12

「おい六津木、起きろ」

 大森が僕の肩を揺さぶって現実に引き戻した。

 淀んだ暖かい空気に煙草の匂いが混じる。

「大丈夫か? うなされていたけど、不眠症の影響とか?」

「……いいや、変な夢を見ただけ」

「ほう」と言って大森は煙を吐き出した。

 彼は極度のヘビースモーカーだ。しかし撮影中は決して喫煙はしないと誰も頼んでいないのに固く決意している。つまり、これはもう撮影がとん挫したという事なのだろう。

 僕は喫煙所のベンチに寄りかかって寝ていたようだ。手に持った台本は汗でくしゃくしゃになってしまっている。右足が微かに痺れて立ち上がれそうになかった。

「悪いな、撮影は無しだ」

「なんとなく察しはつくさ」

 煙草を吸い終えると、大森は出したばかりの機材を丁寧にしまいながら「打ち上げをしなくちゃ」と不気味に呟いた。その薄暗い表情にぞっとしてすぐに退散しようとも思ったが、胃を痛めながら赤黒い顔で後片付けをしている姿が酷く気の毒に思えて「飯でも食いに行くか」と僕のほうから声をかけた。


 借りた機材を学校の機材庫に返却して、学校を出た。

 いつものファミレスでドリンクバーでも飲みながらこいつを励ましてやろうと思っていた僕の気も知らず、大森は「肉が食いたい」とだけ言い、先を歩き始めた。ガード下のアーケード通りを突き進んだ大森が足を止めたのは朱色の外観がひときわ目を引く焼肉屋だった。

 僕は上京しまもなく、一人でこの店に入ったことがあった。まだ物事の相場を理解していなかった頃にこの店でワンプレート千円の定食を食べたのだ。美味いなこの店また来ようなんて思っていたのはその時ばかり、親の仕送りで生活している学生がそうやすやすと来られる店ではなかった。確実に美味い肉を食える店ではあるが、その分、適切な値段設定がされている。

「ここ高いって、ファミレス行こうぜ」

「いいや、肉を食うならここしかない。勘定は俺が持つから心配するな」

 不機嫌そうな表情に気おされて了承した。まあ、美味い昼飯が食える上にこいつが奢ってくれるというのなら断る理由はないよな。

 席に着くなり大森はビールを二つ頼もうとしたので却下した。

「なんでだよ、飲めよ」

「僕はウーロン茶でいい。歓迎会で盛られてから酒の臭いを嗅ぐだけで気持ち悪くなるんだ」

「ノリ悪いな」

「飲めんものは飲めんのさ」

「仕方ない。じゃあ、ビールとウーロン茶。それと特上ロースに特上カルビ、特上タン塩に特上……」

 特上、特上と繰り返す大森。注文を取りに来たお姉さんは驚いた顔で伝票を書いている。僕も同じような顔で大森を見ていた。

「以上で」

 一仕事終えたように煙草を吸い始めた大森に「おい」と声をかけた。

「うん?」

「うん、じゃなくて。何注文した?」

「心配すんな、一番美味いやつ頼んだから」

「お前、やけっぱちになって食い逃げとか考えてないだろうな!」

 心なしか厨房の視線がこちらに集まったような気がした。

「なんだ、金の心配してんのか。言っておくが俺の財布には今二十万入っている。安心して好きなだけ食うがいい」

「安心はしたけど、なんでそんな金持ってんのさ」

「俺はお前と違って働いているからね」

「そうじゃなくて、二十万もなんで持ってきているんだってこと」

「ケータリングとか買うだろ? それに打ち上げもやらなくちゃいけないし」

「三人で何次会までやるつもりだったんだよ」

「あわよくば車借りて小旅行に行くぐらいの気持ちはあった」

 なぜか誇らしげな大森。ほんの少し酔いも回ってきたのかさっきまでの悲壮感は和らいだように思えた。

 久しぶりの本物の肉を堪能しながら、先日見た映画の話をした。「エル・トポ」は大森から借りたものだったのだ。待ってましたとばかりに大森は饒舌になり、かのシーンで使われたウサギの死体は本物で、他のスタッフがやりたがらなかったので監督自ら首の骨を折って殺したのだという逸話を披露した。おかげで僕は特上の肉を前に食欲が失せた。

 大森が三杯目のビールに口をつけた頃、ぱたりと箸が止まり、仕切りに下腹部さすり始めた。

 そういえばこいつ、胃が痛いとか言ってなかったっけ?

「大丈夫か?」と聞いてみたが返答はなかった。大森は遠くを見つめ、小さく呼吸している。その顔はまたしても赤黒く染まり始めていた。

 眉間にしわを寄せて深く息を吐くと、やがてすました顔で立ち上がり、ゆっくりと席を離れ、実にゆっくりとトイレに向かった。

 もったいないなあと思う。テーブルの上には順番待ちの特上肉がたんまり残っている。とても僕一人で食べきれる量ではなかった。

「もったいないなあ」と自然と口をついて出た。


 焼肉屋から退散した僕らは駅前ロータリーの植え込みに腰を下ろして無駄な時間を過ごしていた。木陰になっていて程よく涼しい。

「情けない、水樹は来ないし撮影は中断するし肉は吐くし、おまけに隣にいるのが六津木とは……」

「不埒な動機で撮影に挑んだ罰が当たったな」

「うう、恥ずかしい。胃も痛いし、もういっそ死んでしまいたい」

「今死ぬと本編が始まってもっと辛い目にあうぞ」

「本編って何?」大森はよほど胃が痛むのか腹を押さえて前かがみになっていた。

「死に直面すると今までの半生を走馬灯のように振り返るっていうだろ? でもそれはトレーラーとかスポットの予告編みたいなもんで、死ぬと本編が始まるんだよ。ドキュメンタリーみたいなやつが」

「それの監督は、ひょっとして神様とかいう奴だろうか」

「かもしれないな」

「くっそ、よくもこんな脚本書きやがったな」

「実際は役者が無用なアドリブ入れて話を滅茶苦茶にしているだけかもよ。それで本編見ながら差し向かいの神様に、ねえ、なんでこんなアドリブ入れたの? とか、こここうしてれば幸せになれたのになんで? みたくネチネチ聞かれるんだろうな」

「それはつまりあれだろ、君はこんなに悪いことをしたけれど私は優しいから許してあげる、天国に行っていいよ。なんて言っておいて悠久の時を後悔しながら過ごせってことだろ。恐ろしいな、神様ってやつは。俺はもう悪魔崇拝者になる」

「もとから信心深くもないだろ」

「でも決定的に信じないことを決意した」

「軽い決意だな」

 しばらく無言のまま、通り過ぎる人々を見ていた。

「お前はいいよな」

「何が?」

「小坂がいてさ」

「小坂先輩だろ。同い年だからって呼び捨てはだめだ」

「それなら、お前も俺に敬語使えよ」

「わかりました。以後気をつけます」

「よせ、気持ち悪い。それより何か進展はあったのか?」

「うるせぇよ」と青柳さんのモノマネをしてみたが大森には伝わらなかった。


 

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