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山本さんからもらった睡眠薬のおかげで僕は久方ぶりの安定した睡眠を得ることができた。それから毎晩欠かさず飲んでいたせいで薬は数日で無くなってしまったが、睡眠のリズムが改善したおかげで寝つきはかなり良くなった。日付が変わるころには眠くなり、夜明けとともに目が覚める。睡眠時間はまだ短いかもしれないが、それでも飛躍的な進歩と言っていいだろう。何より、目覚めとともにやってくるあのぼんやりとした憂鬱な気分がなくなった事が嬉しい。
そうして夏休みの最後の週となった。
小坂先輩の行方は相変わらず分からないままだ。
僕の中で不吉な予感ばかりが大きくなっていくが、それでもすんなりと眠りに落ちる自分がひどく薄情に思えて仕方がない。僕は正常な世界の規律の中に戻りつつあることを自覚していた。
凄まじい湿気をはらんだ熱風を浴びて思わず身を縮めた。太陽は陰鬱な心境をあざ笑うかのよう僕を照らす。裸足では到底歩けないであろう灼熱のアスファルトをスニーカーで踏みにじって歩いた。一歩進むたびに汗がにじみ出る。水を含んだスポンジになった気分だ。朝からこの調子で大丈夫か太陽、燃え尽きてしまいやしないか。
学校に行くのは久しぶりだ。休みも残りわずかだというのに、何を好きこのんで登校しなくてはいけないのか。この徒労はすべて大森のせいだ。
校舎の屋上に行き着くと、すでに大森が撮影の準備を始めていた。カメラ、三脚、レフ板、ガンマイク……。
「照明は?」
「これだけ日が照っていればレフ板で十分だ」
「スタッフは?」
「俺とお前だ」
「やっぱり……」
同期で監督専攻の大森は学校の歴史に一石を投じるほどの変り者で、撮影時には必ずスーツを着用し、大きなサングラスをかけ、手入れをしていないもじゃもじゃの長髪を束ねて後ろで結ぶ。今日もしっかりその格好で僕を出迎えた。
普段学校で見かけるときは、清掃のアルバイト先で支給されている青いつなぎを着ていて、髪は結んでいたり、海中に漂うワカメの如く野放しにしていたりと様々だった。同期ではあるが年齢は一つ上で、大学受験に失敗し、翌年この専門学校に入学したのだとか。本人曰く、もう映画監督になるしか生きる道がないのだという。これはおまけの人生だなんて捻くれたことを言っていたが、なんていうか、贅沢なおまけもあったものだと思う。
その考え方がいけないのか、あるいは風貌か、彼自身の人間性に問題があるのかは定かではないが、学校内での人付き合いはそんなに盛んではないらしい。
大森は無言のまま僕に台本を手渡すと、一仕事終えたかのように上着を脱いで喫煙スペースのベンチに投げた。
「俺がカメラ回しながらマイク振るから、六津木はレフ板でうまい具合にやってくれ」
「いいけど、役者は?」
「少し遅れるらしい、なんか調子が悪いんだとさ」
なんとなく雲行きが怪しい。それは大森の表情からうかがい知ることができた。
「じゃあ、しばらく待機だな」
「ああ」
喫煙スペースの日除けの下に機材を移動させて、自販機で飲み物を買いベンチに座った。大森の撮影でスタッフが少ないことは多々あることだが、さすがに二人きりというのはそうそうないことだ。他の奴にも声かけてみるとは言っていたけど、なんとなくこうなることは分かっていたさ。
大森はごろりとベンチに横たわると、携帯電話を胸に当てむふーと荒々しく鼻息を漏らした。
「一時間くらい遅れるらしいから、ちょっと寝させてもらう」
「夜勤明けか?」
「いいや、なんだか胃が痛くて」そう言って大森は「うぎぎ」と苦しそうに呻いた。
「大丈夫なの? 今日中止にしたら?」
「だめだ、先方の予定は今日しか空いてない。休み開けから舞台の稽古が始まるらしいから、今日しかないんだ」
心なしか大森の顔色が赤黒くなってきているような気がした。
「素直にデートに誘えばいいのに」
「そんな回りくどい真似するくらいなら告白した方がマシだ」
「わかんねえなあ、お前の恋愛観は」
そもそもこの撮影は大森の私欲が大きく関わっている。
この作品の主演は水樹という俳優専攻に所属する後輩の女の子なのだが、春に行われた新入生歓迎会で見かけたこの子に大森は惚れてしまっているらしく、どうにかお近づきになる機会はないものかと考えていた。意気地のない大森は三ヶ月も考え抜いた揚句「君を主演で作品を撮りたい」と、なんともビジネスライクな口説き文句でこの機会を実現させようと試みたわけだ。
僕にしてみればこんなバカな撮影はお断りしたいところだが、入学して間もないことから大森は月に一本のペースで短編映画を撮っている。深夜に働いて稼いだ給料をほぼ映画制作の資金にしてしまうという破天荒振りであった。僕の知る限り、大森ほど本気で映画を撮ろうとしている奴はこの学校にいないのではないかと思う。だから僕はできる限りこいつの撮影には参加することにしている。今まで一人で頑張ってきたのだから、好きな子と仲良くする機会があっても罰は当たらないと思うんだが。
しばらくして大森が大いびきをかいて寝始めた。泥酔してベンチで寝込むサラリーマン然とした大森をその場に残し、風通しの良い非常階段へ移動した。
建物の影になっているので少し薄暗く、湿気の多い熱風もここでは心地よく感じられる。階段に腰かけて、さっき大森に渡された台本を開いた。台本といっても、十枚ほどのプリント用紙をホッチキスで止めた簡単な物で、作品の尺は十分にも満たないと思われる。
内容は自殺を考える女が屋上の端に立ち、ひたすら半生を振り返るというワンシチュエーションの一人芝居だ。さらにセリフは全てモノローグという奇才ぶりであった。
でもこれなら今日中に撮影は終わるし、役者がセリフを覚える必要もない。さらにアフレコの収録でまた会う機会ができるわけだ。よく考えたものだと感心してしまった。
話の冒頭では女が自殺しようとしていると思わせておいて、実は自殺した恋人がこの場所で何を考えていたのだろうかと思いに耽っているだけだったというオチもある。以前、大森はこの程度の話なら三分で考えられると豪語していた。
ふいに忘れていたはずの暗い記憶が湧き上がってきた。
大森の言う「この程度の話」を、僕は書くことができるだろうか。
こんな事をしている暇があるのなら書いたらどうだ。寝る間も惜しんで書くべきではないだろうか。いいや、寝ずに考えたところで書けないものは書けないのだ。そもそも書けないことに問題がある。なぜ書けないのか。書けないのか書かないだけか、才能が無いのか、やる気がないのか、意気地がないのか、それとも、心の奥底ではもう諦めてしまっているのではないか。
断りもなくそんな考えが縦横無尽に僕の頭の中を飛び交った。否定しようにも否定しきれず、叩いても叩いても生き返るゾンビウイルスに感染したハエのように付きまとう。
そうなるともうじっとしていられなくなって「ぬあああああ」と叫びながら非常階段を駆け下りた。
初めて書いた脚本をいとも容易く、かつロジカルに否定された初めての授業。意味が分からないと一蹴された課題の短編。起死回生を狙って書き上げた長編に至っては映画になってないと怒られた。
階段を駆け下りる度に忘れてしまいたい、忘れていたはずの事柄が思い起こされ僕は髪をかきむしりながら叫んだ。金属製の階段は僕が踏み鳴らすたびにカン、カン、カンとまるで警鐘のように響いた。
カン、カン、カン。
ぬあああああああ。
薄暗い非常階段に奇妙な不協和音が響く。
ネガティブな思い出と体の動作はもはや自分の意志では止めようがなく、妄想が走り、足が動き、慣性の法則に従い勢いばかりが増していく。十二段の階段を駆け下り、踊り場で立ち止まることもできずまた十二段の階段を駆け下りる。
カン、カン、カン、カン、カン。
しかしいずれ終わりは来る。階段を降り切ったらどうなるだろうか、妄想は止まらない、きっと体も止まらない。ならば、フォレストガンプのようにどこまでも走り続けてやろう。
「ちくしょー、やってやる!」
僕は走り出す覚悟を決めた。走って走って臨海公園まで行って海に飛び込んでやる。カリフォルニアまで泳ぎ切ってやる。密入国で強制送還されてやる。
そう意気込んだ瞬間、金髪のショートヘアーが脳裏を過ぎった。
不意を突かれて段差を踏み外し、僕は前のめりに転んだ。
足が宙を舞い、嫌というほど顔面で階段の頑丈さを味わった。それでも勢いは止まらず、そのまま階段を転げ落ちた。
天地が反転する世界がパッと明るくなる。どうやら階段を抜けて学校の手前に転がり出たらしい。太陽の下にさらけ出された僕はどんなみじめな姿をしているだろうか。
頬にざらりとしたアスファルトを感じながら考えた、このままじっとしていれば心優しい誰かが声をかけてくれるのではないかと。しかし見知らぬ誰かの同情より早く、熱を帯びた地面が僕を起立させた。
「熱ぃ!」
立ち上がると体のあちこちが痛んだ。とりわけ捻った足首が熱を持って痛んでいる気がしたので大事に至ってはいないかと足元に目をやった。
するとどうだろう、てっきり黒々としたアスファルトがあると思っていたが、そこにはテカテカした緑色のウレタン床がある。辺りを見渡せば 赤茶の塗装が剥げかけている鉄柵が空間を区切り、その向こうは青空が広がり眼下にはどこにでもありそうな住宅街が見える。
「落ち着け、落ち着け」と頭の中で何度も言い聞かせた。喚き散らしたくなる気持を押さえて可能な限り冷静に判断する。
思うにここは学校の屋上のようだ。あれだけ階段を降りてきたにもかかわらず僕はまだ高い所にいる。
落ち着け、落ち着くんだ。
ここがどこの学校で、どうして僕がここにいるのだろうかと考えた。
小坂先輩の家で寝ていたという前科がある以上、また寝ている間に近隣の学校にでも忍び込んだという可能性も否定できない。しかし、いったいどのタイミングで・・・・・・。
「ここには来たくなかったんだけどな。お前のおせっかいにも困ったもんだ」
聞き覚えのある声にあわてて振り向くと、やはり小坂先輩がいた。
「まったく、あいつは来ないしムツは来るし」
先輩は腕を組んで自傷気味に笑って見せた。
「先輩? 小坂先輩!」
訳が分からなさ過ぎてそれ以上言葉が出てこなかった。とにかく先輩に何か言わなくてはと思ったし、何がどうなっているのか聞こうとも思ったのだが、混線して上手く言語化できない。
ただ僕は「先輩!」と繰り返した。
そうしてやっと振り絞った言葉が「どうして」という叫びであった。
「さあね、私にもわかんないよ」
小坂先輩は僕の前を横切り、ひょいと鉄柵を乗り越える。そしてちらりと僕の方を振り向いた。
「なんでムツがいるんだろうな?」
「僕にもわかりません」
「あっそ」とそっけなく返すと、先輩はまるでプールにでも入るかのように、いとも容易く屋上から飛び降りた。
その光景を目の当たりにして、数秒遅れてゾっとした寒気が押し寄せてきた。
震える足をどうにか制して鉄柵を越える。屋上のふち、先輩が飛び降りた所から下の様子を覗き込んだ。覗き込んでから、もう少し覚悟を決めてからそうするべきだったと後悔した。
思いがけない高さに目が眩んだ。身を乗り出す勇気はない。ほんの少し顔を覗かせたくらいだったが、眼下の様子はすぐ分かった。衝突があったであろう場所はすでにブルーシートで覆われ、救急車にストレッチャーが担ぎ込まれているところだった。
いくらなんでも対応が早すぎやしないかと思った時、僕の目の前を小魚の群れが横切った。何かしら予感のようなものがあったが、否定も肯定もできず、眼下の様子を見ることに専念した。
救急車は回転灯を回し静かに走り始めた。向かう先の校門には教員と思しき人たちが、生徒の立ち入りを止めている。その人だかりに向かう赤い回転灯。教員たちが生徒を誘導し救急車の通る道を開けると、サイレンを鳴らして加速していく。
遠ざかるサイレンの音に合わせて世界の輪郭は揺らぎ始め、色が重なり合って黒く濁り、世界を侵食し始める。
救急車を見送った生徒たちは解散し、思い思いの方へ向かっていく。その向こうの歩道にしゃがみ込んでいる一人の女子生徒がいた。望遠カメラがズームアップするように、僕の意識はその子に集束されていく。
彼女は泣いているようだ。その顔に表情はなく、ぽろぽろと涙だけが流れている。視線はどこを見るという訳でもなく、漠然と辺りを映しているガラス玉のように見えた。
嫌でも分かってしまう、その子は高校生の頃の小坂先輩であった。
「先輩!」僕はまた訳も分からず、とにかく叫んだ。
涙で潤んだ真っ黒な瞳が僕を捉える。ほぼ全てが闇に変わり重力も失われたのか、零れた涙は宙に留まり、ゆらゆらと浮遊していたが、それもやがて輪郭を失い闇に沈んでいくのだった。
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