5
十センチほど間隔を空けて僕らは一つの布団に横になっている。
先輩は僕に背を向けているから、寝ているかどうかはわからない。風呂から上がってもまだぐじぐじと泣いていて、ようやく静かになったところだ。何があったのかは聞かないでおいた。
思えばずいぶんと仲良くなったものだと感心するけど、この十センチばかりの間隔が僕ら二人の限界地点。これ以上は近づくことはできない。なぜかはわからないけど、そうしたほうがいいと思った。こうして同じ布団に寝ていてもこの距離が最前線。言葉では言い表せない壁みたいなものがある。
先輩は時折こうして夜中泣き出すことが多々あった。深夜に急に呼び出された事もある。その時も何があったのかは聞いていない。でもその何かが、壁の正体なのだろう。
目を閉じでどうにか眠ろうと試みるがさっぱり眠くない。このまま朝まで起きていられそうだ。それも悪くない気がした。
この時間、空間はなんとも妙だ。心地が良いとも悪いともつかない。先輩が一番近くにいる貴重な時間。普段は猫みたいに予測できない行動原理で風船のように飛んでいってしまいそうな人が、今こうして横で寝ているのだ。それは先輩が望んだ事であり、僕が望んだ事でもある。
ようやく眠りの淵に足が届きそうな頃合いに、運悪く僕の鼻先に何かが触れた。こそばゆくて鼻がむずむずした。次に、唇に何かが触れた。
はっとして目を開けると、先輩と目が合った。先輩はたいそう驚いた顔をしていたが、それはお互い様だ。驚いた顔は見る見る曇り、ぼろぼろと涙がこぼれ出す。何がそんなに悲しいのか、僕にはわからない。顔を突っ伏して寝る先輩の頭を撫でているうちに、僕は眠りに落ちた。
そんなことがあったせいか、その晩は変な夢を見た。
僕は先輩と薄暗い砂浜にいるのだ。おそらく去年の夏に先輩と近隣にある臨海公園に行った時の記憶がフラッシュバックしたのだろう。
灰色の波が打ち寄せる味気ない砂浜に三脚を立てて、先輩が買ったデジタル一眼の試し撮りをしたのだ。僕は三脚にカメラをセットして、何を撮ろうかと思案している先輩の後姿を隠し撮りした。最初の一枚が持ち主の後姿とは何とも風情があるじゃないか。そう思ったんだ。
その時と同様に、夢の中でも僕は先輩の後姿をフレームに収めようとしていた。でも、いくらボタンを押してもシャッターは下りない。そうしている間に先輩は振り返り「朝日を撮りたい」と言い出した。僕は了承して夜明けを待とうとするのだが、空は灰色に曇り、辺りは薄暗く時間さえはっきりとしない。
先輩は波打ち際を歩き、立ち止まり、また歩き出す。そしてこちらを振り返ってはにこりと楽しげに笑うのだ。
僕はいつ夜が明けてもいいようにカメラを構えるが、空に変化はなく、ただ真っ暗な夜空に数えるほどのわずかな星が光っている。先輩はまた歩いては止まり、その合間に何度も空を見上げた。
「大昔の人は星を穴だって思っていたらしいよ」
「穴、ですか?」
「そう、夜ってのは空いっぱいに真っ黒な布がかぶせてある状態で、星はその布に空いた穴なんだって。面白いよな」
先輩は僕に笑顔を向けて、また歩き始めた。
「あまり遠くに行かないで下さい」と言おうとしたけれど、なぜか言い出せなかった。
三脚からカメラを外して、眼前に構えた。先輩の姿を写真に収めようとしたが、辺りが暗すぎて上手くピントを合わせることができない。やがて闇が一層濃くなり、離れていく先輩の姿を肉眼でとらえることすらできなくなってきた。僕は焦った。フラッシュを焚けば撮れるかもしれないと思ったが、手元のカメラすら闇に飲まれ見ることができない。
目の前が真っ暗だ。
どうして上手くできないのか、原因はすぐに分かった。
僕が目を閉じているからだ。
目を開くと先輩の部屋だった。
青白い光が窓から差し込んでいる。「先輩、夜明けですよ。カメラを」とつぶやいて、あれは夢だったのだと思い返した。
早朝に目が覚めることはよくある。これは早朝覚醒という不眠症によく見られる症状だということだ。
僕は遊びと生活費以外での出費を良しとしないので、病院には一度行ったきりだ。処方箋をもらったが、薬を買わなかった。でも、そろそろ本格的な治療が必要なのかもしれない。
しばらくじっと息を潜め、先輩の寝息に耳を傾けていた。ゆっくりと意識が戻りくる中で、僕は一切の期待を捨てて先輩の方へ視線を投げた。
先輩は僕に背を向け、すやすやと眠っている。どうやら今夜も壁は取り払われなかったようだ。しばし呆然とし、やがて僕は物音をたてないように、こっそりと先輩の部屋を抜け出した。
外に出ると入り組んだ路地裏から空を眺めた。淡い水色をした夜明けの空は美しく、雲一つ見受けられない純真さだ。上京して初めて知った朝の素晴らしさ。これからきっと何か特別なことが起きるのかもしれない。あの日に見た朝焼けの美しさにそんな期待を抱いて早一年。何も起きてはいない。
さらに言えば、僕はこれから家に戻って寝なおすのだ。目が覚めたらきっと夕方だろう。こんな日々に何一つ期待してはいけない。
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