夕日に染まる荒川の水面を眺めながら、空気の入れ替えをした。もんやりとした生臭い海風が冷えた室内にゆっくりと入り込む。

 ぬるい体温、ぬるい外気。はっきりしない意識の外にはさらに朦朧とした世界がある。世界の均衡が崩れていくような感じがする退廃的な瞬間。でも壊れ始めたのは世界ではなく、間違いなく僕の頭の方だろう。

 この瞬間を見計らったように友人から電話が入る。「飯でも行かないか?」僕は二つ返事をして、着の身着のまま〝牙城〟へと出向く。


 僕の通う専門学校は創立十年しか経っていないまだ新しい学校なのだが、変り者ばかりが集う学校の歴史は短くとも濃密で奥ゆかしいものだ。

 牙城もその歴史の一編。何期生の先輩たちが作ったかは知らないが、マフィアの抗争を描いた自主製作映画のタイトルが牙城というのだ。

 抗争の中で芽生える愛憎劇、そのシリアスな内容にもかかわらず、駅前の商店街や飲み屋通りで撮影をしたため、激しい銃撃戦の背後で子供たちがカメラ目線で笑っていたり、銃弾に倒れたヒロインの横を自転車に乗ったおばあちゃんが平然と通り過ぎたりと、意図しないものが大量に映り込む結果となった。経験未熟な製作者たちの技術ではこれらをどうすることもできず、また製作期間にも期限があったため撮り直しもきかなかった。「まあどうせ課題だし」と監督が妥協したのでそのままクランクアップになったのだとか。

 上映会では俳優が真面目に演技する悲劇的なシーンで皆笑いをこらえきれず一斉に噴き出してしまったという、ある種の伝説的な作品であり、今でも語り草になっている。

 以降、ロケ地である駅前繁華街を在校生は親しみを込めて牙城と呼んでいる。

 ほんのりとオレンジ色に発行する丸い街灯が連なる飲み屋通りは連日、仕事帰りサラリーマンや近隣の専門学生などで賑わい、お祭りのような様相を呈している。田舎育ちの僕には珍しい光景であったが、さすがにもう見慣れたものだ。

 居酒屋の店先で焼かれる焼き鳥や匂いと煙。口にしたことのないと思しき料理の旨そうな香り、威勢のいい「いらっしゃいませ」という掛け声に、そこかしこから聞こえてくる笑い声が独特の雰囲気を作り出し、街灯が夏祭りの提灯の様に煌々と輝いていた。

 僕らは肩で風を切って歩いた。敵を探すように目を凝らし、どの店にするか、何を食べるか考える。焼き鳥、焼き肉、もんじゃ、沖縄料理。選択肢が多すぎるというのも困ったものだ。僕らは決めかねて通りを一往復し、結果、全員金が無いという結論に至り、飲み屋街の反対側にある。いつものファミレスに行くことにした。

 メニューも開かず僕らは注文をする。だいたい毎回この店の世話になっているので食べる物も決まり切っているのだ。そして二、三時間ここで他愛のないことを話し、その後は誰かの家に移動して映画を見るか、明け方までテレビゲームに興じるか。これがいつものパターン。今日もそうなるのだろうと思っていた。しかし例外の日もある。

 それは誰かしらの知り合いと出会うときだ。ここらの学生はもれなく「牙城」を活用するため、時折他のグループと出会うことがある。それは同期の友達であったり、誰かしらの先輩だったりするのだが、今日は少し違っていた。

「よう」と声をかけてきたのはやけに体格の良い男だった。鍛え上げた二の腕がタンクトップから猛々しく伸びている。そして磨いたように輝くスキンヘッド。長らくこの界隈を闊歩しているが、ついに怖い人と出会ってしまったと思った。

「あっ、青柳さん」

「お疲れ様です!」

 友人たちが嬉しそうに立ち上がり、声をかけた。スキンヘッドの傍らには百物語イベントで見た青柳という人が立っていた。高いとも低いとも言えない身長でごく標準的に見える体格。整ってはいるが特徴のない顔立ち。友人が名前を言わなかったら気付かなかっただろう。

 そしてはたと気が付いた。このスキンヘッドの人もあのイベントで出会っていた。その時は雛鳥のようなふわふわとした髪型をしていたので気付かなかったが、この人は僕が小坂先輩を探してトイレの前で立ち往生しているときに声をかけてくれた人だ。

 思わず「あっ」と声を出すと、「今気づいたのかよ」とスキンヘッドをなでながら人懐っこい笑みを浮かべた。

 二人も夕食を取りに来たらしく、友人たちが青柳さんを引き留めたので相席することになった。聞けば青柳さんは僕らの通う専門学校の卒業生であるらしく、撮影や照明などの技術職、アシスタントディレクターとして現場のスケジュール管理、ロケ地の許可取り、撮影時の車止め、などなど経験に裏打ちされた多彩な才能を武器に様々なる現場仕事を渡り歩いているらしく、同じ道を目指す友人たちからすればヒーローのような存在であるらしかった。

 就職せずに仕事をするというのは僕からすれば不思議な話に聞こえたが、学生のうちに実際の撮影現場に出て仕事をさせてもらう我が校のスタイルを思えば、青柳さんのしていることはその延長のようなものなのだろうと思えた。

 青柳さんはフリーランスを目指しているらしい。本人曰く「今はまだ日雇い労働者ってところだ」だそうだ。それでも友人たちは尊望の眼差しを向けている。

 スキンヘッドの人は山本さんと言い、青柳さんと同期で入学したが、家庭の事情で二年生の時に退学したとのことだった。山本さんは百物語イベントを行った、あのお寺の長男で、家を継ぐため自主退学したのだ。

「親父が癌で入院してな、これは遊んでいる場合じゃないって思ったんだよ」

「え、じゃあ僕らが挨拶した住職さんは?」

「俺の親父」

「へ?」

「医者にもう長くないとか言われていたんだけどさ、癌ってもう不治の病ってわけじゃないのな。ダメ元でやった手術でケロッと治りやがった」

 わははと山本さんが笑う。「仏様の御加護だとか言ってさ」と付け加えてまた笑った。

 山本さんは僕と同じシナリオ専攻だったと言うので、僕は現在抱える創作への不安を相談した。アイデアが思い浮かばない。いいシーンを思いついても書ききることができない。などなど。話し始めたらキリがなかった。

 このやり取りが思いのほか堅苦しかったらしく、友人の一人が僕の不眠症についてちゃちゃを入れてきて話があらぬ方へ流れた。

「山本さんの家はお寺なんですよね。ムツのこと除霊してやってください」

「こいつ悪霊に取り憑かれてるんですよ」

「違う、ただの不眠症だって」

「不眠症なのか?」と山本さん。

「それならいい薬があるよ。手に入ったら分けてやろう」

「本当ですか! ありがとうございます」

 先輩とは素晴らしいものだと改めて思った。今の先輩たちとはこういった付き合いは全くない。授業の時間帯がずれているから会うこともままならないし、僕が仲良くしているのは小坂先輩くらいだ。

 青柳さんは退屈そうに煙草を吸い、僕たちのやり取りを聞いていたが、唐突に「そういえば百物語、君と小坂のおかげで盛り上がったよ」と言った。

「どういうことですか?」

「お前ら途中で抜けただろ? 終わってみたら人数が減っているって大騒ぎ」

 わははと山本さんが笑う。

「そう言えば小坂の彼氏って誰だったんだろうな?」

 山本さんが青柳さんに聞く。

「知らねーよ」と青柳さんがぶっきらぼうに返した。

 この話題はこれで終わらせてほしかったが「小坂先輩に彼氏?」と友人たちがこぞって食いついた。さらに質の悪いことに、俺は全部知っているぞと言わんばかりに山本さんは僕の方を見てにやにやと笑っている。

「いやぁ、それがですね」と僕は面倒事から小坂先輩を守る盾として使われた事実を洗いざらい白状した。

「なんだ付き合ってなかったのか、俺はてっきりそういうことかと思っていたんだがなあ」

「すいません、先輩が急に言い出しまして」

「あいつならやりかねないな。じゃあまだ小坂には彼氏はいないのか」

 山本さんは青柳さんを小突いて「いないってよ」と言う。青柳さんは面倒臭そうに「知らねーよ」と煙草の煙を吐き出しながら言った。

 それからほんの少しだけショッキングなことを聞いた。僕はてっきり青柳さんも小坂先輩に興味があるのだと思っていたが、現実は僕の思うようにはいかない。青柳さんと小坂先輩は以前、限りなく恋人に近い間柄だったのだという。それは青柳さんがまだ学生で三年、小坂先輩が一年生の時。僕が上京する一年前の事だ。

 友人たちがそのことを詳しく聞き出そうとしたが、青柳さんは「うるせぇよ」と制した。よせばいいのに山本さんが面白がって「失恋の傷が癒えてないから、聞かないであげて」と笑う。青柳さんはまた「うるせぇよ」言った。

 結局、二人は恋人になることはなく、小坂先輩の方から別れを告げたのだという。へらへら笑いながら「やっぱムリ」と言う小坂先輩の顔が想像できた。

 そこから話題は小坂先輩の男関係に及んだ。夜な夜な遊び歩いている割に男の影がなく、自宅は男子禁制。レズビアンではないのかという説まであると友人たちは口々に語った。それを聞いた青柳さんはひとしきり笑ってから「あいつは単なる男嫌いだ」と教えてくれた。

「なあんだ」「もったいない」「可愛いのになあ」と友人たちは納得していた。しかしそのうちの一人が「じゃあ青柳さんはどうやってお近づきになったんですか?」と聞いた。至極まっとうな疑問に対し、青柳さんは「超頑張った」と一言だけ返した。

「青柳さんの顔でダメならどうしようもないなと」一同落胆し、小坂先輩は面食いだという結論でこの話は終わり、最近見た映画の話題へ変わった。

 僕はその話題に耳を傾けながら、先輩の事を思い返していた。僕と先輩の事を思い返していた。男嫌いで面食い。そう言われてしまったら僕に立つ瀬はないだろう。でも、本当にそうなのだろうか。そうは思えなかったし、そんなふうには思いたくなかった。とてもそんなふうには思えなかった。

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