八月も半ばに入ろうとする頃合いだし、そろそろこの怠惰な生活リズムをどうにかしたい。さもないと学校が始まってから地獄を見ることになりそうだ。

 いい加減医者に行って薬をもらうべきだろうか。不意に夢に出てきた小太りの町医者が頭を過った。缶詰で薬を作るようなやぶ医者には掛かりたくないなあ。

 窓を開けると熱風が室内に入ってくる。日は高く、エッジの効いた影が隣の建物から手前の土手へ落ちている。車の走る音。子供の騒ぎ声。鉄橋を渡る電車のリズム。世の中は清く正しく機能しているようだ。

 布団を干して、洗濯機を回した。三日放置していた食器も洗う。面倒くさがって後回しにしていたが、一度手を付ければ、洗い終わるのに十分もかからない。少しずつ、少しずつでいい。元の生活を取り戻そう。

 買い溜めておいた冷凍食品のナポリタンを温めて、友人に「とりあえず見ろ」と押し付けられた映画のDVDの山から一本引き抜き、デッキに入れる。タイトルは『エル・トポ』と書かれているけど、内容はさっぱりわからない。パッケージごと貸してくれればいいのに傷がつくのを恐れてプラスチックのディスクケースに入れてある。まあ、余計な知識がない分、ワクワクしながら見られるのは嬉しいけど。

 上京するまで映画なんてほとんど見たことがなかったけれど、映画好きに囲まれた生活の中で僕もそれなりに本数を見てきた。そういえばこんな映画あったなあなんてものから、何十年も昔の無声映画まで、僕が望まなくても友人は「とりあえず見ろ」と言って無理やりにでも押し付けてくるのだから、嫌でも知識はついてくる。さらに「とりあえず見ろ」のDVDを見ると必ず「次はこれだ」のDVDが出てくる。おかげで未消化の映画の山が出来上がっているのだ。一生かけても全ての映画を見ることはできないという言葉をしみじみと噛みしめる。

 それにしたってこんなにも映画を好きになる日が来るなんて思いもしなかった。生活が変わり、新しい環境で沢山の人に出会った。沢山の新しい発見もあり、沢山の失敗もした。恥ずかしい思いもたくさんした。それは思い出したくないけれど、走馬灯の本編が始まったら嫌でも見せられるのだろうか。もしそうなら死を目前に僕は「死にたくない」と泣きわめくだろう。

 映画が始まり、僕はすぐ停止ボタンを押した。食事中に見るには不向きな作品らしい。お昼の情報番組を流しながら急いでナポリタンを食べた。ようやく映画に戻ろうとした矢先、間の悪いことに携帯が着信を告げた。

 相手はメイク専攻に所属する先輩であった。杉崎さんという人で小坂先輩の家で何度か会っている。その時に番号を交換していたのは覚えているが、それ以外に交流もなく接点もない人だったから、正直驚いた。

「もしもし、六津木くん?」

「はい」としか返答のしようがなかった。

「あのさ、小坂どこにいるか知らない? 昨日から連絡が取れなくてさ」

 ああ、小坂先輩の事で連絡してきたのか。

「僕も数日連絡取ってないのでわかりません。また急に仕事が入ったとかじゃないですか?」

「そうかなあ、それなら電話通じると思うんだけど。まあ、急ぎの用じゃないからいいけどさ。連絡着くようだったら私に電話するように言っといてくれる?」

「わかりました。僕の方からも電話してみますね」

「うん、頼んだ。じゃあね」

「はい、お疲れ様です」

 小坂先輩はまた予告なしに仕事に出かけたのか、人騒がせな人だ。

 そういえば小坂先輩と会ったのは百物語イベントの夜が最後だ。埋め合わせはしてやるとか言ってたくせに連絡もなしとは。流石だ。

 小坂先輩の携帯に二度ほど掛けてみたが、やっぱり繋がらなかった。ひょっとしたら撮影中なのかもしれない、もしそうなら迷惑になると思い、夜にでも掛けなおすことにした。

『エル・トポ』を見終わってから『未来世紀ブラジル』を見た。タイトルからしてコメディか、ひょっとしたらドキュメンタリーみたいなものだろうと思っていたが、中身は近未来SFだった。どちらも一筋縄ではいかない小難しい要素があるように思えて素直に楽しめなかったが、それがいい。映画好きの勧める映画は大抵こんなのばかりだ。見終わったら頭がズキズキ痛んだけど、こういう疲弊感は嫌いじゃない。友人に会った時にあのラストシーンの真意についてどう思うか聞いてみるとしよう。きっと一晩中話すことになるだろう。そう思うとワクワクする。

 買い置きの頭痛薬を飲んで横になった。痛みが治まったら『インランド・エンパイア』という作品に着手してみようと思う。これはきっとファンタジーだと思うんだ。


 少し横になるつもりが結局、そのまま寝入ってしまったらしく目が覚めたころには夜になっていた。

 部屋は真っ暗で、ベランダを開けたままにしておいたせいで、手で掴めそうなくらい湿気を含んだモヤっとした空気が部屋に充満していた。

 川辺の家に住むにあたって気を付けなくてはいけないのが洗濯物を取り込むタイミングだ。特にこの時期は乾きやすくて助かるけど、夜まで出しっぱなしにしていると湿気を含んで生臭くなることがある。そうなるともう一度洗いなおさなくてはどうにも気が済まない。

 洗濯物はまだ洗濯機の中に入っている。残念だけど明日もう一度洗いなおそう。問題は布団だ。干しっぱなしにしてしまった。臭いがついていないといいけど。

 布団を取り込もうとベランダに出てみる。しかし干してあるはずの布団は見当たらない。それどころか布団を干していたベランダの欄干が見当たらない。

 目の前にはベランダがどこまでも続き、川向うまで伸びている。奥行一メートルほどしかないはずのベランダが飴細工のように引き伸ばされて、これではまるで橋の様だ。

 この異様な光景に対し深く考えることはせず、僕はベランダを渡ることにした。昨晩に続き変な夢を見ていると思ったからだ。それ以外にどう説明がつけられようか。

 ベランダは緩やかな弧を描いており、ちょうど中腹辺りに来ると向う岸が見えた。何やらお祭りをやっているらしく、提灯の明かりと祭囃子が聞こえてくる。少し足を速めて一気に向う岸へ渡った。

 そこは僕の地元の商店街によく似た場所で、提灯や出店が連なる光景は毎年行われる夏祭りにそっくりだった。でもよくよく見ると少し違うみたいだ。電柱や街並みがほんの少し違う。

 祭囃子の音色を頼りに、祭りの中心に向かうべく足を進めてみる。

 きらびやかな祭りの雰囲気に相対して、どれだけ歩いても誰一人としてすれ違うことはなかった。

 やがて祭りのメイン会場となる広場に行きついた。中心に大きな櫓が立ち、そこから提灯が放射状に連なっている。周囲には様々な出店があるのだが、やはり人の姿はなかった。誰もいない祭り会場に盆踊りのメロディだけが響いている。

 祭り櫓の前にチラチラと光るものが目に留まった。

 風に吹かれる木の葉のように思えたが、それはまるで自分の意志でもあるように右往左往している。

 それは小魚だった。銀色の鱗が照明を反射して輝いて見える。種類までは分からないが、水中を泳ぐように空気中を彷徨っていた。

 僕が手を伸ばして捕まえようとすると、するりとかわして祭り櫓下の垂れ幕の隙間に逃げ込んだ。追いかけるように紅白の垂れ幕をめくると、小魚の姿はなく、そこには『2001年宇宙の旅』に出てきた宇宙ステーションのような近未来的なチューブ状の通路があった。

 いくら夢だからと言ってこの設計には無理があるだろう。

 通路は緩やかな上り坂になっており、三メートルほど続いて途切れた。その先からは板張りの長い廊下になっている。古い日本家屋の屋内に入ったようだ。

 そこでようやく人の姿を見た。

 ささくれだった古い廊下には長年人が行き来したことを示唆する傷やシミが付いており、ショッピングモールのフードコートの様に壁伝いに様々な飲食店が並んでいる。カウンターに並ぶ人や、料理を乗せたお盆を持って行きかう人たちでさっきまでの静寂が嘘のように賑わっている。どの人も温泉旅館で着るような浴衣姿だ。ここは宿泊施設なのだろうか。

「いらっしゃいませ」と威勢の良い掛け声、行きかう人たちの楽しげな笑い声。どこか牙城に似た雰囲気だ。

 行きかう人たちの合間を縫うように先に進んだ。カラフルなタイルをはめ込んだ天井は進むにつれて高くなり、そこを小魚の群れがつむじ風の様に渦を描いては吹き抜けてゆく。

 辺りをきょろきょろと見回しながら歩いていると、混雑の中に見慣れた金髪頭を見つけた。

「小坂先輩?」

「んー?」

 髪をひらりとなびかせて振り返ったその人は、やはり小坂先輩出だった。周りの人達と違っていつもと同じような服装で、口いっぱいにイカ焼きを頬張っている。

「こんなところで何やっているんですか!」

 先輩はあわてて口の中身を飲み込んで「よう」と楽しそうに返事を返した。

「お前も来たのか、ちょうどいいや、部屋とってあるからお前も来いよ」

「部屋?」

「宴会だよ、こっちだ」先輩は僕の手を取って走り出した。「走ると危ないですよ」と言ってみたが、先輩は上手い具合に人々の合間を進んでいく。

「大将! 特上寿司三人前よろしく!」

 先輩が叫ぶと「まいど!」と声が返って来た。

「寿司なんて頼んでお金あるんですか?」

「いいんだよ今日くらい。あいつが返ってくるんだから」

「あいつ?」

「そう、あいつだ。また一緒にいられるんだ。お前もきっと気が合うよ、あいつ映画好きだし」

 廊下の突当りには漆喰の壁に沿うように細い階段があり、先輩は楽しそうに一段飛ばしに駆け上がる。手を引かれている僕は転びそうになりながら後に続いた。

 階段を上りきると、そこには広い座敷があった。テニスコート何個分って表現でしか表せないような広い座敷で、ところどころ襖で区切られている。そこを取り囲む板張りの廊下は向うが見えないくらい遠くまで伸びている。

 僕らは八畳ほどの広さに区切られた座敷に座った。先輩が部屋と言っていたのはこのスペースの事だろう。すでに座布団が二枚置かれ、刺身の船盛やぐつぐつと煮える鍋が畳の上へ直に置かれている。

 先輩はオレンジジュースの空き瓶を端に寄せてから「何飲む?」と僕に聞いた。

「先輩と同じやつでいいですよ」

「そう、じゃあとりあえず乾杯な」

 先輩は半畳ほどの畳をくいと持ち上げるとその下から瓶入りのオレンジジュースを取り出し、僕へ差し出した。ほどなくして板前さんが寿司を届けてくれた。

 先輩は慣れた調子で「座布団をもう一枚、それとチョコケーキとチーズフォンデュね」と注文をした。板前さんは「まいど!」と言って階段を下りていく。

「ほい、栓抜き」

「ありがとうございます」

「ふへへ」と先輩は楽しそうに笑った。

「んじゃ、かんぱーい」

「か、乾杯……」

 襖の向こうからも楽しそうな声が聞こえてくる。あっちでも宴会をやっているのだろうか。この座敷はなんなんだろう。どうして先輩はここに?

 開けっ放しの襖から廊下が見える。廊下には窓があり、夜空が見えた。時折涼しい夜風がふわりと吹き込み、入れ違いに小魚の群れが外へ泳いで行き、大きな魚が後を追って出ていく。

 先輩は楽しそうだったが、僕はなんとなく居づらい感じがした。先輩の言う〝あいつ〟という人物が、なんとなく恐ろしい存在に思えて仕方がなかった。

「杉崎さんが連絡してくれって言ってましたよ」

「あー、そっか。しまったなあ」

「連絡した方がいいですよ」

「そうね、後でするよ。お前先に食っていいよ。私はあいつが来てから食べるから」

「さっきから気になっていたんですけど、あいつって誰ですか?」

「ん、なんていうか……知り合い、かな」

 先輩の後ろ、部屋の片隅には五、六本の空き瓶が転がっている。

「どれくらい待っているんですか?」

「けっこう、経ったかも」

「今夜は来ないんじゃないですか。僕たちも帰りましょう、ね?」

 先輩はしばらく黙りこんで「先帰っていいよ」と言った。

「わたし、もう少し待ってみる」

「もう来ませんって、帰りましょう」

「嫌だ。あいつは絶対来る」

「強情張らないで、行きましょう。ね?」

 先輩の手を取ると、すぐにふり払われてしまった。

「あいつは絶対に来るって、私は待ってなきゃいけないんだ」

「ただの知り合いでしょ、そんなに大事なことですか?」

「うるさい!」

 先輩は駄々をこねる子供みたいに泣き始めた。

「泣くことないでしょ。いったい誰を待っているんですか?」

「ムツには関係ない!」

 その言葉を合図に、全ての照明が消え、辺りは真っ暗になった。

 音もなく、気配もない。ただ漠然とした闇が支配している。先輩の名前を呼ぼうとしてもくぐもって、音は口内に響くだけ。まるで暗闇に圧迫されているようだった。手も足も押さえつけられ息苦しい。

 まとわりつく闇を振り切るように体を動かした。やがてバサリと音を立てて闇は僕の周りから引きはがされた。

 その先に待ち受けていたのは、見慣れた部屋であった。

 全力で引きはがした闇の正体は布団であったようだ。またしても訳のわからない夢を見てしまったのだと理解し、心を落ち着けようと今一度部屋を見渡す。

 しかし見れば見るほど現実が離れていく。ここは僕の部屋ではなく、小坂先輩の部屋であった。


 僕は半狂乱で外へ飛び出した。

 外はじりじりと日が照らし、これでもかというくらい蒸し暑かった。アパートの外には誰もおらず、蝉の声だけがこだましている。そこでふと我に返った。

 僕は現状を詳しく知るためにも今一度先輩の部屋に戻ることにした。室内は物音ひとつしない、雨戸が閉めきられているため薄暗い。先輩は留守のようである。

 さっき僕がめちゃくちゃにした布団の枕元には充電器に刺さったままの先輩の携帯電話がある。どうやら置いたままになっているらしい。忘れてどこかに行ったのなら相当なアホだが、先輩の性格なら無いとも限らない。連絡が取れなかったわけだ。

 そうなると、しばらく家には帰っていないということになるけど、どこに行ったのだろうか。まさか本当に携帯を忘れて仕事に行ったのだろうか。

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