8
その晩のこと。
先輩の事が頭から離れず、いつにもまして寝つきが悪かった。
部屋を冷やすクーラーが僕の定めた温度設定に達するたび、一仕事終えたようにフーとため息をつくかのように動作を一時停止する。それから間もなくして再び低い音で唸り冷気を吐き出し始める。時計は確認していなかったので、今が何時で、布団に包まってから何時間経ったかは知らない。ただ、クーラーが吐き出す幾度か目のため息を聞き取ってから、ふと部屋に誰かしらの気配を感じ取り、僕は目を開いた。ひょっとして小坂先輩が来たのではないかと思い、布団に包まる自分の傍らを確認しようとした。したけれど首が動かない。「またか」とうんざりした気分になる。
雨上がりの湿地帯のように底無しにぬかるんだ意識の真ん中、そこ横たわる枯れ木のように体は微動だにしない。金縛りだ。いつもの事だからこのままやり過ごそうと思ったが、無意識に開いた眼はすぐに部屋の異変を映し出した。
部屋の入り口に、見慣れぬ人物が立っているのだ。
ブルーベルベットのドレスに金髪のロングヘアー、真っ赤な口紅で縁取られた唇の口角を上げて微笑む女がそこにいた。そしてその真っ赤な唇で煙草を一口吸うと、ゆっくりと煙を吐く。勝手にタバコ吸ってんじゃねえよと思ったが、声にはならなかった。
その女の横にはもう一人。アロハシャツに短パンのリゾートスタイルでパンチパーマのサル顔の男が、女の立っている真逆の方向にぺこぺこと何度も会釈している。顔が変形しそうなほどの笑顔を浮かべながら「はい、それはもう、おっしゃる通りですよ」など見え透いたおべっかを使っている。どうやらもう一人いるらしい。
もう一人は月明かりの届かない暗がりにいるため闇にまみれてシルエットしか見えない。昔のギャング映画に出てきそうな襟を立てたトレンチコートに中折れ帽を被った風貌で、今にもドラムマガジンのトンプソンマシンガンをぶっぱなしそうな危うい雰囲気が漂っていた。
統一感の無い実に奇妙な三人組だった。
しばらくして、コートの男に愛敬をふりまいていたアロハシャツの男がこちらに歩み寄って来て、僕の顔を覗き込んだ。さっきの笑顔はどこにも見えず、やたらと細い目が僕を睨み付けている。品定めをするように男は僕の顔をしげしげと見まわすと、「仕事、迎えが来る」と言った。
意味が分からなかった。でも男はするりと元の立ち位置に戻り、コートの男に何か報告をしているようだった。暗がりの男は微動だにせず、女はぷかりと煙を吐く。
妙な幻覚だなと思った。やけに鮮明だとも思った。しかし相変わらず意味が分からない。いや意味なんて無いんだろう。結局、夢を見ているに過ぎない。
目を閉じて呪文のように繰り返しそう考えた。妙な夢を見たのだと。
だから本当に迎えが来たときは驚いた。
とは言え、やはり夢の中での話だが。
それから数日後の真夜中のこと。布団にくるまってうとうとしていると、どこからともなく話し声が聞こえてきた。はっと目を開くとベランダから若者たちが五名ほど、どやどやと上がり込んできた。実際こんな事態が起きたらパニックを引き起こすことこの上ないが、そこはやはり夢の中、見るからにウエストサイドストーリーな風貌の彼ら彼女らを見た僕は「ああ、迎えってこいつらの事か」と、なぜか即座に理解できた。
彼らは英語ともフランス語ともスペイン語ともつかぬ奇怪な言葉で会話をしていた。思えば海外の映画を字幕で見ている時、僕はこうして言葉を聞き流しているのではないだろうか思う。そう思えばこそ彼らの統一感のない単語や発音にも納得がいく。何せこれは僕の見ている夢なのだから。
彼らはチューインガムを噛み、所憚らず煙草を吸い、時折リンゴを齧った。そして律儀に玄関から外へ出て、アパートの前に止めてあった車に乗り込んだ。
僕もその後を追い、車に乗り込む。その時ふと「ひょっとして君たち土足で上がり込んだのか?」と思ったが、大事の前の小事だと言葉を飲み込み、大人しく後部のシートに腰かけた。どうせ言ったって伝わらないだろうし、伝わったところで彼らのちぐはぐな言語は僕には理解できない。字幕のありがたみを思い知った。
車の中での彼らは気だるそうにしていた。そしてチューインガムを噛み、煙草を吸い、かっこいいラベルの酒を取り出してぐいっと飲む。僕の隣に座っている女の子は、おそらく年下であろう。顔は幼く、それを覆い隠さんばかりに濃い化粧をしてけばけばしくなっている。彼らはどこから来てどこに向かうのだろうかと考え、後部座席から見る車内の風景は割とよくあるありきたりなシーンだなと思った。
車の外は真っ暗で何も見えなかったが、一定間隔でぼんやりと光る街灯が通り過ぎていくのが見えた。やはりどこかの道を走っているようだった。
夜明け前が一番暗いと言った小坂先輩の事を思い出しながら、仕事とはいったい何をするのだろうかと不安を感じていた。
どれくらい走ったのだろうか、車が停車したのは工場地帯のような場所で、人気はなく街灯も少ない。広い道路と塀がどこまでも無機質に立ち並び、曲線のない風景が続いている。
車から降り、僕が辺りを見渡し呆けていると、リーダー格の男が声をかけてきた。やっぱり言葉は理解できなかったが、どうやら車を乗り付けたこの工場に忍び込むつもりでいるということはわかった。
工場内部に内通者がいるのか、彼らは鍵を持っていて、きっちりと施錠された正門は簡単に開いた。車のトランクから大きな麻袋を取り出し、それを僕に押し付けると、彼らはするりするりと工場へ侵入していく。僕の隣に座っていた女の子は車に寄りかかり、こちらに手を振っていた。見張り役なのだろうか。機械的に左右する彼女の手、催眠術にでもかかりそうな気がして目を逸らし、僕も中へ入った。
この工場はどうやら缶詰の工場らしい。ロコモパインというパイナップルのシロップ漬けの缶詰だ。レトロなデザインのパッケージで誰しもが一度は口にしたであろう歴史ある商品だ。僕も幼いころ食べた記憶がある。
さて、彼らはこの工場で何をしようとしているのか、大きな麻袋を見る限り何かを盗むつもりでいるのは明らかだが、ここは工場だし金塊やら札束などは置いていないだろう。それが目的なら缶詰工場ではなく銀行を襲えばいい。何か特殊な機械とか、もしくはここが取引の現場で、他に仲間がいるのだろうか。
建物裏手の小さな窓の下まで行き着くと、針金のような器具をガラス窓の隙間に差し込み、内側の鍵を外した。そして音が立たぬよう丁寧に窓ガラスをレールから取り外し、そっと足物に置く。周囲はとても静かで、彼らの息づかいが聞こえてきた。これが夢の中の出来事とは知りつつも、妙なリアリティというか、彼らが本当に生きているような感覚に見舞われた。
現実で「これは夢ではないか?」と思うことはあっても、夢の中で「これは現実ではないか?」と思うことはそうないだろう。だからとても奇妙な感じがした。
もしこれが現実だとするなら、僕はとんでもないことに加担してしまったのではないだろうか。そう思ったところで、この仕事は僕の部屋に現れた幻覚に押し付けられた仕事なのだ。やはり現実であるわけがない。しかし、そのことを再度疑わせるほど、彼らの存在は現実的なものであったのだ。
二枚の窓枠を取り外すと、三人がそこによじ登り建物内部へと侵入した。残された僕とリーダーは窓の下で麻袋を開いて待機する。しばらくすると窓から何かが麻袋の中へ放り込まれた。カランカランと金属のぶつかり合う音。まさか本当に金塊かとも思ったがそんな訳がなかった。
彼らが盗み出しているのは缶詰だった。
缶詰を盗むために、缶詰工場に押し入ったのだ。至極当然のことだとは思うけど、いったいどうして缶詰なんか盗むんだ。リーダーに聞いてみたかったが言葉が通じない。疑問をそのままに作業は進み、缶詰でいっぱいになった麻袋を担いで僕らは工場を去り、また何処へと車を走らせた。
目が覚めた時、思わず吹き出してしまった。
何せ夢のラストシーンは盗んだ缶詰を町医者に売りつけるというものだったのだ。わざわざ缶詰を盗んでなんで医者に売るのか。バカバカしくて笑える。医者は禿げた小太りの日本人で、なんでもシロップから抽出される成分が薬の原材料になるのだとか。
僕の想像力も捨てたものではない。
山本さんに面白いことはメモしとくように言われていたのでさっそくこの夢の事を書き残すことにした。「買えばいいのに」と独り言を呟いてまた笑えてきた。
時刻は正午。いつもに比べるとだいぶ早起きだ。インスタントコーヒーを淹れてずるずるとすすっていると、寝ぼけた頭も冴えてくる。そうなるとさっきまでの自分がひどく不気味な作業に没頭していたように思え、書き起こしたメモを読み直した。
箇条書きにされた僕の夢は、やっぱり支離滅裂で何も面白いことなどなかった。
不眠がたたると人は馬鹿になるのだ。
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