第二話 親の偶像

 幸いにも、その日は朝から食事が取れた。

 食材のすべて焼け残った村から調達するため、種類は限られている。選り好みする自由こそないが、死んだ家畜どもの残骸なら、まだ方々に転がっている。ここを訪れた当初こそその腐臭には鼻を塞いだものだったが、今ではさして気にもならず、食肉が焼ける香ばしい臭いだけを都合よく嗅ぎ分けて楽めるようになった。

 人の持つ順応性とは、実に浅ましくもたくましいものだ。ただ食の欲求が満たされただけで、ガイスはこの死の蔓延する村に、こうも居心地の良さすら感じ始めているのだから。

 どんな悲劇も例外ではない。

 大抵の事なら、二度目で慣れる。

「フフ、それは何の真似だ? クレイゾール」

 だが──この胃の苦しさだけは違った。

 日に一度か二度の粗末な食事で飢えを凌ぐ彼らにとって、昨晩と今朝のそれは、いささか量が多すぎた。縮みきった胃は驚き、過剰な内容物を戻そうとするが、ガイスは頑としてその生理衝動に従わなかった。

 食える時に食う。それがこの土地を生きる者の鉄則だ。

 むしろ満腹で死ねるというのなら、それほど贅沢な死に様もないだろう。

「そんな剣の振り方で人が殺せると思うのか?」

 だからガイスは大きく膨らんだ胃を横たえるように灰色の大地に寝転がっていた。

 まだ苦しくはあるが、空腹で眩暈がするよりはよほどマシだ。いつもより声にも棘がない。

 彼の前にはいま、ガイスの剣を構えたクレイゾールの姿があった。

 しかしこれがあのクレイゾールかと疑いたくもなるほど、その姿は健気で純粋だった。ただ剣を構え、振りかぶり、それを振り下ろす事だけに懸命で、見ていて飽きる事がない。しかしどうにも覚束ないその仕草に、思わずガイスは笑ってしまう。

 ――

 ぎょっとして目を見開く。

 驚いた。これほど素直に笑えたのは、一体いつぶりだろう。

 自分はまだ、笑えたらしい。

 こんなにも些細な事で、意識する事なく。

「何度も言わせるなよ。剣先を地面に付けるな。腕は胸の高さで止めろ」

 どこか腹の奥の方で、久方ぶりに感じる温かい疼き。ガイスはそれを心地よいと感じていた。

 穏やかな日のまどろみにも似た、時の流れに浮いているような感覚。何年も強張っていた顔の筋肉が徐々に緩み、自然な表情がガイスの顔に甦ってくる。

 ああ――笑うという事はきっと、こういう事だ。

 それは意識して作るものではなく、おのずからこぼれ出してくるもの。

 忘れかけていた日常の姿に、新鮮な驚きが隠せない。

「は……は……ッ」

 だが少年に関しては、ガイスほど穏やかな時の中にいるわけではなかった。

 襲い来る波のような疲労。どれほど息を吸っても肺が満たされない。すでにガイスの声もクレイゾールの耳には届いておらず、自らの呼吸だけが頭の中で反響を繰り返している。

 クレイゾールは、何も考えていなかった。

 ただ剣を振って、振り下ろし、それを肩の位置で止める。

 その行為だけを朦朧とする脳裏に思い描いている。

「……う……ッ」

 しかしどうしても肩の位置で剣を止める事が出来ない。

 どうにか堪えようと力を込めるが、背丈の三分の二ほどもあるガイスの剣は少年の細腕で支えきれるものではなく、さくりと音を立ててまたも地面に突き刺さった。

 不意に気が抜けて、少年の身体からどっと力が抜けた。もう一度剣を引き抜こうと試みるクレイゾールだったが、その身体にはもう剣を引き抜くだけの力も残されてはいなかった。

「そこに何かを植えるつもりなのか?」

 ガイスの愉快そうな声が少年の耳に届いた。

 いかにも笑いを噛み殺すような、意地の悪さを含んだ声。

 やはり少年からの返答はなかった。クレイゾールの口は呼吸器としての役割を果たす事だけに精一杯で、何かを話せるような状態ではなくなっていたから。

 それは一度目の素振りからしてその調子だった。

 クレイゾールの顔は一度剣を振り上げただけで真っ赤に染まり、ともすれば目の前の視界さえ暗転した。そのまま意識が飛ばなかっただけでも幸いだろう。クレイゾールの身体はそれほどに貧弱だった。

 発達を忘れた小枝のような身体は、鳥さえ止まれぬほどに痩せ衰えている。

 やがて最後の握力も失ったのか、突き刺さった剣の柄から、クレイゾールの指がするりと離れた。

 荒い呼吸を繰り返すクレイゾールは、ぶるぶると震える二つの掌を不思議そうに眺めている。

「お前は剣を握るよりも、農具でも握っていた方がいい。そう考えれば、まだマシな結果だ」

 随分と耕された地面を一瞥し、皮肉たっぷりの笑みを浮かべるガイス。

 この劣悪な土地で育つ作物がどれほどあるかは知らないが、自分が種の一つでも持っていればそこに蒔いてやりたくなるほど、それは上々の出来栄えだった。剣でここまで地面を耕せるとは、クレイゾールもなかなかやる。

 しかしこの結果はガイスにとって、見るまでもない結末だった。

 昨夜、クレイゾールが剣を握った時の様子が脳裏に甦る。

 あの時もそうだ。クレイゾールの腕と剣とを見比べた場合、何しろ後者の方が三倍以上も幅がある。出来て引きずるまでだろう。その重量を保持する事は出来まい。

 けれど昨夜の一件を考えれば、一度はそうさせてやってもいい。そう思えたからこそ、ガイスはクレイゾールに稽古の機会を与えていた。

 ──そう。これはあのクレイゾールが、強く望んでした事だ。

 これまで何を考えているのかさえも分からなかったクレイゾールが、自ら意思を示した道。ならばその結果がどうであろうと、それを受け止めるのも本人だ。自分に剣が振れぬと分かったとしても文句はないだろう。

 それにガイスは「殺し方くらいなら教えてやる」とは言ったが、剣を教えるとは言っていない。人間は万能ではなく、個人には向き不向きというものがある。酷なようだが、クレイゾールはその結果を認めるしかない。

 剣は悪戯に遊ぶための代物ではないのだ。

 剣とは、最も至近で相手と打ち合うための武器であり、それを扱う上ではどんな油断も許されない。敵と向き合ってなお怯む事のない勇気と、相手の動きを読み、僅かな隙をも見逃さぬ繊細さ。そして重く、分厚い鉄の段平を振り回す腕力が揃わなければ、剣を扱う事など出来はしない。

 果たして少年にその勇気と繊細さがあったとしても、最後の部分が圧倒的に欠落している。

 つまりクレイゾールに、剣は無理なのだ。

 体格的な問題がはじめからその結果を示している。

 だからクレイゾールにはそのうち、その貧相な身体に見合う小さな弓でも作ってやるつもりだった。それならば非力な少年にも、訓練次第で扱えるようになるはずだ。

 もちろん、小振りな弓でも人を殺す事は可能だ。矢に毒を仕込むだけで、わずかな切り傷が致命傷となる。違うのは、それが直接的であるか間接的であるかの部分だけで、クレイゾールの目的自体は十分果たせるものとなるだろう。

「諦めろ、クレイゾール。やはりお前に剣は向かんのだ。体力が乏しすぎる」

 ガイスはその場からのっそり立ち上がり、有無を言わさぬ口調で少年に歩み寄っていった。クレイゾールはまだ自分の両手をしげしげと眺めていたが、言うが早いがガイスは剣を引き抜き、それを自らの鞘へ収めてしまう。

 するとその時になってようやく剣を取り上げられたと理解出来たのか、クレイゾールは悔しそうにガイスの腹を何度も叩いた。

 返してくれ、それは自分のものだ、と言っているのだろうか。

「勘違いするな。これはお前の剣ではない」

 しかしガイスは、にべもなくそう告げた。

 この獲物は、何度となく死線を共にしてきたガイスの愛剣だ。今ではすっかり手にも馴染んだものだし、扱い方のくせというものも熟知している。

 とはいえ、それは現在の所有者がガイスだというだけの話で、元を辿れば、その所有者は別にいた。

 ギルディアに生きる人々の生活水準は低く、その日を生きる糧さえ運否天賦という有り様だ。当然そんな彼らが所持出来る道具というものは、小さな獲物を獲るための罠や、痩せ細った土地を耕す農具程度なもので、剣などという武器はどこを探して見つかるものではなかった。仮にあったとしても、大した役にも立たないだろう。

 だからこの剣は、見つけようとして見つけたものではない。

 過去に偶然立ち寄った廃村で、手持ち無沙汰にガイスが拾った杖のようなもの──ちょうど使い勝手が良かったことから、以来それを武器として用立てているだけのものだ。

 聖戦によって何もかもが滅び去った村で、騎士の戯れか木に縛られ、何本もの剣を突き立てられた男の、野鳥の啄ばみと腐乱によって穴だらけになった身体から引き抜いた、だ。

 金色に輝く剣の鍔には、エクセリアの国章がはえばえと刻まれている。

 上下非対称に、赤と黒とで十字に分割された大きな盾の紋様には、力の象徴を示す両刃の剣と、深い知恵を示す賢者の杖。未来永劫約束されたエクセリアの繁栄を告げる月と太陽を示す意匠が刻まれており、エクセリアの民が信仰する女神カデスがその盾を慈しむように抱えている。

 豊かな贅を尽くした、ため息の出るような剣の装飾だ。

 そして剣の柄にはエクセリアの誇る二大騎士団の一つ〈聖〉を示す三剣の装飾と、それを称える女神からの祝福の言葉が彫られている。

 ──騎士の誇りと、神の恩恵を、この剣を振るうすべての者に。

 残念ながらその祝福は、ガイスには当てはまりそうもない。

 無残な同胞の屍に突き立てられた、あまりにも煌びやかな装飾を誇る剣。それがこの旅の中でガイスが長年連れ添った、唯一の相棒である剣だった。

(必要だから、使うまでだ。あの退屈な馬と同じようにな)

 興味もなさそうに剣の鞘を一瞥し、フンと鼻を鳴らすガイス。

 出自はともかく、この剣はまだあった方がいい。生きるためには欠かせない道具だ。

 特にこの土地に群生する蛮族ゴブリンと呼ばれる魔物の集団は、多勢に無勢と見るや一斉に襲い掛かってくるので、ガイスはそのたびに剣の助けを得た。いかに相手が貧弱な小鬼でも、こちらが丸腰では脅威の度合いはまるで違う。

 しかしガイスがそうした剣の扱いを誰かに乞うたのかと言えば、答えは否だ。あくまで魔物に襲われた際、自衛の手段として剣を振るっているうち、勝手に身体が覚えていたに過ぎない。

 けれど皮肉なのは、そんな我流の男がエクセリアの剣を用い、よりにもよって聖戦孤児に稽古の真似事などしている事だろう。他ならぬエクセリアによってすべてを奪われた少年に剣を教えるにあたり、これほど忌まわしい道具もあるまい。

 眼下で剣を欲しがるクレイゾールが不意に痛ましく思え、ガイスは自らを取り巻く環境に掠れた笑みを漏らさずにはいられなかった。

 そもそも、自分がこんな剣を愛用としている事が皮肉の始まりなのだ。

 しかし、是正する気も起こらない。こういった皮肉さえくだらん感傷だ。

 この世界にはどこを見渡しても、こんな悲劇ばかりが転がっている。それも見飽きるほどに。

 旅をすればこの土地の事も少しは分かるだろうと、わずかな希望を胸に各地を回っていた頃もあった。きっとこの世界のどこかには、エクセリアの手も届かない場所があるのだと、愚かな放浪を続けた時も。

 けれど、どこも一緒だった。

 どこへ足を運ぼうとも、飢えと貧困は死を引き連れて、どこまでも身に付き纏ってきた。決して終わる事のないエクセリアの迫害と同じだ。

 それはどこまででも追ってくる。

 どこへ逃げても、空を覆う暗雲とギルディアの風景はみな一様だった。

 この忌々しい灰色の世界は、どこまでもどこまでも、ただ馬鹿になるほど先まで続いている。果たして希望という色が何色なのかは知らないが、少なくともこの灰色ではないだろう。

 この世界に、希望の光はないのだ。

「……そうだな。ならばこれをくれてやろう」

 なお衣服に付き纏うクレイゾールをそろそろ面倒に感じ始めてきた頃、ガイスは不意にそう口を開いた。

「これならば、いかにお前でも扱えるはずだ」

 そしてローブの内側へ手を入れると、そこから何かを取り出す。

 それは小さな鞘に納まった、丁度少年の手にも納まるくらいの短剣だった。

 さすがに剣として見た場合、先程の剣と比べると、ずいぶん見劣りするのは間違いない。装飾はどちらも遜色ないが、こちらはより観賞用に作られた代物だ。あくまで短剣という括りではあるので、それなりの刃は付いているものの、とても実践向きとは言い難い。せいぜい木を削るくらいの用途だろう。

 だからそれは、本当にただの気休めだった。

 かまってくれと尻尾を振る犬に投げる、棒切れのようなもの。

 けれどそれは少年にとって、思いがけないガイスからの提案だった。剣を取り上げられ、鼻息を荒くしていたクレイゾールの表情が見る間に変化してゆく。

 さすがに昨日の今日だ、クレイゾールがそうそう言葉を話すようになったわけではないが、ガイスはそんな少年の表情の変化に驚きを隠せなかった。

 こうして目に見える表情の変化を見たのは、これが初めてかもしれない。クレイゾールは今朝も無言で、淡々とガイスの言う鍛錬に従っていたから。

 だのに――この表情ときたらどうだ。

 目を見開き、幻を見るようにガイスの手の中の輝きに食らいついている。

 不意にガイスの中で、つまらない悪戯心が好奇の首をもたげたのはその時だった。

 元よりその短剣にガイスがもったいぶるほどの価値はない。しかしクレイゾールの反応があまりに顕著であったのと、続くその反応見たさで、やれ鼻先で剣をちらつかせては、それを追いかける少年の顔つきを楽しんでしまう。

 しかしガイスの隙をみて、さっと手を伸ばそうとするクレイゾールを弄ぶうち、言い知れぬ罪悪感もまたその胸に湧いた。

 ──クレイゾールは、この剣の正体が分かっているのかと。

 知るはずもあるまい。ただ剣の美しい輝きに見とれているだけだ。

 この剣の出所だとて、先のそれとどれほども変わらない。違いと言えば、腐乱した男の死体か、あるいは首元を裂かれた女の死体かくらいの差だろう。結局は同胞の亡骸から引き抜いたエクセリアの剣だ。

 自分はそんなエクセリアの剣をぶら下げて、聖戦孤児を弄し、楽しんでいる。

 目の前の壊れた少年が何一つ察せられないのをいい事に、その顔に薄ら笑いさえ浮かべながら。

 やがてガイスは、クレイゾールをからかう事をやめていた。

 そして手に持った短剣を、少年の眼前へ愛想もなく放る。

 それは少しばかり唐突で、乱暴であったかもしれない。鞘はクレイゾールの額に当たり、ごつりと小さくない音を立てた。しかしクレイゾールは目を細めただけで、痛いとも言わなかった。ただ取り落とした短剣を拾うべく、いやに背骨の浮いた背中を見せて地べたに丸くなっている。

 ──愚かな子供だ。

 このままガイスがその頭を踏んでも、クレイゾールは気にもしないだろう。

(お前を狂わせた聖戦の遺物に、なにを喜ぶ)

 クレイゾールのそうしたありようが、相反してガイスの表情を曇らせていた。

 わあわあと声をあげて喜ぶわけではないが、薄く横に広がった唇は、紛れもなく彼の感情によるものだ。それきりクレイゾールはガイスなどに見向きもせず、ただその剣の装飾に見とれていたが──果たしてであるという事実に、いつか気付く時は来るのだろうか。

 穢れとしてこの土地に打ち捨てられた剣が一つあるごとに、どういった対価が支払われたのか、考える日は来るのだろうか。

 つまらぬ感傷を自覚して、ガイスは頭を振った。

(……どうでもよい事だ。道具は道具、使ってやればそれでよい)

 道具に貴賎を求めるなど、道楽のする事だ。

 それきり興味もないという風に、足元の少年から目を背けるガイス。

 あるいは己が行為から、ガイスはその目を逸らしたかったのかもしれない。

「あり──が……とう」

 だからガイスは、それが何の言葉か、すぐには理解する事が出来なかった。

 意味を解せなかったわけではない。そのを解せず、何故この瞬間、自分にそんな言葉が向けられるのか、それどころかその言葉の出所さえ、にわかには信じられないものがあった。

 それがまさか──クレイゾールだなどと。

 昨日までガイスの名さえ口にしなかったこの少年が、礼の言葉を口にしたのだ。

 聞き間違いなどではない。消え入りそうな声で、けれどもはっきりと「ありがとう」と言った。

 エクセリアの剣などをくれてやったこの自分に。

 おぼろげな理性の隙間から。

 と。

 言い知れぬむかつきが胸にこみ上げて、ガイスは少しだけ頬を紅潮させていた。

 その短剣でクレイゾールを弄ぶ様子が脳裏によみがえる。

 それはこの上なく愚かな行為だったはずだ。そんな言葉をかけられる資格は、自分にはない。そもそもガイス自身、それは棒切れを放る感覚でやったに過ぎない物だ。クレイゾールが思いのほか剣に執着するから、それが邪魔だと思ってくれてやった。礼を言われる筋合いなど、どこにもない。

 だからこそ――のだ。

 この無知な少年は、それをガイスがこさえたものだとでも思っているのだろうか。

 ガイスは苦々しく下唇を噛むと、乱れたローブを正す拍子に身を翻した。

 衣服についた砂を払いながら、愛想なく言葉を吐き捨てる。

「礼など要らん」

 このまま少年を視界に留めないよう、身支度を整えるつもりだった。

 寝床から空の荷袋を二つ拾い上げ、一つを少年の方に放る。縄で繋がれた馬には、昨夜汲んでおいた桶の水を小振りの樽にあけ、同じくそれを放った。水音が鳴り、飛沫が顔にかかった馬からひひんと抗議の声が上がるが、当面口にするものがそれしかないと分かると、馬は渋々と水を飲み始める。

「遊びは終わりだ。日がある内に、やっておかねばならん事がある」

 そう、これから始まるのは、何の事はない色褪せた日常。

 ここ数日繰り返された、肉の調達と物漁りだ。

 余計な事など何も考えず、黙々と廃墟と化した村を回る。そうして作業に没頭していれば、次第に心は何も感じなくなってくる。あるいはガイスにとって心など、はじめから必要ないものなのかもしれない。何しろちっぽけな良心の疼きから顔を背けたその先が、この唾棄すべき日常なのだから。

 心はふとした温もりを求める一方で、慣れ親しんだ悲劇にこそ安堵を覚えている。

(――ありがとう、など)

 あまりにも救いのない子供だった。

 自分がただの慰み物として拾われた事も知らずに。

 いま手にしているその剣の正体を、露ほども分からずに。

「お前はあちら側を見て来い。夕暮れまで村を物色する」

 感情を押し殺した声でガイスは方向を指し示し、自分は反対へ歩き出した。

 この心が枯れた平静を取り戻すまで、今はクレイゾールと距離を置きたかった。

 それにルザルまでの道程で、旅に必要な荷物がずいぶん減ったのも事実だった。ルザルはこれまで見たどの村よりも大きく、物資の補充についてはまったく問題ないが、くまなく物色して回るにはあと数日はかかるだろう。無駄に日数を費やすよりも、手早く次の出立の準備を整えておくに越した事はない。

 それに、物資の調達は手間のかかる作業だが、内容としては極めて単純だ。廃屋から使えそうなものを見つけ、手持ちの皮袋に詰めて持ち帰ってくればよい。当たり外れは是非もないが、クレイゾールにも十分その仕事は任せられるし、その間は一人になれる──。

「────────ッ」

 だがガイスの思考は、そこで停止した。

 音もなくガイスの手を握った。

 全身が凍りつき、うめき声にも似た呼気が喉の奥で詰まる。

 恐る恐るそちらを見れば、そこにいたのはクレイゾールだった。

 使い古した荷袋をずるずると引きずって、ぴったりとガイスの隣りをついて来る。反射的に怖気を覚え、ガイスはその手を振り解いていた。その勢いに投げ出されるような格好で、ざざあと砂煙を上げて少年が地面に倒れこむ。

 クレイゾールは少し驚いたような目でガイスを見上げていたが──やはり、何も言ってはこなかった。

 ガイスの胸に、かあっと熱い何かがこみ上げてきた。

 あたり構わず怒鳴り散らしたい衝動に駆られてしまう。

「……クレイゾール。何故、この手を握る」

 ああしてクレイゾールがガイスの手を取るなど、想像も出来ない事だった。ガイスの方からクレイゾールの手を引いて歩いてやった事もない。クレイゾールはただふらふらとガイスの後をついてきたし、そこまで世話をしてやる理由もなかった。

 ゆえにこのクレイゾールの行動には、大いに驚かされた。

 それこそ、心の臓が止まるほどに。

 だがああして音もなく手を取られたのでは、ガイスでなくとも驚くだろう。言い知れぬ不快感にガイスの声も鋭くなり、問い詰めるその声には明確な拒絶の意思さえ滲んでいた。

 クレイゾールはそんなガイスに何を感じたのか、よろりその場に立ち上がると、自ら背を向けた。そして口を閉ざしたまま、亡霊のような足取りでガイスとは別方向へ歩いてゆこうとする。

 ガイスの鼓動が早くなり、不意に胸が掻き毟られた。

(何を怯えているのだ、あんな子供に対して──!)

 クレイゾールに対して苛立ちを募らせているのではない。

 それは他ならぬ自分への、ひどくもやついた、どうしようもない苛立ちだった。

 ああしてクレイゾールが手を握ったからといって、だからどうなのだ? 驚きはしたが、何の問題がある? それ以上の意味も理由もあるはずがない。

 歯痒い葛藤が胸を焦がし、知らずガイスはクレイゾールへとその足を向けていた。去りゆくその背中を睨みつけ、ずんずんと大股で距離を詰めてゆく。

 間もなくガイスは肩甲骨の浮き出た小さな背中に手が届く距離までくると、えらく骨張ったクレイゾールの腕を掴んだ。

 ところが、骨張って見えてはいてもそれが想像以上に骨だけの感触しかなかったので、ガイスは驚いて掴む力を弱めた。でなければ誤ってそれを砕いてしまいそうなほど、彼の腕は弱々しかったから。

 クレイゾールは少し怯えたような表情で、ガイスを見上げていた。

「……手を出せ、クレイゾール。途中までは、共に行く」

 言いながら、その返答を待たずにクレイゾールの手を取った。

 そう、たかが手を握られただけだ。

 クレイゾールも目の前にガイスの手があったから、無意識に触れただけかも知れない。勘ぐる意味など何もない。ましてそれを振りほどく理由も、クレイゾールを突っぱねる必要も。最初から──こうしていればよかったのだ。

 だが一方でガイスは、また一つの本心を、己の中に垣間見たような気もしていた。

 自分がクレイゾールと旅する事に人としての気休めを求める反面、自分はある一つの事柄を強烈に恐れている。そしてクレイゾールに手を握られた瞬間──それは恐れから確信へと変わった。

 自分はこの少年に、

 親喰いの少年。

 ゆえにこちらから歩み寄りもしたが、それが近づきすぎると、ひどく冷淡に突き放す事もあった。

 クレイゾールを求めつつも、あの時の恐怖を思い出すたびに、自分はクレイゾールを汚らわしく思い、それを遠ざけていた。

 自分もきっと、あの生首のような最期を迎えるのではないか。いつの日か、このクレイゾールに取り殺されるのではないか──そうした恐怖に、いつでも心を竦ませながら。

 呆れるほどに臆病で、情けない人間だ。

 そんなありもしない妄想に怯え、それでいて情だけは年端も行かぬ少年に求めているのだから。

 自分からは一体何を差し出した?

 手を出しては引いてを繰り返し、最後にくれてやったのはエクセリアの短剣だ。あそこまで心を壊されたクレイゾールが唯一にして求めた親の偶像さえ、馬鹿げた杞憂に怯え、与えてはやらぬのだ。

(どこまで卑しい人間なのだ──!)

 いいではないか。

 クレイゾールが自分を親だと思うなら、勝手にそう思わせてやればいい。

 親喰いの子だろうが悪魔の子だろうが、構うものか。その程度の器量さえ持たず、聖戦孤児を引き回すなど、許される行為ではないだろう。

 元より目的もない、退屈な旅なのだ。

 飽きるまでは、クレイゾールのに付き合うのも悪くない。

 そう──これは自分の気が変わるまでの間か、どこぞの地でクレイゾールが行き倒れるまでのただ戯れ事。クレイゾールがそれを求めるなら、受け入れてやる。

 戯れ事と拘るわりにずいぶんな仏頂面を浮かべたガイスは、むっすりと鼻を鳴らし、強くクレイゾールの手を握り締めた。

 しかしガイスは少年の手を取りながら──忘れかけていたその温もりに、密かな驚きを感じずにはいられなかった。

 寒風吹き荒れる大地の上で、に──自分以外にもその熱を発する存在があった事に、ガイスの心が、小さくない衝撃を受けていた。

 それは昨夜感じた、滾るような頬の熱と同様に。

 長き旅の果てに忘れかけていた人の熱がこんなにも身近に感じられ、世界は孤独ではなかったのだと、今更ながらに認識する。本来当たり前のその感覚さえ、いつしか灰色の孤独が風化させていたのだろう。

 手の平に感じるのは、砂と乾燥でひび割れた少年の指だ。

 生傷は絶えず、剥がれたままの爪は赤黒く固まったまま、まだ半分ほども伸びていない。

 だが、温かい。

 小さく、骨ばっていて、今にも折れそうで、それでも、不快ではない。

 それどころか、むしろそれが――むしろそれがガイスには、ひどく懐かしく、忘れ去りし遠い日の面影のように、感じられたのだ。

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