10

 自宅に戻ると耐え難い現実と対面した。ベランダは開けっ放しになっていて、欄干には昨日干した布団がぶら下がっている。洗濯機内の洗濯物はどんな様子だろうか。

 もろもろの後始末をしながら、昨晩のことを振り返った。

 夢の事はさておき、どうして僕は先輩の家にいたのだろうか。向うの玄関に僕の靴はなかった。つまり裸足で出歩いたことになる。ついに夢遊病になってしまったということか。

 先輩の部屋から借りてきたサンダルを眺めながらため息をついた。

 しかし解せない点が一つ。先輩の部屋に入った時、玄関の鍵をどうやって開けたかということだ。

 携帯を忘れて出かけるような人だからドアの鍵を閉め忘れていても不思議じゃないが、それはとある事実によって否定された。僕のズボンのポケットに、どういう訳か先輩の部屋の鍵が入っていたのだ。

 以前、小坂先輩は部屋の鍵を落として僕の家に避難してきたことがあった。それから鍵を失くした時のためにスペアキーを作り、「勝手に部屋に入られたくないから」と言ってそれを僕の部屋のどこかに隠していた。僕に他人の部屋を家探しする趣味はないから好きにさせておいたけど。

 つまり先輩の部屋の鍵は僕の部屋にあったということだ。そうなると僕は寝ぼけたままどこにあるかも知らない鍵を探し当て、裸足で家を飛び出し先輩の部屋に侵入して布団で寝ていたことになる。

 これが事実ならば、僕は大変危険な人物である。

 夢は無意識の中にある純粋な欲求を体現するものだと聞いたことがあるが、これが僕の望むことなのか、いやいやそんな訳がない。訳がわからない。

 とにかく先輩が留守でよかった。

 

 暗くなってから山本さんから連絡があった。渡したい物があるから牙城で落ち合おうということだった。

 徒歩で牙城へ向かうと、すぐにスキンヘッドが目に留まった。てっきり青柳さんも一緒だと思っていたが、違ったようだ。

 挨拶もそこそこに手前のお好み焼屋へ入る。

「なんか無性にもんじゃが食べたくなってな」

「あー、ありますよねそういう時」

「昨日飲みすぎてトイレで吐いてたら急に」

「やめてください、やめてください!」

 鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てて焼けるもんじゃを眺めながら山本さんは「まさにこんな感じだった」と言って笑った。僕は笑えなかった。

「取りあえずこれを」と山本さんは小さなプラスチックのケースを僕に差し出した。

「少なくて悪いんだけど、前言った睡眠薬だ。うちの母親が眠り浅くて、掛かりつけの医者からいつも貰ってるやつなんだけど、ちょっとくすねてきた。効き目は保証するよ」

「わざわざすいません。いいんですか?」

「かまわないよ。まだ一般には出回ってない薬だけど、副作用はないみたいだから安心してくれ」

 ケースの中には茶色い錠剤が五粒ほど入っている。見るからに苦々しい味がしそうで飲み込むのには勇気がいりそうだ。

 ちょうど食後だし、効き目が出るまで時間がかかるから今のうち飲んでしまえと山本さんは言った。僕は促されるままウーロン茶で錠剤をのみ込む。

 飲み込む刹那、ほんのりとパイナップルの香りがして、思わず吐き出しそうになった。

「おいおい、大丈夫か?」

「すいません、なんかパイナップルみたいな味がして」

「飲みやすくて結構じゃないか」

「ちなみにこの薬くれる医者ってハゲた小太りの男じゃないですよね?」

 山本さんは不思議そうに僕を見た。確かに変な質問だ。すぐ撤回しようと思ったが、それよりも早く山本さんが口を開いた。

「あれ、知り合いか?」

 顔が引きつった。返す言葉が見当たらない。

「まあいいや。とにかく飲んだからには答えてもらおうか」

 山本さんは眉間にしわを寄せて凄んでみせたが口元が笑っていたので怖くはなかった。

「小坂はどこに行った?」

「ぼ、僕は知りません」と答えると、同じような調子で「本当か?」と聞かれた。

「全く何も聞いてませんよ。先輩何かしたんですか?」

「わからん、ただこのまま帰ってこないようだったら警察沙汰になるかもしれん」

「そんな大げさな。泊まり込みのロケとかじゃないですか? 前も似たようなことあったし」

「たとえそうだとしても、周りの連中がヒステリックになって手が付けられないんだよ。何せ小坂は百物語の後から行方知れずになっているからな」

「なるほど、最悪のタイミングですね。でもちゃんと家には帰っていましたよ。僕も明け方まで一緒にいました」

「でもその後は分からないだろ。何か変わったことなかったか?」

 変わったことと言えば、意気揚々とイベントに参加しておきながら、幽霊が怖くなったとか言って僕を置いて途中退席。家に帰ってからはぐじぐじと泣きじゃくる。変わったことだらけとも思えるけど、もとから先輩はこんな具合だった気がする。

「お前ら本当に付き合ってないの?」

「全然そんなんじゃないですよ」

「でも好意がないってわけでもないんだろ?」

「まあ、それは、なんと言いますか」

「あとちょっとって所で確信が得られず、踏み出せないってか」

 僕の心情を的確に言い表されて驚いた。

「お前もか」と山本さんは笑った。

「その一歩は踏み出さなくて正解だ。青柳はヘタレのくせに男気見せてフラれたからな。小坂はちょっと厄介だ」

 山本さんが言葉を濁したので、それから先が聞き出しにくくなってしまった。厄介な性格の人だってことはわかっているけど、何がどう厄介なのか。

「どこ行ったんだろうなあ、あのバカは」

 山本さんはもんじゃ焼きの最後の一口をたいらげると、続けざまにお好み焼を注文した。

「すいませーん! モチ明太チーズ一つ!」店内に山本さんの声が響くと「はい、まいど!」と、レジを打っていたおばちゃんが笑顔で答える。ふと昨日の夢の事が思い起こされた。

「あいつのところにでも行ってしまったんだろうか……」

 なんとなく店内の喧騒に紛れるように呟いてみた。しかし僕の独り言は山本さんの耳にも届いたらしく「縁起でもないこと言うんじゃねえよ」と言葉が返って来た。

「縁起でもない?」どこか不謹慎な点があったのだろうかと山本さんを見ると、自分の発言の意図を理解していない僕の表情に山本さんも驚いているようだ。

「今あいつって言ったろう? 小坂の彼氏の事じゃないのか?」

 驚いた。

「小坂先輩、彼氏いたんですか!?」

 山本さんは「あれ、おかしいぞ」と言ったっきり黙り込んでしまった。

 そうこうしている間に「お待ちどうさま」とおばちゃんがお好み焼のタネがてんこ盛りになった丼を持ってきてくれた。山本さんは軽く会釈し受け取ると、早速焼き始める。慣れた手つきできれいな円形を作り出す山本さんは出店の店主のようにも見えた。

「もう一回聞くけど、本当に何も聞いてないのか?」

「彼氏どうこうとか、その手の話はしたことないです。どこにいるんですか、その人。ひょっとしたら先輩、会いに行ったのかもしれません」

 山本さんはうーんと唸りながら、お好み焼をひっくり返すタイミングを見計らっていた。一呼吸置いて、またうーんと唸りだす。

「お前になら話すと思っていたんだけどな」

 大判のお好み焼をいともあっさりひっくり返す。それからヘラで何度も鉄板に押し付けた。

「もし、小坂がそいつに会いに行ったのなら、それこそ本当に警察沙汰だ」

「き、危険人物なんですか?」

「いいや、問題はそいつが居る場所だな」

「どこなんですか?」

 山本さんは顎をくいっとしゃくりあげた。

「上?」この店の二階にいるのか? なんて思ってからすぐに理解した。不謹慎ってそう言う事か。

「亡くなったんですね」

 山本さんは何も言わず、程よく焦げ目の付いたお好み焼にソースをかけ、マヨネーズを手に取った。僕の方には目を向けず、淡々と手元に集中しているようだった。

「高校三年の夏休みって言ってたかな。事故か自殺か不明ってことで警察やら学校やら、とにかく何度も色々聞かれたらしくて、そりゃまあトラウマにもなるだろう」

 青柳さんが小坂先輩にフラれた時、どうにか友人をフォローしてやれないかと思い、小坂先輩を飲みに誘った、その時この事を知ったという。小坂先輩は泣きながら「ごめんなさい」と山本さんにまで謝ったのだとか。

「先輩にそんな過去があったなんて想像できない。本当の話ですか?」

「今の小坂しか知らないならそう思うかもしれない。でも入学して間もない頃はどちらかと言うと大人しい印象だったよ」

「まあ、今は相当奇抜になってますけど、上京したての頃はみんなそんなものじゃないですか。なんか嘘くさいですよ」

「俺には上京して垢抜けましたって風にはどうしても見れないんだよ。なんて言うか、異常だよ、あれは。だから小坂に彼氏ができたって聞いたときは安心したんだけどなあ」

 はいよ、と切り分けたお好み焼を僕の小皿に移す。

「そういや、お前の言ったあいつって誰だ?」

「あれはなんて言うか、ただの戯言ですよ」

「戯言に釣られてしゃべっちまったか、まあ忘れてくれ、小坂はお前に言わなかったんだから、たぶん知られたくなかったんだろう」

 山本さんはおしぼりで額の汗をぬぐった。なんだか悪いことをしてしまったような気がして僕は昨日の夢について話すことにした。そんなことしても何の解決にもならないとはわかっていたけど、そうしてしまったのは薬が効いてきて酷くぼんやりしていたからだと思う。

 目が覚めると先輩の家にいたという部分は省いて一通り話し終えると、山本さんは難しい顔をして「お前、やっぱり霊能力とかあるのかもな」と小坂先輩みたいなことを言い出した。

「坊主になる人間がこんなこと言うのはおかしいが、俺はあんまりこの手の話信じない質でさ。でも、偶然にしちゃあ出来すぎてなあ。小坂が引っ越したのもお前が原因だろ?」

「なんで知っているんですか!?」

「こう見えてまめに連絡取ってたからな。先週も後輩に面白いやつがいるから、そいつ連れて今度の百物語参加するって意気込んでたっけ」

「……先輩、あの夜泣いてたんですよ。それより前にも何度かそういう日があって……」

「やっぱり」と山本さんは言う。

 山本さんは在学中に小坂先輩と会うことはなかったが、退学後に飛び入り参加した新入生歓迎会で見かけ、後に恋人候補として青柳さんに紹介されてから仲良くしているのだとか。先輩が青柳さんをフってからはどうにか二人の仲を取り持つことが出来ないかとこまめに連絡を取っていたらしいが、そうして何度か会っている間に、山本さんの目的は二人の復縁から小坂先輩本人の心配へと変わった。

 当時は黒髪で長さも背中にかかるほどあった。性格もどちらかと言えば控えめで服装も性格も今見たく奔放ではなかったという。会うたびに変貌していく小坂先輩を見て、山本さんの心配は増していったらしい。

 山本さんは「異常だよ」と何度も繰り返し言った。そうなってしまった原因は、やはり恋人の死にあるのだろうか。


 家に帰ってからも、そのことが頭から離れなかった。

 先輩の事をよく知っているつもりでいたし、一番近い所にいるとも思っていた。でもそれは僕の思い込みだったわけだ。どんなに距離を詰めても、あの十センチが、目に見えない壁がある。そこには先輩が触れてほしくない悲しい気持ちが蓄積されていて、僕が先輩に近づこうとすれば、それらも一緒に連れて行ってしまうことになるんだろう。

 とても悲しい気持ちになる。僕にはどうすることもできないのか。

 薬が効いてきて思考が滞るほどうつらうつらしてきた。急いでシャワーを浴びて全身に染みついた焦げたソースの匂いを落として、冷水で顔を洗った。こんな気持ちで眠りにつくと、また変な夢を見てしまいそうだ。

 それでも意識はゆっくりと収縮していく。薬の効力は実証されたわけだけど、どうして寝たい時に眠れず、寝たくない時に眠くなるのか。

 ベランダに出て川向うを眺めた。点々と点る明かりの向こうに先輩はいるのだろうか。まだあの奇妙な場所でその人が来るのを待っているのだろうか。もしそうなら、どうやっても連れ戻したい。

「ムツには関係ない」またそんな事を言われたら、考えただけで悲しくなってくる。でも、もしまた言われたら、今度は先輩と一緒にその人が来るまで待ってやろう。十センチの間隔を保ちながら、先輩が納得するまで一緒に居てやろう。それくらいしか、僕にできることは無いんだ。

 観念して横になる。真っ暗な部屋の天井を眺めながら、先輩と初めて言葉を交わしたあの夜の事を思い出していた。

 今ならわかる気がする。体を壊すほど夜な夜な遊び歩いていたのは眠れなかったからだ。でも僕みたいに不眠症ってわけでもないんだろう。きっと眠りたくなかったんだ。たぶん、一番忘れたい瞬間を夢で見てしまうからなんだろう。僕が夜中に呼び出されたのもそのせいだ。ぐじぐじといつまでも泣き止まなかったのもそのせいだ。百物語の時、「幽霊が怖くなった」って帰ってしまったのは百話を語り終えると冥界から死者やってくるとかいう云われのせいだろうか。馬鹿な人だな。ああそうか、僕を彼氏役に仕立てたのも、その為だったのか。本当に馬鹿だな。

 先輩の事が心配で心配でたまらないのに、意識はゆっくりと闇に沈みこんでいく。眠りに落ちる心地よさにどんなに抗おうとしても、そうそう耐えきれるものではなかった。

 

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