといえば相変わらず馬鹿なお子様を継続していたのだが、今まで「勉強しろ」「勝ち組になれ」と口やかましく言っていた両親が「いいんだよ、あなたの思うように生きなさい」と急に優しくなったことに驚き、二人の優しい笑顔を不気味にすら思った。事故に遭って両親からひどく怒られると思っていた矢先のことだ。怒られるのは嫌だったが怒られないのも怖いので、その後も僕は両親の機嫌を害わないよう勉強を頑張った。だからといって秀才であったわけでもない、実にそれなりであった。

 そんな塩梅で僕は成長し、中学、高校とさして大きな問題を起こすわけでもなく、実にそれなりの人生を歩んできたつもりだ。特出して振り返るような事柄はない。友達と楽しく遊び、勉強し、時に恋をしたり小さな挫折を経験したりもした。

 良くも悪くも人並みである。走馬灯のように半生を振り返るとしても実に味気ない。にこにこと微笑みながら天国に召されること請け合いだった。


 


 平凡な僕の人生に変化が訪れたのは十八歳の春のこと。

 高校を卒業した僕は、軽薄な夢を持って上京したのだった。そしてあっという間に一年が過ぎ去り、僕は東京で二度目の夏を迎えている。

 記録的な猛暑の影響か、はたまた一年間意欲的に遊びすぎたツケが回ってきたのか、僕は「不眠症」と呼ばれるたちの悪い病に伏していた。


 その日も眠れずに暗い部屋で布団にくるまってぼんやりしていると、不意に携帯が着信を告げた。

 暗闇に光るモニター。突き刺すような閃光に目が眩んだ。時計は午前三時を示している、僕が布団に入ってからすでに三時間が経っていた。

 電話の相手は小坂先輩だった。

「おいムツ、起きてるか?」

 先輩は僕が不眠症である事を知っている。だからといってこの時間に平然と電話を掛けてくるとは流石だ、他人への配慮が足りない。

「ばっちり起きていましたとも」ちょっと皮肉を込めて言い放ったが、先輩は全く意に介さず「そうか」と笑い交じりに言葉を返した。

「明日の朝、時間あるだろ? ちょっと付き合えよ」

「なんすか?」

「コーヒー飲み行くぞ」

「コーヒー?」

 先輩はずいぶんご機嫌な様子だった。電話の向こうでは楽しげな女子の声が聞こえてくる。

「酔ってるんですか?」

「おう! 女だらけの鍋パーティーだ」

「正気ですか? 熱帯夜に鍋なんて」

「いいだろ、お前も来るか?」

「理解に苦しみますね。このくそ暑いのに」

「お前はどうせクーラーガンガンにきかせて布団にくるまっているんだろ? 風邪ひくぞ」

「いいでしょ、これが好きなんです」

「それこそ理解に苦しむな。雪国育ちはみんなそうなのか?」

「そんなの知りませんよ。要件無いなら切りますよ」

「じゃあ、明日の九時に駅前の喫茶店集合ってことで」

 わいわいがやがやと向こうは盛り上がっているようだった。

 腹が立ったので電話を切った。どうせ朝まで飲んでいるんだろう。ただでさえ朝の弱い先輩が起きられるわけがない。そもそもコーヒーを飲みに行くってなんだ?

 相変わらず何を考えているのか。いつもそうだ。いい加減で怠惰、なりゆき思考。付き合わされるこっちはたまったものじゃない。

 先輩と出会ってからの日々の有耶無耶を思い出し、イライラしているうちに、僕はようやく眠りについた。


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