13
その晩は雨が降った。夏場には珍しいしとしと降る弱々しい雨だった。きっと天国で誰かが後悔の涙を流しているのだろう。
深夜にもなると気温は下がって少し肌寒いくらい。夏の終わりを宣告するような夜だった。
僕は久しぶりにエアコンに頼らず寝ようと、窓を開けてタオルケットをお腹にかけて布団に横になった。目を閉じて眠りに落ちる瞬間をじっと待っていたが、どうにも雨音が気になって寝付けない。ここ数日は寝つきがよかった分、僕は焦った。じっとりと汗が染みだしてきて布団が熱を持ち始める。
目をぐっと閉じて、真っ暗な世界に宙ぶらりんになる。コーヒーゼリーの上に横になっているようなイメージで、ゆっくりとその中に沈み込んでいく様を想像する。こうすればすぐに眠れるのだと大森に聞いた。
しかしどうにも眠れない。心臓の鼓動さえ邪魔に思えてくる。
暗闇の中で浮き沈みを繰り返していると、すっと意識が黒い幕を破って落下する感じがした。
ふと気づくと、意識は体の内腔にあった。
ゆるんだ瞼がわずかに世界を投影すると、内側にいる僕には天窓が開いたように見えた。
いつか見た三人組の幻影が部屋の隅で話し合いをしている。声を潜めて話す彼らの口元からひゅうと甲高い吐息が漏れている。それは時折子猫の鳴き声にも似た響きがあった。
視線を下に落として周囲を見渡すと、ほの暗い空間が広がっている。自分の体の内側がこんなにがらんどうになっていたとは知らなかった。ちょっとショックだ。もう少しは中身のある人間になったつもりではいたのだが。
天窓からのわずかな明かりでヘソのあたりまでは薄ぼんやりと見渡すことができた。呼吸に合わせて天井が動いているのが見える。それから先は完全な闇。自分の体とは知りつつも、恐ろしくて先に進もうという気にはなれなかった。
暗がりに目が慣れてきたころ、右肩の方がやけに明るいことに気が付いた。どうやら明かりが漏れているようだ。
何者かが僕の断りもなく焚火でもしているのではないか、ここは僕の体内だ、勝手は許さない! とは思いつつ、得体のしれない人物との遭遇はとても恐ろしいので、こっそりと腕のあたりを覗き込んだ。
横穴のような空間が続いている。肘のあたりで曲がっているので先は見えなかったがやはり何かしらの光源があるようだ。
僕は腰を屈めて先に進んだ。行けば行くほど通路が細くなる、自分の腕の細さをこんな形で思い知ることになろうとは。
肘を曲がると、手首から先がどこか別の空間へ続いているのが見えた。明かりはそこから差し込んでいたのだ。
これまでの経験から察するに、この先はまた奇妙な場所に続いているに決まっている。何が起きるか分からないが、脚本のネタが増えるかもしれない。覚悟を決めて、前かがみで手首を通る。
一瞬眩い光に目が眩んだが、ゆっくりと風景が浮かび上がってくる。
ここは恐らく映画館のロビーだろう。古い雑居ビルを改築して無理やり映画館に仕立てたような造りで狭く感じるが、置いてある物を見る限りそう考えて間違いないようだ。
白い壁は煙草のヤニで黄色く汚れて、色あせたポップコーンマシンや旧式の自動販売機が雑然と配置されている。数日前に夢で見たお祭り会場のように人の気配は無く、さっきまで誰か居たような痕跡だけが残っている。
食べかけのポップコーンや溶けかけたアイスクリーム。紙コップのコーヒーからは湯気が立っていて、備え付けの灰皿にはまだ火の消えていないタバコが放置されていた。
ズズズと大音量の低音が微かに足元を震わせる。扉一枚隔てたシアターで、今まさに映画が始まったようだ。
どんな作品が上映されているのか、気になって僕は扉を開き中へ入った。
入ってすぐにスクリーンが目に留まった。何の変哲もないバスの車内の映像が流れている。車載カメラのようなものではなく、後部座席から車内を映しているようだった。時折カメラは窓の外へ向いたりもする。誰かの主観を再現しているようだ。
客席もロビーと同様に誰も座っていないように見える。だがよくよく見渡せば一番端の席に、一人だけ座っている人がいた。
見慣れた金髪頭、小坂先輩だった。
先輩は僕に気づくとハッとした表情を見せたが、風船がしぼむようにいつも通りの仏頂面戻し「なんだムツかよ」とだけ言うと、視線をスクリーンの方へ戻した。
「期待外れですいませんね」
僕は先輩の隣の席に座った。
「彼氏さんを待っていたんですか」
「まあね」と先輩はそっけなく答えた。
「驚かないんですか? 僕が、その、知っている事に」
「これは私の夢だからね。ムツが知っていても驚かないよ。それに、私だってあいつが来ないって事はよく分かってる」
「それなら、どうしていつもその人を待っているんですか? 来ないって分かっているのに」
先輩は深く息を吐いた。
「わかんない。いや、分かってはいるんだけど。認めたくないんだと思う。死んだ恋人なら夢に出てきて当然だと思うんだけどね、わたしは一度もそんな夢見たことないんだ。見るのは決まってあの屋上の夢」
先日見た白昼夢のことを思い出した。学校の屋上から救急車で誰かが搬送だれていくのを見送った。そして、高校生だった先輩が震えながら泣いていたあの夢を。
「忘れたいのに、あの日の事だけが何度も夢に出てくる。あいつは勝手に死んで私の前には一度も現れてくれない」
スクリーンの映像はバスを降りて畑の見える住宅地を進んでいく、カメラの揺れが徒歩であることを表していた。
「正直、怖いんだよ。あいつが何を思って死んだのか。恋人だったのに私には何一つわからない。事故だったのか自殺だったのか、それすらわからない。警察とか先生とか、あいつの両親にも何か知らないかって何度も聞かれたのに、自分でもビックリするくらい、わたしは何も知らなかったんだ」
少し速めの歩調は、前を歩く制服姿の高校生を追い抜いていく、カメラが横へ振られ、民家の軒先にある木陰で寝転がる猫をとらえた。同時に歩みも止まり、猫の大あくびを見届けると再び歩き始めた。
「先輩はどう思うんですか? 事故か、自殺か」
「何度も聞かれたし、何度も考えた。でも、やっぱり私には分かんない。あの日は屋上で映画の撮影をする予定だったんだ。警察は無理な撮影の仕方をして誤って転落したって事にしたけど」
「それなら、やっぱり事故だったんですよ。先輩が責任を感じることじゃないでしょ。それに映画の撮影中に自殺なんてしませんよ」
先輩は高校生の頃、写真部に所属していたと聞く。そして有志で自主制作映画を撮ることになったことがあるらしい。それで今の専門学校へ進路を決めたのだ。僕と同じように、それまで映画なんてまともに見たことはなかったと言っていた。先輩の恋人が亡くなったのは不幸なことにその映画の撮影中の事だった。
僕は自分の高校時代、クラスで協力して映画を撮った時のことを思い出した。今思えば映画だなんて恥ずかしくて言えないくらいお粗末なものだけれど、撮影をしていたあの時間のことは良い思い出になっている。放課後の撮影が楽しみで、クラスメイトの下手な演技に笑ったり、その日に撮った映像を晩くまで友人の家で編集したり、完成が待ち遠しくて仕方なかった。そんな最中に自殺しようなんて考える奴がいるものか。
でも先輩は、首を横に振った。
「全然しゃべらなくて何考えてるか分かんない奴で、そのくせ変なことばっかり思いついて、面白い奴だった。でもそんな無茶する奴じゃない」
「だったらなおさら自殺なんて」
先輩はまた首を振る。その頬に涙が伝う。やがてうつむいて、しくしくと泣き始めた。
「まいったなあ」
スクリーンの映像は、いつの間にか件の学校前に行きついていた。すでに校門前に人だかりができている。数名の教師が両手を広げ、門を塞いでいる。口々に何か言っているが音が聞こえない。
人だかりの中から二人の女子生徒が出てきて、悲壮な面持ちでこちらに駆け寄ってくる。そして一言二言告げると、映像の視点はガクンと低い位置に落ち、暗転した。
これは先輩の主観だ。つまり記憶を辿っている。
「好きだったんですか」
「当たり前だろ」先輩はしゃくり上げながら言う「大好きだったよ。あんなに人を好きになれるなんて思わなかった。こんな幸せなことがあるなんて思わなかった」
先輩は両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
痛々しくてとても見ていられなかった。ずっとこんな気持ちを隠して、日々を過ごしていたんだろうか。忘れたくても忘れられない瞬間が夢としてフラッシュバックして、耐えがたい気持ちに駆られ、藁にもすがる気持ちで僕に助けを求めたのか。そう思うと、僕までどうしようもなく悲しい気持ちになってきた。
「そんなに泣かないで下さいよ。先輩らしくないですって。もっと楽しいこと考えましょう。せっかく夢を見ているんだから」
そう言いながら、気づくと僕も泣いていた。
「ごめん、ごめんねムツ……」
「謝らないで下さいよ。悲しいじゃないですか。もっと、いつもみたいに楽しく……」
山本さんの「異常だよ」という声が聞こえた気がした。
変貌していく小坂先輩の様子を見守ってきた山本さんが言っていた言葉だ。やっぱりその通りだ。先輩はずっと変わろうと努めてきたんだ。無理やりにでも自分を変えて、過去を断ち切ろうとしていた。
でも過去は決して変わらない。どんなに努力をしてみても結局ダメだったんだ。
「わたし怖いよ。あいつは私を恨んでいるかもしれない。私が気づいてあげればあいつは死なずに済んだかもしれない。あの日だって私が、もっと早く学校に行っていれば事故は起きなかったかもしれない」
「そんなこと言ったって過去は変わりませんよ」
「分かってる、だからあいつに会いに行こうって思ったんだ。でもやっぱり怖くて、待っている事しかできなくて」
「会わなくていいです、このままでいいです。また怖い夢を見て先輩が鼻垂らして泣いていたら、僕が一緒にいますから」
真っ暗だったスクリーンに再び光が戻った。映し出されたのは見覚えのある屋上の風景。欄干の縁に、男子生徒が立っている。
「嫌だ! やめて!」
先輩はうずくまり、頭を抱えながら叫んだ。
その声に反応するように、スクリーンの向こうにいる男子生徒はこちらに振り向く。その人の顔は、僕だった。似ているとかじゃない、これは僕だ。
これが先輩の夢なら、人物のイメージが重なり始めたということなのか?
色素を含んだ生ぬるい風が僕の体をなぞると、着ていたTシャツが学生服のブレザーに変わっていく。傍でうずくまる先輩の金髪がにょきにょきと伸びながら黒く染まっていく。
場面転換。この言葉が脳裏を過ると同時に、シアター全体が大きく揺れ始めた。壁や天井にひびが入り、大きな音を立てて崩れ始める。しかし瓦礫は重力を無視するかのように上へ吸い寄せ垂れていく。そして大きな風の渦に巻き込まれ、粒子状に消散していった。
まるで一瞬の喧騒だった。
強風に閉じた目を開くと、天井の無くなった僕の頭上には星空が広がっていた。目の前にスクリーンはなく、真っ黒な、夜の海が広がっている。
僕は臨海公園の砂浜に立っていた。いつしか先輩がここで「朝日が見たい」と言っていたことを思い出したが、それが現実の出来事か夢の中のことだったかよく思い出せなくなっていた。
これは夢なのか、それとも寝ているうちに臨海公園まで歩いてきてしまったのか。僕はじっとその場に立ち尽くした。
夜が明けるのか、夢から覚めるのか、どちらが先かは分からないけど、どちらも同じようなことのように思えた。
小坂先輩はどうしているだろうか。きっと怖い夢を見て飛び起きているはずだ。そして現実の世界でしくしくと泣いている。先輩は今、どこにいるのだろうか。
夢が覚めることはなかった。極々当たり前のように太陽が昇ったのだ。
雲間に紛れて水平線の向こうからオレンジ色の光が世界を照らす。空が色を取り戻し海が鏡のように光を反射させる。世界の歯車が噛み合って今日という時間が動き始める。何億回と繰り返されるこの瞬間に、目が眩んで頭がくらくらした。
歩いていても足が地面を捉えることが困難に思えて、僕は時折立ち止った。その度に辺りを見渡して確認する。青葉が風に揺れる様、朝刊を配る新聞屋のバイク。今まさに鳴き始めようとするセミの第一声。これが現実である確証が欲しかった。でも、全てはあまりにも平然としており、それが逆に疑わしく思えた。
これも夢ではないのか?
どうやって家に帰ったかは覚えていない。気が付くと靴を履いたまま玄関に横たわっていた。臨海公園から歩いて帰ってきたのか、それとも、全部僕の夢で、靴を履いたままその辺を歩き回っていたのだろうか。
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