第一二話 俺たちの夢を見る権利

「疲れただろう、ゆっくりお休み……」

 グレイスは依然意識を失ったままの少年の傍らで、その額に手を置き呟いた。

 後頭部の傷を手当てしたいのは山々だったが、残念ながらここには、それを手当てするだけの道具がない。一応止血は出来たものの、今のグレイスには少年を寝かせ、ただその容態を見守る事しか出来なかった。

「……どうなんだ、平気なのか?」

「ああ、感謝の言葉もない。君のおかげで、この子の命は救われた」

 少年の様子を窺いに来たウェインへ、グレイスが丁寧な礼を述べた。

 もう何度目かのその行為をウェインはにこりと笑顔で受け取り、自らもグレイスの隣りへ腰を降ろした。

 彼の目は、遠く連なる山の稜線に向けられている。

 昨日の今日で、彼自身を取り巻く状況は激変した。今では皆が彼の若さと行動力を必要とし、ウェインは懸命にそれに応えている。正直なところ、弱音を漏らす暇さえないというのが現実だろう。しかしその両肩には確かな重圧と、迷いの負荷もまたグレイスには感じられた。

 無理もない。酷な役割をさせていると、グレイスも思う。

 だが彼は、正面からその困難を受け入れた。村人を救い出すという強い使命感を胸に、敢然と運命に立ち向かわんとしている。それはグレイスら村を率いてきた側が、若さと共にとうに忘れ去っていた姿勢の一つだった。

 彼こそが、おそらく次世代の長だ。

 まだ若手の一人だと思っていた彼が、こうも逞しく皆を率いている。

 今はその力強さに従おうとグレイスは思った。そして願わくば年長者の一人として、その双肩にかかる重圧を少しでも引き受けたいと思えた。

 夕暮れを迎えた静謐な時間。太陽はおぼろげな姿を山間の影へ隠そうとしている。濃密に重なる雲の隙間から、瞬間、灰色に朽ちた世界に僅かばかりの暖色が射した。

 不思議と、それだけで冷えた身体に熱を感じたような気がした。

 その温かみが新鮮だった。この世界はまだ、完全に死に絶えているわけではないらしい。

「……ウェイン。一つ、いいだろうか」

 いくらかの逡巡の後、グレイスはウェインへその顔を向けていた。

 錯覚だとしてもいい。刹那、身体に感じたその熱を忘れ去る前に、グレイスはそれを確かめたい衝動に駆られていた。

「ああ。何でも聞いてくれ」

──あの時、君は?」

 すると、予想もしていなかった唐突な問いにウェインは面食らった表情を浮かべ、次に苦笑を浮かべた。

「……変わり者だと思ってはいたが、本当に妙な事を聞くんだな」

 本気なのか冗談なのか、すぐにはグレイスの真意が読み取れず、戸惑いを隠せずにいるようだ。無理もない。六年前の悲劇という言葉に共通する過去については仲間同士でも好んで触れる話題ではないし、脈絡もなしに出てくるような話でもない。

 しかし一方でウェインは、たとえその問いがグレイスの興味によるものであれど、それに向き合うべき姿勢のようなものも不思議と感じずにはいられなかった。

 失敗の許されぬ騎士団との交渉を間近に控え、少なからぬ緊張は今もある。

 長く目を背けるばかりだったエクセリアという存在は、いまや拭い去れぬ絶対の概念として恐怖の意識に変わっている。だとするなら、もはやその過去を封印すべき時ではないのかもしれなかった。

 過去を封印する勇気ではなく、それと受け止める勇気。

 いま彼らにはその後者が必要なのだろう。

 目を瞑り、遠い過去を探るようにウェインが押し黙ったのは、それから間もなくの事だった。

 ろくな抵抗すら出来ず、全てを奪われ、それでもただ恐怖という生存本能に従い、生の業に縋るしかなかったかつての記憶。グレイスの問いかけの中に、そんな過去の残影を見出したウェインは、一瞬苦しげな微笑を浮かべると、軽くその前髪を手の平で撫でた。

 六年前の悲劇。それはあまりに凄惨な、暗き過去の集積だ。

 だが──だが今は違う。今は己の進むべき道を照らす意思と、それを見定める目、踏み出す足もあれば、災厄という名の火の粉を払い除ける腕も、心を共にする仲間もいる。もう二度とあんな忌まわしい過去を繰り返すつもりはなかった。

 いや、絶対に繰り返してはならないのだ。

 そのためにもいま、己の過去に、自分なりの決別を告げておく必要がある。

 深く閉ざされていた過去を認め、新たな未来を創造する。

 そうして運命の鎖を断ち切るためにも、今ここで。

 ウェインは覚悟を決めると、何を答えるべきか悩んだ後、ともかく思ったままの言葉を口にする事にした。

「……十三歳だったよ。ただ怖くて、逃げ回ってた。父さんも母さんも、皆が殺されていった」

 それは誰からの相槌もなく、半ば独白のような調子で語られた。

 両親の事から始まり、その当時の生活、遊び、そして生々しいまでの凄惨な情景。

 それはつい昨日の出来事のように、ウェインの口から紡ぎ出されていった。

 忘れえぬその記憶は、あれから六年の年月が経過した今も彼の心に深く刻み込まれている。

「それから俺は一人、あの村での生活を始めたんだ。身寄りを失くした俺にとって、俺を慕ってくれる村の子供たちは兄弟みたいなものだった。忘れかけていた家族の温かみを、天涯孤独となった俺にもう一度思い出させてくれた」

 聖戦に村を焼かれ、突如住む場所を奪われた彼ら。言うまでもなく、村の再建は困難の極みだった。

 新しい土地で食料の備蓄もなく、住む家からしてない。生き延びた者は心身の傷を癒す時間さえ与えられず、生きてゆくため、身体一つで奔走するしかなかった。そして主だった働き手に代わり、残された幼子らの面倒を見ていたのがウェインだった。

 彼らの兄分として、一生懸命に子供たちの面倒をみてきた彼。

 その口から語られる言葉は、まさしく彼の本心だろう。

「新しい村での生活は厳しかったが、折れそうになる俺の心を支えてくれたのは、俺が支えていると思っていた子供たちの存在だった。その信頼があるから頑張れた。村の子供たちには感謝してもしきれないよ」

 そこで不意にウェインの声が曇る。

「そして……リィズにも」

 彼が求めて止まなかったもの、それは少年の頃に無くした、温かな家族の姿だったのだろう。長い困難の果てに、彼はようやくその悲願を手にする事が出来た。

 本物の、家族というものを。

 何故彼がリィズにこだわるのか、もはや語るべくもない。

 彼は彼女に妻の姿を見たのと同時に、かげがえのない家族の姿を見ていたのだろう。一度は失ったその家族を守るため、彼は歯を食いしばり、辛苦にも耐えてきた。

 だからこそ──。

「リィズには、子供がいるんだ。俺の、子供が」

 その告白に、グレイスの心が重く沈みこんだ。

 ウェインを見つめ、しばし返す言葉が見つからずに絶句する。

「……妊娠、していたのか」

 彼の瞳は暗くなった稜線の先へ向けられたまま動かない。

 身体の弱いリィズが、最近さらに体調を崩していたのはそのためだったのか。

 しかしそれはあまりに残酷な話だ。求め続け、やっと手に入れたはずの本当の家族を、彼は失ってしまったのだろうか。人知れず彼が心に抱えた悲しみは、グレイスの想像をはるかに超えていた。

 狩りからの帰路、ひどく荒れたウェインの姿が目に浮かぶ。

 確かに、あの時はそんな彼の姿に驚きもしたし、皆が辛いんだと一喝もした。しかしグレイスは今、己の思慮の浅はかさを恥じずにはいられなかった。

 誰もが皆、この苦境を必死に生きている。

 誰かに甘えて生きられるような世界ではないのだ。

 そしてそれらをひとしきり受け止めた上で、それでも耐えられぬ悲劇というものもまた、この世界はあまりに多く抱えている。

「……彼女の姿は、見つかったのか?」

 おずおずと口を開くグレイス。ウェインは軽く首を振っただけで、その短い返答を終えた。

 言い知れぬ後悔の念だけがグレイスを襲った。

「すまない。こんなつもりはなかった。どうか、気を悪くしないでくれ」

「いや、いいんだ。俺はあいつのために戦う。家族と、そして村の皆のために」

 ウェインはただ前方に続く荒野を一望しながらその意思だけを告げた。

 相手を責める事も、馴れ合う事もない、不屈の決意。

 そんな強い決意の眼差しが彼の瞳には宿っている。

「結局俺は、リィズに何もしてやれなかった。だからいま俺があいつにしてやれる事は、それは俺が、あいつのために戦う事なんじゃないかって、今はそう思えるんだ」

 まるで自分に言い聞かすように、ウェインはそう言葉を締める。

 彼の話は、そこで終わった。今度はグレイスが口を開く番だった。

 今までずっと考え続けてきた、己の答えを見つけ出すために。

「──あのエクセリアの指揮官、私たちは罪だと言った」

 激情に任せた声ではない。

 むしろ粛々と事実を受け止めるような、静かな声。

「だとしたら私たちは、一体何のために生まれてきたのか。それを君に聞きたい」

「勘弁してくれ、グレイス。そういう哲学的な話は俺には分からないよ」

「いや、君の思うままを教えて欲しいんだ」

 困ったように笑顔を見せるウェインに、グレイスはなおもその答えを迫る。思ってもみなかったその問いかけに、しばし頭を悩ませているウェインだったが、やがてグレイスの熱にほだされたのだろう。彼は諦めたように、けれども少し恥ずかしそうにその思いを具現化していった。

「誰しも……人にはそれぞれ、夢があると思うんだ」

 若き青年の言葉を、深く胸に受け止めるグレイス。

「それがどんなものか、分からない人もいる。悲しいけど、最後まで分からずに死んでゆく人もいるだろう。でも無意識に──人は知っているはずなんだ、自分の夢を。早く気付くか遅く気付くかは後付けで、本当は皆、知っている。そして人はただその夢に向かって日々生き続ける」

 ウェインは周囲に灯りだした篝火に瞳を濡らし、無心でその言葉を綴る。

「その夢、自分の想いを叶えたいがために、人は努力する。それに善悪なんて関係ない。それが他人を傷つける夢であっても、夢を追うためには誰かの夢と衝突する事もあるだろう。でも、そうやって追ってゆくものが夢なんだ。だからエクセリアの連中が俺たちを憎みたいのなら、それさえ連中の勝手だと俺は思う」

 そして流れるように囁かれたその言葉を、一度区切る。

 彼の中で、もう言うべき言葉は決まっているのだろう。

 ウェインはグレイスの方を向きやると、その黒い瞳を見つめながら、にこやかに告げた。

「だけど俺たちにもまた──があるんだ。そうじゃなかったら、俺たちの存在意義すら分からない。俺たちはそれに抵抗し、生き延びる自由がある。それだけはどんなにエクセリアの連中が剣を振るっても、決して奪われる事はない。俺たちは、俺たちの夢を見てもいいんだ」

 ウェインはそう言い終えると、ほっと息をつき、肩の力を抜いた。

 グレイスはその屈託のない笑顔に、やっと暗い絶望の淵から救われたような思いがした。

 彼の言う事は、まさに正論だった。若さと純粋さに裏づけられた、人間としての在り方。生きる理由。それをウェインは語ってくれた。

 意思を持たぬ人間は、ただの獣とも変わらない。他者の意のままに生きるだけなら、餌を喰らうだけの家畜でも出来る。人の生は、つまりはその信念の強さによってのみ切り開かれると言っていい。何故なら人は、思考する事を許された生物なのだから。

 すべては人の意思によって求め、与えられる。

 運命を変える力──それは人の想いなくして、成り立たない。

「人は……優しさでこの世界に立てるだろうか」

 グレイスは自らの信念を確かめるべく、最後の問いをウェインへ投げかけた。

 粛然たる暗がりの中を二つの瞳が交差する。互いに本心を晒け出した彼らに、もはや偽りの言葉など必要ない。

「グレイス。あんたもいい加減、気付くべきだ」

 ウェインは心からの笑顔を浮かべて、口を開いた。

あんたたちは今、この場所にいるんじゃないのか?」

 そして揚げ足を取るように、肩をすくめる。

 その若さに嫉妬したくなるほどに、ウェインの笑顔は清々しく、心地良かった。

「俺なんかに大層な事は言えないさ。グレイスの方がよほど頭がいい。だからあんたは、あんたの思うままを信じればいい。優しさが人を導けると信じて」

「ウェイン、君は……」

「少なくとも俺は、その考え方、嫌いじゃない」

 そう言い、彼はおもむろに立ち上がった。

 完全に日は沈んだ。いよいよ本格的な闇がこの地に訪れようとしている。

「さあ、今のうちに休んでおこう。夜ともなれば連中の足も止まるはずだ」

「……そうだな。ありがとう、ウェイン。君の言葉が聞けて良かった」

 グレイスに軽く手を振ると、その青年は数名の村人が火を囲む輪の中へと戻って行った。ジハドは監視の目が光る中、逃げる気力も失ったのか、覇気のない表情で静かにうな垂れている。

 彼を捜索に来る騎士団の到着は、明日の朝以降という事になるだろう。

 ならばウェインの言う通り、明日への気力を少しでも養っておくべきだった。

「君を信じよう、ウェイン」

 グレイスは寝息を立てる少年の側で、自らもその身体を横たえた。

 軋みを上げる身体。刹那的に鮮明になる思考。考える事、思いを巡らせる事はいくらでもある。けれど目を閉じて束の間、泥のような疲労は瞬く間にグレイスの意識を闇に溶かしていった。

 警鐘はもう鳴らなかった。




 聖戦という名が口に出されて以降、二日目の夜が明けた。

 空は相変わらずの暗雲が渦巻き、今にも雨が降り出さんばかりに淀んでいる。

 だが雨は、この大地に達するより先に、山間に吹く風にさらわれて雪へとその姿を変化させる。

 死んだ大地、色のない世界──それは白と灰色に覆われた景色が作り出した、ここギルディアに最も相応しい呼び名だった。

「ギ、ギルディア人め、剣を降ろせ、くそ……ッ!」

 積み重なった岩の上、辺りを一望出来る小さな足場にジハドは立たされていた。

 その後方には身を屈め、剣だけを彼の背中に突き立てたウェインと、事の成り行きを見守る昨夜集まった村人らの姿。

「や、約束だ……連中の縄を解けば、俺を解放するんだな……?」

「くどいぞ。さあ、呼ぶんだ」

 ジハドへと投げ捨てな指示を送るウェイン。

 彼らの遥か前方には、ぞろぞろとした人影がその姿を現していた。

 馬に乗っている影もあれば、徒歩で列を作っている影もある。それはエクセリア騎士団と、それに捕われた村人の列に他ならないだろう。

「──こ、こっちだ! 俺はここだ、早く来いッ!」

 ジハドは彼らへ向かい、精一杯の声を張り上げてその存在を主張した。

 さすがに距離があるせいか、身振り手振りを交えてもすぐには気付く様子がない。しかし懸命にそれを繰り返しているうち、辺りを警戒していた騎士の一人がジハドに気付いたようだった。

 彼は馬上から周りの仲間に合図すると、同じく馬上の何名かを引き連れて馬を走らせてくる。勇ましい蹄の音と共に、それぞれの外套が風になびき、ばさばさと鳥の羽ばたきにも似た音が鈍色の空に舞った。

「どうした……? は、早く来い、命令だ! 早く来るんだッ!」

 しかしある程度の距離まで近付いた所で、彼らの足はぴたりとして止まった。

 どうやらいつもと違うジハドの異変をいち早く察知したらしい。

 馬の足を止め、まるで円を描くようにその場でぐるぐると回り始める騎士。その様子に見捨てられるとでも思ったのか、ジハドは大声を喚くばかりで話にならない。

「気付いたか」

 わめくジハドの後方から、冷徹なほど感情のない呟きを漏らすウェイン。

 彼は騎士がすぐそばまで接近したのを確認し、いよいよジハドの並びへと身を躍らせた。残存の村人らもそれに続き、足場の左右へと展開する。

「……貴様ッ?」

 突然姿を現したギルディア人に、騎士たちが少なからずの動揺をあらわにした。甲高い馬の嘶きと共に、鞘から剣を抜き放つ金属音が騎士の数だけ辺りに響く。

 事の異変を察知した後方の騎士たちは、捕えた村人を従えてぞろぞろとこちらに進行方向を変えたところだ。

「ジハド隊長、その男はッ?」

「け、剣を引け! この状況が分からないのかッ!」

 ジハドの怒気を含んだ叱責の声が飛んだ。

 先行した騎士の面々が、慌ててその命令通りに剣を降ろす。

 どうやらこの一触即発な空気は、一時だけでも緩和されたようだった。

「……よし。まずは上出来だ」

 背後からジハドに剣を突き付けるウェインと村人。そして彼らと向かい合うように陣取る騎士団。やがてその場には後続の面々も到着し、辺りは異様な緊張感に包まれ始めた。

「おお、エクセリアの指揮官を……」

 連行された村人たちの間から、ウェインの姿に感嘆の声が漏れ出る。

 見るも痛ましい彼らの姿だった。胴の前で両手を麻縄に縛られ、着の身着のまま、それぞれ列になって連行されている。中には靴さえ履いていない者の姿もあり、長い悪路を経てその足元は血塗れになっている。立っているのもやっとだろう。

 ウェインはそんな村人たちを一瞥すると、堂々と騎士団へ告げた。

「お前たちの指揮官は、ここに捕えてある!」

 やはり一部の騎士の間から、どよめきのような声が漏れた。

 しかし彼らの眼前に突き付けられたこの光景こそが何よりの証であり、それを覆す材料などどこにもない。この事実は圧倒的な敗北感として彼らの下へ降り注いだ。

「エクセリア騎士団に命令する! 捕えた村人を全員、開放しろッ!」

 さらに続くウェインの言葉に、騎士たちの動揺は目に見えて大きなものとなった。

 互いに顔を見合わせ、明らかな苛立ちが静かな波となってその場に増幅してゆく。

「どういう物言いだ、ギルディア人……!」

「ギルディア人風情が、我らエクセリアの騎士に命令するのかッ!」

 案の定、一部感情的な騎士たちが再び剣を構えた。

 交渉のためとはいえ、その高圧的な物言いに騎士の琴線を刺激されたのだろう。その場は再び糸を張り詰めたような緊張感に包まれ、現時点では迂闊に声を発する事すら危ぶまれた。

 騎士たちの自尊心は極めて高く、些細な言葉選び一つが争いの火種になるとも限らない。

 第一、丸腰のギルディア人が、武装したエクセリア騎士団へものを言う。

 その行為が、すでになのだ。

「馬鹿どもがッ! は……早く連中を解放しろッ!」

 しかしそれら騎士の激昂は、ジハドの罵声でどうにか抑えられた。背中に当てられたウェインの剣が、徐々に身体へ押し当てられてゆくのを感じたからだろう。やはりこの交渉で彼の成す役割は大きい。

 そして同時にこの駆け引きは、ウェインの交渉力の成せる技でもあった。高慢な騎士を相手にもたもたしていたのでは、何がどう転ぶかなど分かったものではない。

「……ギルディア人どもの縄を切るぞ」

 ジハドに促され、渋々と騎士団の面々が馬から降りてくる。

 村人らの縄を短剣で切って回る作業自体は極めて単調なものであり、間もなくすべての縄は切断された。麻縄からの開放を喜ぶ村人たちの顔に、両手の自由という実感とささやかな笑顔が舞い戻る。

「さあ。すべての村人をこちらへ引き渡してもらおう」

 ウェインはそれを満足気に見守ると、その引き渡しを命じた。

 彼に合わせ、ウェインの後方に控えていた村人がそれを助けるように騎士の間へと割って入る。

 騎士は殺気立ってその様子を睨んでいたが、特に作業を邪魔するつもりはないようだった。一人、二人と手を引かれ、捕らえられていた村人たちがウェインの側へ次々と戻ってくる。

「た、助かった!」

「ありがとう、ウェイン!」

 その間、一縷の望みを託して彼らの姿を一人一人確認してゆくウェイン。

 だが彼の求める人の姿はそこにはなく、すでに分かっていたはずの落胆が彼の表情をわずかに曇らせた。分かってはいても、期待するなという方が無理だろう。

 一方で、燃える村に残っていた女や子供、それに奇襲に失敗して捕えられた男たち──あるいはもっと悲惨な現実も覚悟していたが、一部抵抗し、殺された人間以外はだいたい揃っているようだった。

 ウェインの交渉は驚くほど順調に進み、想像以上の成果を導きつつある。

(さあ、後は締めくくるだけだ)

 少年を腕に抱いたグレイスは、固唾を呑んでその瞬間を見守っていた。

 取引において最も重要な点は、その最後を締め括る駆け引きにある。ここをどう導くかで、その後の展開は如何様にも変わるのだ。

 村人の安全を確保し、不要な戦闘を回避する最良の選択──。

 ウェインの導いた結論は、それだった。

 胸を撫で下ろすように強くその場で頷くグレイス。

 ウェインの選択は正しい。それが現時点で最も的確な判断だろう。

 しかしながら、まったく知らされていなかった突然の要求にジハドの表情は露骨に曇った。

「き……貴様ッ、そんな事は聞いていないぞッ! ギルディア人め、約束が違うではないかッ!」

「お前をこのまま返したら、俺たちを殺すに決まっている」

 顔を歪ませ悔しがるジハドに、ウェインは単刀直入にそう告げた。

 彼の言う通り、どう考えてもこのまま騎士団が身を引くとは思えない。我が身の安全が確保され次第、ジハドは迷う事なく新たな命令を下すだろう。

 連中を殺せ、と。

「や……や、約束しよう。貴様には、手を、出さん……」

 苦し紛れにそう言葉を取り繕うジハドだが、果たしてどれほどの信憑性があるとも思えない。そもそも「貴様には」という表現を用いる辺り、やはり殺すつもりだったのだろう。ウェインの表情へ、これ以上ない嫌悪と軽蔑の色が滲んだ。

「笑いながら人を殺せる人間を、どうして信用出来る」

 ウェインはもう言葉すら交わしたくないと、ただ一言そう吐き捨てた。

 そしてジハドの背後に回した腕へ、苛立ちと催促の力を込める。

「ヒッ、ヒイ……ッ!」

 ジハドの顔が苦悶の表情に変化した。その背中には、明確な刃の意思。

 それは今にも肉を切らし、内臓を切り裂かんばかりに突き立てられ、依然力が弱まる気配はない。苦痛に歪む彼の額には、いつしか大粒の汗が浮かんでいた。

「そ、そうやって、お前も俺を殺すんだろうッ! 貴様も同じだろうが、ギルディア人……ッ!」

「もう一度だけ言うぞ。武器を捨てさせるんだ。そうすれば、お前たちに、何も危害は加えない」

「馬鹿を言うな、綺麗事など吐き気がするッ! ヒッ? ヒィァ……ッ!」

 苛立たしげに、一層の力を込めて剣を突き立てるウェイン。その若い精神が、一瞬でもこの人間に同類と見なされた事を許せなかったのだろう。背中を覆う甲冑の隙間から赤い液体が剣を伝い、ウェインの手元まで滴り落ちた。

 無意識にも肉を抉っていたらしい。

 ジハドは虫が潰れたような悲鳴を上げ、大きく身を仰け反らせた。

「いッ、キャアアアァ──ッ!」

「もッ……もう猶予はないぞ、武器を捨てさせろッ!」

 だが驚いたのはウェインも同様だった。

 慌てて服で血を拭き取り、眉をしかめて語気を強める。ウェインは念を押すようにジハドに迫るが、焦燥感に満ちた彼の顔にも大粒の汗が浮かんでいた。

 正直、ここまでやる事は予想していなかったのだろう。

 相手を追い詰め過ぎるのも、諸刃の剣でしかない。ここでジハドを自暴自棄に走らせようものなら、ウェインら全員の生き延びる術はないのだ。

 武器もなく、疲れきった村人に、エクセリアの騎士に抵抗する力はないだろう。

 中には女子供もいる。全滅、もしくは絶望的な結末は避けられない。

「は、早くしろッ、どうなんだ! このまま死にたいのかッ!」

「あいッ……あァひいッ……ッ!」

 皮肉なもので、気持ちが焦れば焦るほど、剣を持つ手には力が篭もる。

 その度にジハドは女のような悲鳴を喚き散らすが、いまだ武装解除の号令はない。

 張り詰めた緊張と戸惑いの中、いつしか辺りには危険な予感が漂い始めていた。

「待てッ! 殺すんじゃない、ウェイン!」

 その様子を見守っていたグレイスが、堪らず後方から制止の声をあげた。

 これ以上は危険と判断したのだろう。しかしウェインの耳にその声は届いているだろうか。状況を焦るあまり、彼は正常な判断力を見失っている風にも見える。

「……ほ、本当に殺すぞッ! 早く命令しろ、早くッ!」

 苦痛に喘ぐジハドに、もはやウェインの声は届いていない。これ以上の拷問は明らかに無意味だ。

 しかし彼はその手を休ませようとはせず、それを見守る騎士までもが、呆気に取られてその光景を見守っている。それほどまでに、ウェインの怒気には鬼気迫るものがあった。

(まずい、本当に殺してしまうぞ……!)

 やはり、いくらグレイスが声を叫ぼうとウェインの耳には届く様子はない。

 いよいよグレイスの表情の焦りの色が浮かんだ。

 ここで切り札を殺してしまえば、抑止力から解き放たれた騎士たちは雪崩れ込むように村人へ襲いかかってくるだろう。何とかしてウェインを止めなければならない。彼を交渉役とするにはまだ若過ぎたのだ。

 グレイスの脳裏に、狩りからの帰路の出来事が甦る。

 胸に抱いた少年の身体をそっと地面に横たえ、安らかに眠るその顔を名残惜しそうに一瞥するグレイス。

 こうなれば、また力づくで止めるより方法はないだろう。

 だがグレイスの制止を待たずしては、あまりにも唐突に発せられた。

「……ウェイン! やめてッ!」

 ウェインの動きがぴたりと止まる。

 あれほど騒がしかった場の空気が、水を打ったように静まり返った。騎士団、村人たちからも何一つ声は発せられず、皆が突然の変化に戸惑っている。

 しかしウェインだけは、その声が誰のものであるのか、すぐに思い当たったようだった。

 忘れもしないその声。

 姿はなくとも、いつも心に響いていた、温かな、それでいて少しの憂いを湛えた少女の声。崩れ落ちるジハドをそのままに、目を見開いたウェインは、震える声でその人の名を叫んでいた。

「ま……まさか……リィ……ズ……? リィズッ!!」

 声のした方へ、急いで顔を向ける。

 そこには焼け焦げた服のままウェインを見つめる、愛らしい少女の姿があった。

 煤に汚れた衣服と身体、そして病弱そうな青白い顔に、栗色の大きな瞳。同じく栗色の髪は二つに纏められ、両方の肩から胸元へ垂らされている。細すぎる身体の線は女の色気よりも少女としての面影をその風貌に強く残しているが、それは決して彼女自身の魅力を損なうものではない。

 真っ直ぐな瞳でウェインを見つめる、純朴で愛らしい少女。

 それは紛れもなくウェインの婚約者、リィズの姿であった。

「無事だったのかッ? どうしてッ!」

「村が襲われた時、逃げてきたの! ずっとずっと、逃げてきたの!」

 自分の経緯を必死に説明する彼女。

 余程ここまでの道のりが辛かったのだろう。ウェインを見つめるその瞳は、涙に濡れていた。

「また会えるなんて……ウェイン……!」

 奇跡が起こったとしか言いようがない。

 村を逃げ出した少女が一人、二度の夜を経て、再び夫と巡り合ったのだ。

 何の地図も道標もなく、ただ二つの足でもって、この場所へと辿り着いたのだ。

 諦めてかけていた希望が、リィズの胸にふつふつと湧き上がる。

 やがてそれは溢れ出る感涙へと変わり──。

「その女を捕えろおッ!」

 うずくまるジハドの号令によって、その出会いは一つの終焉を迎えた。雷鳴のような声に打たれ、数名の騎士が弾かれたように無防備な少女の下へ殺到する。

 ウェインの表情が心の抜け落ちるような絶望に染まった。

「……だ、駄目だッ! 逃げろ、逃げてくれッ!」

 しかし病弱な少女に迫り来る騎士をかわすだけの力はない。悲鳴にも似たウェインの願いも空しく、一瞬で少女は騎士の手に拘束されてしまう。

「騎士団、抜剣ッ!」

 威勢のいい号令が騎士団の一人から発せられた。

 シャン、シャンという、鞘から剣を抜く独特の音が燦然とその場へ鳴り響く。

 騎士たちがいま、躊躇う事なく一斉にその剣を引き抜いた。

 この行動が何を意味し、如何なる変化を物語るかはもはや想像に容易いだろう。

 気が付けば、やはりジハドの姿は彼の隣りにはない。恐る恐る顔を向けた先、ウェインが最も見たくなかった視線の先に悪鬼の如きその形相が覗いている。

 騎士が形成する陣形の奥深くで、余すところなくその怒りを発散させているジハド。その瞳はウェインではなく、いたいけな少女の方を強く睨み据えていた。

「その女をこっちへ連れて来いッ!」

 細い腕を縄代わりに、騎士に引きずられてゆく少女。

 状況は、瞬く間に一変した。

 まるで薄紙を返すように、限りなく不利な方へ状況は転じてしまった。

 愕然とその場に崩れ落ちるウェイン。目の前の光景が信じられない。

 手足ががくがくと震えだし、声からは自信というものが完全に失われていた。

「な、何をする気なんだ……? よせ……やめろ……やめてくれ……」

 なりふり構わず、大地に頭を擦りつけてジハドに懇願するウェイン。

 立場は完全に裏返った。しかし自らの勝利を確信し、狂喜に顔を歪ませた彼が、おいそれとそれを許すはずもない。彼をあそこまで追い詰めたその後の反動は、いまや想像する事さえ恐ろしかった。

「フッ……フハハッ、それは一体何の真似だ? ゴミがこの俺に土下座だと……?」

 憤怒の笑みをその顔に湛え、ジハドはリィズの肩をその手に抱いた。

 彼の目に張り付いた冷酷な炎は、果たして何を思い、喜び猛っているのか。

 ジハドの薄笑いは、それを見る者の身を凍らせる嗜虐者の笑みであった。

「こちら側の被害は何人だ」

 側にいた騎士の一人に、そう尋ねるジハド。

「ハッ……! 騎士八名が死亡の他、七名が負傷です」

「ハ──ッハハハハハァ、聞いたか! 何というざま! 何という失態だ!」

 ぎりぎりと音が鳴りそうなほど、ジハドの歯は強く噛み締められた。

「三十名からなる〈聖〉のギルディア派遣団が、丸腰のギルディア人相手に! 半数以上が手傷を負わされ――さらにその半分は死んだというのかッ!」

 騎士達の自尊心も高ければ、指揮官たるジハドのそれは、さらにその上をゆく。

「挙句ッ! 騎士団を率いるこのジハドが! このギルディア人相手に殺されかけただとッ!」

 そして右手をかざし、周囲の騎士になにがしかの合図を送る。

 それに合わせ、二十名ほどの騎士たちが訓練された動きで陣形を変えて見せた。

 広く円陣を組むような形。ウェインたち村人を中心に、それを取り囲むように騎士が円形に展開してゆく。それはちょうど世界を内と外とに分けるように。

 まるで彼らから、というものをなくすように。

「うわあああんッ! うわああああんッ!」

 するとその異様さに恐怖を覚えた子供が一人、その場を駆け出すのが見えた。

 大人の腰ほどの背丈の少女だ。村で親を殺されたのだろう、周囲に親の姿はなく、圧倒的な不安と閉塞感がその少女を恐慌に走らせたに違いない。

 しかし彼らが易々と道を開けてくれるはずもなく、少女の行く手を塞ぐように、ゆらり騎士が歩調を合わせてくる。そして騎士が何かを差し出したかと思った瞬間、少女の腹からは剣が突き出ていた。

 うずくまった背中から吹き出す少女の血。

 村人らの視線は一斉にその子供へと注がれ、一瞬の後、彼らは我が身の現実というものを嫌でも悟らざるを得なくなった。

「こ……子供を殺したのかッ! どうしてッ?」

「おい、ウェイン! どうなってるんだよこれッ!」

 閉じた世界と、何の躊躇いもなく生み出された小さな死。

 彼らの動揺は一気に膨張し、やがて本能的な危機感を覚えた何名かが、同じく円環を越えようと四方へ駆けだした。騎士は一定の間隔を置いて彼らを囲んでいるが、巨大な円陣を構成するには数が少ないため、密度自体は高くない。だが騎士自体が連携して動くため、広いと思った隙間が急激に狭まり壁となる。

 結果、動かぬ塊がまた数個、ごろりと壁の近くに転がった。

 もはや村人は極度の混乱状態に陥っていた。

「これで五つか? エクセリアの死者は八名だ。まだ数が合わん」

 そんな騎士の輪の外では、ジハドが指折りその様子を眺めていた。

「続けろ」

 命令を受けた騎士たちは、徐々にその円陣を狭め、村人との距離を詰めてくる。そして手近なところまで村人が迫ると、騎士は容赦なくその剣を村人の身体へ突き立てた。堰を切ったような悲鳴が円環の内側、至るところで発せられ、先程まで生きていた人間が、男女子供を問わず地面に転がってゆく。丸腰の彼らにその悲劇を避ける術はなく、ただ泣き喚き、騎士から離れた中心部へ逃げ惑うくらいしか方法がない。

 その数が規定に達するまで、無作為の処刑は続けられた。

「さあ、これで同数だ。いや……かなり超えてしまったか? フフン、ありがたく思えよ。本来ならば貴様らのような穢れた民と、我らエクセリア人の命の重みを比べる事すらあってはならぬ事なのだからな」

 ジハドは満足気に鼻を鳴らすと、ひとまずの処刑停止を命令した。過密状態となった中心部の村人を向いたまま、輪を形成する騎士の動きが止まる。

 束の間訪れる、生と死を分かつ、張りつめた沈黙。

 グレイスもまた密集した村人の中で少年を抱いたまま、愕然と目の前の凶行を見守る事しか出来なかった。

「……さて、次は貴様だ」

 次にジハドが指名したのがウェインだった。

 彼は輪の内側にウェインの姿を見つけると、待ちかねたように痩身の少女を伴い、小さくなった円陣のそばへ歩いていった。ウェインも足をもつれさせながらジハドの前まで駆けてゆき、壁となる騎士越しにリィズの容体を仰ぎ見る。

 いまや契りを交わしたはずの二人は、いくら相手を想えども、もはやその手を触れる事すら叶わなくなっていた。世界は隔たれ、神の如き裁量は目の前の男の手に宿っている。

「たッ、頼む! リィズにだけは手を出さないでくれッ!」

 だからウェインはもう一度土下座の姿勢になると、なりふり構わずジハドへと懇願した。もしその願いが叶うなら、ウェインは自らの命すら喜んで差し出すだろう。交渉のためとはいえ、ジハドを痛めつけた責任のすべては自分にある。

 しかし返ってきた答えは、嘲笑と吐き捨てられた彼の唾のみだった。

「──……ッ!」

 額に命中したそれを拭う事もなく、湧き上がる屈辱感に身を震わせるウェイン。

 そんな彼を見下し、ジハドはなおも愉快そうに笑った。

「貴様ァ……これだから下賎の者どもとは話も出来んのだ。口の利き方を知らんのか? それが崇高なエクセリアの騎士に吐く台詞なのか?」

 さながら水を得た魚のようなジハドの饒舌さだ。彼はさも可笑しそうにそんなウェインで遊んでいる。先程とは真逆のこの状況を、心の底から楽しんでいる。

「どうした、何か地面にうまそうな物でも転がっているのか? お前は豚なのか? さっきはずいぶんと威勢が良かったようにも思えたが、どうやら俺の気のせいだったらしいなあ。フフフハハッ!」

 歯を食い縛り、必死にその屈辱に耐えようとするウェインを覗き込むジハド。騎士の間に身を屈め、なおもウェインをなじるべく歩を詰める。

「ウェイン……」

 リィズのその声がきっかけだった。

 悲しい、今にも泣き出してしまいそうなその声が。

「──おおおおッ!」

 途端、ウェインが握り締めた砂を前方に放り、無情の神へと牙を剥いた。砂に目をやられたジハドがきゃあと悲鳴を上げ、堪らずその場を転げ回る。

 何を耐えたところで、この男が慈悲をかける事など在り得ない。それは昨日今日とジハドという人間を見て、ウェインが抱いた疑いようのない確信だった。

 だとするなら戦うしかない。戦って自分の意思を通す。それしか道はないのだ。

 しかしジハドをかわし、リィズまであと一歩というところで、ウェインの身体は横っ飛びに吹き飛ばされた。壁役の騎士が跳ね飛ばしたのだろう。そしてそのまま駆け付けた騎士によって取り押さえられてしまう。

「くっそおッ! その手を離せ、リィズに触れるな! この土地から出て行けッ!」

 騎士に身体を拘束され、それでも狂ったように喚き散らすウェイン。

 だが多勢に無勢とはいえ、彼女を愛するが故の無謀な行為の代償はあまりに高くつく事となった。

「……貴様アッ!」

 顔の砂を払い、憤怒の形相で立ち上がったジハド。

 遊びという生殺しの感情さえもすでに彼の顔からは失われていた。そして脅えるばかりの少女を強引に引き寄せると、手甲でその頬を思い切り殴りつける。体重の軽いリィズの身体はそれだけで宙に舞い、首を奇妙な方向に捻りながら地面に倒れた。

 絶句するウェインの前で、ジハドの怒りは爆発した。

「そうか、この女がそんなに好きか! ならば存分に可愛がってやらねばなあッ!」

 今度は鉄板仕込みのつま先で、思い切り腹を蹴り上げる。

 まるで肝臓が潰れるような鈍痛に呼吸が止まり、声すら出せず、リィズはばたばたと地面をのたうった。

「見ろお! 俺の蹴りがそんなに嬉しいか、ハハハッ!」

「や、やめろッ! やめろおおおッ!!」

 ウェインの眼前で繰り広げられる、目を覆うばかりの暴行。

 やがてジハドが少女の髪を掴み、その身を地面から引き起こした時、ウェインはその衝撃に言葉を失った。

 彼女の細い足首から、一筋の鮮血が垂れていた。

 いや、正確には足首からではなく――その足首を伝い、その血は垂れていた。

「うッ……嘘だろ……? 嘘だよな……?」

 少女は激痛と苦しみの中、堕胎していた。

 小さな命が血と共に流れ、そして産声もなく死んだ。

 ウェインの求め続けた最愛なる家族の命が一つ、この世から消えた。

「ウェイ……」

「────ぁあああ──ああああああああ──ッ!!」

 リィズの瞳から、足首を伝う血と同様、一筋の涙が零れ出る。

 ウェインは胸が裂けるような絶叫をあげた。そして慟哭した。

 騎士たちに拘束される中、気が触れたように咽び泣いた。

 夢にまで見た、新しき家族の誕生――そうだ、名前はフィリオにしよう。女の子ならフラー。ある日の夕食の晩、リィズと共にウェインはそう語った記憶がある。

 その日、リィズからはずいぶん気が早いと笑われたが、彼女自身も満更でもない風に笑っていた。それが男であれ女であれ、どちらでもいい。その子供の名前だけは、生まれる前からすでに決まっていた。

 しかし名前だけが決まっても、実際生まれてくるまでには、まだ半年近くも時間があるという。よしてくれ、そんなに長く待てるものか。ウェインは膝を揺すりながら毎日のようにリィズを急かしてやまなかった。そして一刻も早い子の誕生を急かすウェインに、リィズは苦笑しながら、それは無理だと何度も言い聞かせねばならなかった。何故ならそうでもしなければ、ウェインは自分の夕食すべてを毎日リィズに差し出しただろうから。食事どうこうで産まれてくる時期が早まるものではないと、リィズは笑った。

 隙間だらけの壁に囲まれた粗末な小屋と、天井から吊るされた一つの灯り。小さな食卓の上には、水っぽい豆のスープがランプの光を反射して木椀の中に揺らいでいた。いつも通りの、質素な夕食だ。リィズには栄養をつけてもらいたかったが、献立にさしたる変化はない。

 ただあの日一つ違っていたのは、用意された椀が一つ多かったという事だ。

 テーブルの隅には小さい空の椀が、一つ余計に置いてあった。気の早いウェインが昼間せっせとこしらえたのだと言う。出来はそれほどでもなかったが、用意のいい事に小さいサジがまでついている。ウェインの気の早さは日を見るごとに悪化しているように思え、それにはリィズもずいぶん呆れてしまったものだ。

 だがリィズは、ひとしきり笑ってからひどくそれを気に入って、それじゃあ一緒に食卓へ並べましょうという事になった。

 あの日、あの夕食の夜、確かに二人の間には、もう一人の愛すべき存在があった。

 ウェインとリィズに挟まれるようにして笑う、まだ見ぬ二人の赤子の存在が。

 果たして、いま流れたその生命は、一体どちらの名前だったのだろう。

 残念ながら、もはやそれを知る術はどこにももない。

 ただ一つ確かなのは、その彼、あるいは彼女はこの瞬間、あまりにも短いその生に一つの終わりを迎えたのだという事。

 その短き人生に、どんな思い出さえ、作ってやる事も出来ずに。

「この女……?」

 ようやく事の事態を飲み込んだジハドが、驚いた面持ちで少女の足元を確かめる。

 そこには小さな命らしく、小さな血溜りが寂しげに生まれていた。それは見る見る乾いた大地へと吸い込まれ、黒い染みとなって歪な面影を砂に遺している。

 それが彼らの子の、生きた最後の証だった。

「──ッハハハハ! そうか、そういう事かッ! こいつは傑作だ! 出来損ないが死んだかッ! わざわざ無駄なものを産み落とす手間が省けたというものだなッ?」

 その様子に、ジハドが腹を抱えて笑い転げた。

 変わり果てたウェインの子供をなじるように靴の踵で何度も踏みながら。

「なるほど、幼い顔して手の早い女だ。男のモノなら誰のでも咥えこむんだろう? 薄汚いギルディアの売女は皆こうだ」

 そしてリィズを強引に手元へ引き寄せると、されるがままの少女の唇を奪う。

「んう……」

 土と涙に塗れたウェインの顔が驚愕に歪む。

 ジハドはこれ以上何をしようというのか。

「よ、よせ……ゃめてくれ……」

 リィズの短い悲鳴を最後に、後は二人の荒い鼻息がウェインの声を掻き消した。

 穢れを知らない少女の口元を這い回るジハドの舌。あたかも巨大なナメクジのようなそれは、苦しげな熱気を吐き出す淡い噴気孔を下り、もう一匹のナメクジを執拗に吸い上げ、弄ぶ。粘液と粘液が攪拌され、少女の顔中を濡らしてゆく。

「うあああああああああああッ! わあああああああッッ!」

 もはやウェインの精神が決壊を始めていた。

 一つの悲劇を受け止める間もなく、次なる悲劇がやってくる。

 もはや脳は一縷の理性すらかなぐり捨てて、ただその事実を拒絶するための咆哮だけを求めていた。

「黙らせろ」

 ジハドの指示に、大柄な騎士がウェインの頬を殴りつけた。

 ぐるんと頭から地面に叩き伏せられ、呆然とその声までも無くすウェイン。青年が大切に思い、守ろうとしてきたすべてが、悪戯に穢され、奪われ、蹂躙されてゆく。

 両手をつき、何度も何度も地面に頭を打ちつけるウェイン。

 いま見た忌まわしい記憶を消したいのか。

 それとも、死にたいのか。

「やめろ、ウェイン!」

 だがその行為は、駆け付けたグレイスによって止められた。

 片手で抱いた少年をそばに寝かせ、青年の肩を掴み、力の限り声を叫ぶ。

「君がそんな風でどうするんだッ! しっかりしろ!」

 ぱあんという乾いた音と共に、彼の首がぐるんと横に唸った。

 頬を叩かれたウェインは放心したようにグレイスの顔を見つめている。

「グレ……イス」

 そしてグレイスに向けられた目の焦点がようやく合ったかと思うと、彼は弾けたように泣き出した。

 どうしようもない怒り、悲しみ、悔しさ、憎しみ──しかしそのどれ一つも発散出来ぬまま、悪意の手の上で弄ばれる苦しみ。それは想像すら及ばない拷問だろう。

 彼は愛する人を目の前で穢され、愛すべき家族の命までも奪われた。それを耐えろという方に無理があるのかもしれない。

(だがウェイン。君は強い男のはずだ──!)

 今やいつ精神が崩壊してもおかしくないくらいに、彼の心は傷付いている。

 グレイスはそんなウェインを力一杯抱きとめると、目の前に立つ甲冑の男を鋭く睨み据えた。

「これが……これが人間のする事か……!」

 かつてない形相で、怒気をあらわにするグレイス。

 もはや話して分かるような相手でない事はよく分かっている。

 だがそれでも許すわけにはいかなかった。

(マスタッシュ、お前もこの男にやられたのか──)

 無念の死を遂げた友、マスタッシュの姿が脳裏に浮かぶ。

 誇るべき最高の友は、この男に殺された。

 目の前の、こんな男に。何故彼が殺される必要があったのだ。何故──!

 グレイスは自らも初めて経験するほどの黒い感情に身を震わせた。

「こんな事をして、一体何の意味があるッ!」

「意味だ? 穢れた民族どもに最も望まぬ最期をくれてやりたいだけだ」

 魂さえ込めたグレイスの咆哮は、しかしジハドの一瞥を得ただけだった。

 乾いた嘲笑と共に、再び少女との行為に専念し始めるジハド。

 この男は〈馬轢き〉の最中もこんな下卑た笑いを響かせていたのだろうか。

 ああも笑いながら、友を壊したのだろうか。

(何故なんだ──何故こんな──!)

 悔しさに身が張り裂けそうになる。どれほど叫んでも、絶対的な優劣の差は埋まらない。傷付いたウェインを抱き締めるだけで、自分には誰を救うための力もない。

 何故、こんな風になってしまったのか。

 何故、どんな理由があって、こんな風になった──!

「はあっ、はあ……はッ!」

 ようやく執拗な口づけから開放されたリィズは、溺れるような呼吸をその口から吐き出した。いやらしく濡れた唇をそのままに、ぐったりと変わり果てたウェインの姿をただ見つめている。

 だが行為は、それで終わりではなかった。

 ジハドの腕が、小さな膨らみを帯びた胸へと伸びていた。

「ひィ……うッ!」

 掻き消えてしまいそうなリィズの悲鳴を皮切りに、悪夢の行為がよみがえる。

 恐怖と汚らわしさに膝を振るわせながらも、ただただその行為に従う少女。目を瞑り、身を襲う嫌悪と戦う事が、彼女の、彼女なりの戦い方なのか。いやすでに自力で立っている事すらままならない彼女には、それしか方法が残されていないのか。

「ははあ……この女、感じているのか? エクセリアにも、盛りのついたギルディアのメスを好む好色家がいてな。捨て値だが、一晩の酒代にはなる」

「──待て、ウェインッ!」

 ウェインの身体が、再び憎悪の炎に揺らめいた。

 しかし肩を震わせ、グレイスに呼び起こされた最後の理性でそれを鎮めている。

 いま抵抗しても、所詮はジハドの思いのままなのだ。その様を、彼は楽しんでいるに過ぎない。

「ああ……うッ!」

 だがジハドの魔手は、容赦なくリィズの身体を襲う。その手は次第に下腹部へと伸びていき、少女の血に塗れた秘所へと到達した。水気を含んだ音に弾かれ、少女の声が過敏なそれに変化したのが分かる。

 規則性を失い、噛み殺したような短さで漏れる苦悶の吐息。

 見てはならない。それを見たら、きっともう戻れなくなる。そんな確信が最後の堰となってウェインの衝動を押し留めるが、堅く閉じたはずの目蓋は、強張った筋肉の痙攣にすら負けていた。

 岩戸を押すようにぐらぐらと開いてゆく視界。

 やがて怒りに震えるウェインが面を上げ、その先に見た光景。

 それは騎士の淫猥な行為によって悶える妻の、あられもない姿の果てだった。

「ああああああああああああああ────ッ!」

「ウェイン! 挑発に乗るな、ウェインッ!」

 爆発する感情が剥き出しとなった吠えるような叫び。

 ジハドは瞳だけをウェインへ向けると、目に笑みを湛えて言う。

「貴様、?」

 するとグレイスをほどき、立ち上がりかけたウェインが中腰のままで止まった。

 ジハドの挑発はどこまでも執拗で、激情に狂えるウェインの深層にさえ手を伸ばしてゆく。

 ウェインは石のように動かない。その言葉は、彼にとってよほど衝撃的だったのだろう。あれほど怒りに任せていた彼がただの一言で黙らされ、否応なくに向き合わされている。

 自分自身でさえ気付かなかった心の暗部。真っ黒な光が差す場所。

 心の奥底で滾る、その感情の正体に愕然とする。

「お、俺は……ッ」

 嫉妬と軽蔑。

 立ち昇る情念の火柱の中に、が揺らいでいた。

 例えようもない自己嫌悪が、深く激しく、泥のようなうねりでウェインの心を蝕んでゆく。

 傷ついた心の中、決して認めまいとしていた最後の部分に亀裂が入った。

 自分はいつしか、愛すべきはずの妻までもを、憎悪の眼差しで見上げていたというのか?

 そんな馬鹿なと首を振る。憎むべきは目の前の男で、それ以外の誰か、ましてその人であろうはずがない。しかしもう一人の自分は光なき眼でその言葉を受け止め、ぽっかりと空いた胸の穴にどこまでも醜悪な獣を見つけるのだ。

「はあッ……は……!」

 自分ではない何者かの手によって、その淫靡な口元から漏れるその声色。

 どれだけ耳を塞いでも、聞きたくもない色めいた声が自身の風穴に木霊する。

 まっすぐに彼女の姿を見つめる事が出来ない。溢れ出る感情が呼吸器官を圧迫し、ひどく息苦しい。

 もう自分がばらばらになってしまいそうだった。心が砕ける。世界が暗転する。

 自分はいま、自らが求めた大切な家族を、そして愛した妻を、卑しい女と認めているのだろうか。

 分からない。何も分からない。

「──ね、ウェ……」

 何故妻を取り返そうとしないのだろう。

 何故、その言葉が否定出来ないのか。

 そもそも家族とは何なのだ? 妻とは──?

「ごめんね、ウェイン」

 真っ暗な地平の片隅へ、不意に彼女の声が届けられた。

 今にも掻き消えてしまいそうな、けれども曇りのない清廉さで響く声。

 ぎくりとした。まるで頭から冷水をかぶせられたような、暗がりで見る強烈な光のような。

 肉体を蝕む呪縛は消え、地面に吸い付きそうだった顎がぐいと上がる。

 頭上には、涙で濡れた少女の顔があった。

 されるがまま、彼女に行為を止める術はないが──彼女は確かに拒んでいた。心ではウェインの声を求め続け、頑なに拒み続けていた。

 その口元から漏れるのは、色香に狂う嬌声ではなく、深い悲しみを忍ぶ苦悶の声だ。溢れ出したそれらの感情が一滴、また一滴となって少女の瞳から零れ落ちる。

 だからウェインも、口にした。

 どんな偽りも無い、真の声で。

「──愛せる! 愛しているッ!」

 リィズの瞳から、大粒の涙が零れ出した。

 両手で瞳を隠し、肩を震わせ泣いている。

 ウェインが激昂する事はもうなかった。あれほど憎悪に震えたジハドへ向かい、ただその頭を下げる。

「俺の命ならいくらでも捧げる。だからどうか、その人を助けて欲しい」

 それきりウェインは、どれほど侮辱されようとも、その姿勢を崩さなかった。

 まるでつまらなそうにその様子を眺め、その瞳から急速に興味の色を失ってゆくジハド。やがてその眉が微かに動いたかと思うと、リィズを乱暴に投げ捨て、彼はウェインに呟いた。

「ならば愛すがいい。ただしそれには、条件がある」

 それはまさに思いがけないジハドからの提案だった。ウェインがはっと驚いて顔を上げる。

 自ら死を覚悟し、ただ妻の命を願いながら逝く事は、もはやウェインに残された最後の尊厳と抵抗であり、はじめから希望を抱いてのものではなかった。しかしそれがジハドの興を削いだのか、あるいは一縷なりともその思いが通じたのか──。

 いずれにせよ、それはウェインにとって、黒く歪んだ天に射す一筋の光明である事に違いはなかった。

 ジハドの言葉を聞くまでは。

「……何という事をッ!」

 グレイスの顔が驚愕に震えた。

 そして少年の顔と、真っ青な顔で目を見開くウェインとを交互に見比べる。

 それはウェインにとってもグレイスにとっても、身の毛が総毛立つ悪魔の囁きだった。

「その男の餓鬼にも、色々と世話になったのでな。礼は尽くさねばなるまい?」

 さも可笑しそうに彼らの様子を見守るジハド。

 まるで新しい遊びを見つけた子供のように、その顔は次なる悦びに打ち震えている。

「ばッ、馬鹿なッ! そんな事、出来るわけがない──ッ!」

 ウェインは頭を降り、脳裏に浮かぶ邪悪な想像を打ち消すように叫んだ。

 しかし顔を振れば振るほど、力なく打ち捨てられたままのリィズと先程の涙とが脳裏で交錯する。

 彼女を救ってやりたい。いまこの胸に感じるその想いは、何よりその一言に尽きる。

 だがその代償は、あまりにも大きい。

 村の子供はウェインの、第二の家族のようなものだ。

 我が子を失い、今度はその家族さえ自らの手にかけて殺せというのか。

「で、出来るわけないじゃないか……ッ!」

「これを貴様にくれてやる。後は自分で判断するがいい」

 ジハドはそう言って、ウェインの眼前に一振りの短剣を投げ捨てた。赤い飛沫を飛ばしながら、乾いた音を立てて地面に突き刺さるそれ。

 これで彼には、三つの選択が与えられた事となった。

 一つはこの剣で、再びジハドに襲いかかる事。

 二つはこの剣で、彼の言う通りグレイスの子供を殺す事。

 そして最後は――自らの命をその剣で絶つ事だ。

 血塗られた短剣は怪しい光を放ち、ウェインの心を揺さ振り続ける。

 一体どれが選ぶべき道なのか。いや、本当は選ぶべき道などないのかもしれない。

 結局どれを選んだところで、誰かが死ぬのだ。

 

(ウェイン……)

 グレイスはそんな青年から目を離すと、少年へ視線を移した。

 いまだ意識の回復しないまま、少年は安らかな寝息を立てている。だがこの惨劇を見ないで済んだ事は、この少年にとってせめてもの救いだったかもしれない。

 少年の頬を撫でながら、その柔らかい感触を愛おしむグレイス。

 いつも笑顔でいて欲しい。そんな父親の欺瞞こそが、ここまで我が子の運命を狂わせてしまったのだろうか。様々な思いが胸を駆け巡り、乾いた虚空を風のようにすり抜けてゆく。

 この状況下で、助かる道はあるのだろうか。助かったとして、どこかに奴隷として送られるのだろうか。あるいはこのまま殺されるのだろうか。いくつかの考えが、グレイスの脳裏を横切った。

 しかしどう考えても、これより先、とても創造的な未来などは見つかりそうになかった。

 そして何よりいま、この身を突き刺すほどの不吉な予感を感じずにはいられない。

 ウェインは俯いたまま、何も話そうとしなかった。

 目の前に差し出された短剣を、何かに取り憑かれたように見つめている。

 いつからか青年は、貝のように口を塞いでいた。

「──父、さん……?」

 そんなグレイスの耳に天使にも似た声が聞こえたのはその時だった。

 それはまるで寝起きの惚けた挨拶のように。暖かな寝床で聞くうわ言のように。朝日と呼ぶにはあまりにも呪わしい歪んだ天の陽光が、わずかに少年の顔を照らし出す。

 少年はそんな光とも呼べない光に目を細めると、おずおずと固い地面から起き上がった。そしてグレイスの姿を側に確認すると、こぼれそうな笑顔を浮かべ、その腕に飛び込んでくる。

「父さん! 良かったあ……!」

 大好きな父親へと、その身を預ける少年。

 何故だか、ずいぶん会っていないような気がした。

 グレイスの匂いに懐かしささえ感じながら、少年はまだ寝ぼけているのか、眠そうに目を擦りながら、グレイスの中で精一杯の幸せを噛み締めた。

「気が付いたか」

 優しく微笑みかけるグレイス。

 いつも通りの、何気ない口調だった。

「気が付いた?」

「ああ、お前はずいぶん眠っていたからな」

 少年はまだ状況をよく理解していない。グレイスは何かを説明するべきかと思いを巡らせたが、あえてする必要もないと思った。もとよりそんな時間はないし、この狂った世界には語るべき価値もない。

 少年は少年のままでいい。

 この不条理の一部などとは、断じて認められない。

「父さん……もう、離れたくないよ」

「ああ。お前は、父さんが守ってやる」

 だからグレイスは、そのためのどんな業をも背負う覚悟だった。

 少年を身から離し、静かに立ち上がるグレイス。

 それは彼らの前方でもう一つの黒い影が、ゆらり立ち上がるのとほぼ同時だった。

「ウェイン」

 グレイスの問いかけに、ウェインは答えなかった。

 その代わり、決断されたある意思を示すように、その手には鈍い光を放つ短剣が握られている。

「ウェイン……?」

 少年も辺りに漂う異様な雰囲気に気付き、驚きの声を上げたようだった。

 騎士たちが囲んだ円陣の中で、脅えて固まっている村人達。そしてウェインと向かい合うグレイス。

 一体何がどうなってるか、わけが分からなかった。

「お前は何も知らなくていいんだ」

 最初の数合わせで殺された村人らは縮まった円の外側へ出ている。少年の位置から目にする事はない。

 しかし、これから始まるであろう本当の惨劇は、少年の目の前にある。

 崩れ落ちる世界の中心で、少年だけがまだ無邪気なままだった。

「言っただろう、お前は父さんが絶対に守ってみせると。何も心配はいらない」

 グレイスは一歩、少年の前へと進み出た。

 そうでないと信じたいが、もはや世界の歪みは止められない。

「……他にも方法があるはずだ。諦めてはいけない」

 懸命に声を落ち着かせ、最後の説得を試みる。

 だがそれに答える声はなく、押し殺した彼の感情だけが肌を通して伝ってくる。

 彼の吐く息が白い。どうしようもない負の感情に晒され、極限まで彼の内面が凍えているのが分かった。

「他にどんな方法があるって言うんだ」

 冷えた指先で、そっと背筋を撫でられたような感覚。

 聞こえるか聞こえないかくらいの微かな声で、ウェインが囁いた。

「俺には……もう分からない。何が善くて、何が悪いのか」

 最後の逡巡を拭い去るように、ウェインは首を振る。わずかに残った理性を捨て去りたいのだろう。

 そう、これから始まる悲劇には一片の人間性も必要ない。

 あるのはただ、殺意だけで十分だ。

「人は、夢を叶えたいがために生きる。グレイス、あんたに言った言葉だ」

 心を分かち合った友へ、彼の声は語りかける。

 人にはそれぞれ夢があり、夢を叶えるために人は生きる。夢を見る権利がある。

 しかしグレイスはいま、それを聞いた時とはまったく違う冷酷さをその言葉の中に感じていた。

「俺の夢はただ一つ。ただ家族と幸せに暮らしたい──それだけだ」

 二度と戻れない永劫の別れ。

 それを彼は告げている。

「ちっぽけな夢だろう? 大層な事を言うわりにはと、笑ってくれてもいい。だが俺にとっては、それだけがすべてなんだ。それを守るためなら俺は、どんな悪行にも身を染めよう。地獄の業火に焼かれても悔いはない」

「待て、ウェイン! それは違うッ!」

 グレイスは亡き友マスタッシュの姿をその脳裏に思い出し、その言葉を否定した。

 それではこうまでウェインを苦しめたエクセリアと何ら変わりがないではないか。人は人を思いやる事を忘れた時、人でなくなる。それはグレイスが身をもって経験した事実だ。

「違わないさッ! 一体何が違うッ? それを信じたやつはみな死んだッ! 現実はあんたの優しさに気付きもしないで、平気で俺たちを殺すんだッ!」

「ウェイン、聞くんだッ! 人は──!」

「何も聞きたくはないッ! この薄汚れた現実を見ろ、グレイスッ! 俺は家族を守りたい、家族と生きたい、そして愛する人を救いたいだけだッ! 俺の戦いは、そのためだけにある!」

 彼らの決別は終わった。

 二人の意見は平行線を辿ったまま、決して交わる事はないだろう。

 相対する二人の友は、この瞬間、互いの敵へと姿を変えたのだ。

「もう戻れないのか」

「俺を呪ってくれ、グレイス」

 短剣を右手で構え、腰を低くするウェイン。その視線はグレイス、そしてその足元の少年へと注がれている。

 まるで別人とも思えるウェインの冷め切った瞳に射抜かれた少年は、身震いして父親の顔を見る。

「私にも守るべきものがある」

「それがあんたの夢だろう」

「そんな夢なら、見たくはなかった。ウェイン」

 グレイスは丸腰のままだったが、同じく体勢を低くし、それと対峙した。

「と、父さん? どういう事? ねえ、父さんッ!」

 少年が脅えたようにグレイスの足元を掴む。

「フハハハッ、こいつは面白いッ! 仲間同士で殺し合いかッ?」

 ジハドの不快な笑い声が灰色の空の下に響き渡った。

 運命の導き出した、彼らが歩むべき末路。

 ──惨劇の火蓋はいま、静かに切って落とされた。



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