第一三話 弱者の果実と晩餐の灯火

 ──崩壊を始める世界。運命に翻弄される人々。

 彼らはいま閉ざされた世界の中、懸命に生きようとその中でもがき苦しんでいる。

 在る者は愛する女を救うため、黒き夢と、血塗られたその剣を握り締め。

 また在る者は、己の信念と優しさを、どす黒い殺意の獣に塗り替えて。

 少年はその光景に恐怖し、ただ一人の男の背中を見つめていた。

「フッフフ、こいつは面白い。貴様らのために特別の舞台を用意しよう」

 ジハドは両手を胸の高さで左右に広げると、それを勢い良く狭め、両手を胸の前で交差させた。それと同時に、村人を取り囲む騎士たちの進軍が再開される。村人を包む円環は、急速な勢いで縮小を始めていた。

「な、何をする気なんだ?」

「嫌だッ、ここから出してくれッ!」

「この子だけは助けて下さい! お願いしますッ!」

 身を寄せ合う村人たちから絶望的な悲鳴が聞こえてくる。

 驚いた少年が目を向けてみれば、自分のいる位置から後方の陣が、どんどん縮まってゆくのが見える。ちょうど一つの輪が二つに分裂するように、それは中央から二つの円に分かれようとしている。

 ウェイン、グレイス、少年を残した円と、脅える村人らを中心としたもう一つの円。やがてそれらは完全に分断され、なおも後者の動きは止まる様子がない。

「さあ愚民ども、存分に味わえよッ! これがエクセリアの〈聖戦〉だッ!」

 ジハドの高笑いと共に、その円は急速な狭まりを見た。剣を腰だめに構えた騎士たちが、円の中心に向かって一斉に駆け出してゆく。逃げ場もなく、身動きも取れぬ村人たちにそれを回避する術はない。まずは集団の外側にいた人間から次々と断末魔の叫びが上がり、その場は阿鼻叫喚の坩堝と化していった。

「ひッ、ひいいッ……! 父さん、父さんッ!」

 驚愕に目を見開き、父を呼ぶ少年。それはまさしく異常な光景だった。

 無抵抗な村人に次々と浴びせられる、鉄の雨。その豪雨は繰り返し村人らの肉体を貫き、次々と彼らを動かぬ肉塊へと変えてゆく。それは中心から血の水を吐き出す、いびつな赤い噴水のようでもあった。

「いッ、ぎゃああッ……!」

「やめて、やめてッ!」

 腕や足、あるいは引き千切れた臓物など、人間の一部だったものがバラバラと辺りに散乱する。降り注ぐ赤い水を浴びて、騎士たちの甲冑には毒々しい斑模様が浮かび上がり、彼らの纏う外套はどす黒い褐色へと変わっていった。

 ──腹ぺこの怪物。

 それは騎士たちの事だったのか。

 血の渇きに飢え、意味の無い殺戮を繰り返す彼ら。どれほど殺してもその渇きが満たされる事はなく、彼らはまた新しい血肉を求めて狂奔する。それは御伽噺に聞いたどんな怪物よりも恐ろしく、底知れぬ悪意に満ちている。

 いや──この世界そのものが悪意に満ち満ちている。

 鬱屈した毎日に希望はなく、いかな努力も実らず、目を凝らす先には死の影ばかり。

 果たして世界は、こんなにも薄暗かっただろうか。

 あの空は、こうも澱に淀んでいただろうか。

 今まで信じてきたものがガラガラと音を立てて崩れ、死の暴風へ形を変えてゆく。

 恐怖さえ越えた喪失感に、少年は苦悩し、声を叫ぶしかなかった。

「どうだ、ささやかな余興だったろう」

 一方でジハドの興味は、すでにあの虐殺からグレイスとウェインの二人へと移っていた。

 代わり映えしない聖戦の経過よりも、因縁ある二人の死闘を早く見たいのだろう。彼は催促をするように手を鳴らし、二人の動向を薄笑いを浮かべて眺めている。

「これで貴様らの舞台を邪魔する奴はどこにもいない。思う存分に殺し合うがいい」

 そう。それは文字通り、互いの死を賭けた闘いだ。

 どちらか相手を殺すまで、その闘いに終止符が打たれる事はない。

 彼に促されるまでもなく二人の死闘は始まりを告げていた。

「……死んでくれ!」

 その口火は、武器を有するウェインの方から開かれた。

 彼の短剣が横薙ぎに振られ、グレイスはすんでのところで身を反らし、それを回避する。

 決して余裕がある風ではない。誰がどう見ても、この闘いはグレイスに不利であった。

 丸腰という最悪の条件に加え、ウェインには若さという、グレイスが失って久しい武器がある。次々と攻撃を繰り出すウェインに比べ、グレイスは当然の事ながら、防戦一方を余儀なくされた。

 今まで理性を武器に生きてきたグレイスにとって、これほどやり辛い相手もない。一切の思考を止めた青年に対して、今のグレイスは無力と呼ぶにも等しいだろう。

「やめてよッ! お願い、ウェインッ!」

 喉を枯らして繰り返される少年の悲痛な叫び。

 憐れな少年の頬には何本もの涙の線が流れ、乾いた跡になっている。

 何故、こんな風になってしまったのか。何故、この二人が闘わねばならないのか。

 突きつけるような状況の変化に戸惑うばかりで、少年には何も出来ない。分からない。

 それはすべてが夢の中の出来事のような、まるで現実味のない悲劇だった。

「やめて、父さんを虐めないでッ!」

 今も刻々と、少年の信じた世界は崩壊を続けている。

 かつての友に懇願する少年は、その場で大地に腕を付き、小さくうずくまった。

 ウェインの耳にその絶叫は届いているだろうか。いや、湧き上がる殺意に身を埋めた彼の耳には、もう何も聞こえていないのかも知れない。ウェインの一撃一撃はなおも勢いを増し、殺すべき相手へ振るわれている。その勢いを捌き切れず、やがてグレイスが手傷を負うのは時間の問題であった。

「……ぐッ!」

 身を走る鋭い痛みに、身を震わせるグレイス。

 ウェインの放った突きによって、その右肩の肉が深く裂かれていた。どろりとした血がグレイスの腕を伝い、ぽたぽたと地に落ちる。

「うわあああッ、父さん! 父さんッ!」

 少年が狂ったように泣き叫びながら、グレイスの元へ走ってくる。

(結局、私は──我が子を守る事すら出来ないのか)

 呪わしげにグレイスはその自虐的な言葉を飲み込んだ。そして目の前に立つ、あまりに変わり果てたウェインの双眸を見やる。

 だがとどめを刺されるかと覚悟したのも束の間、ウェインの視線が自分ではなく、自分へと駆け寄る少年に注がれている事を知り、改めて彼の顔から血の気が引いた。

 そう、ウェインの目的はグレイスではなく、なのだ。

 グレイスはあくまでそこに立ち塞がる障害、単なる壁にしか過ぎない。

「……来るんじゃないッ!」

 グレイスが鬼気迫る形相で少年を怒鳴りつける。

 少年はかつてないグレイスの表情に驚き、見えない壁にぶつかったように立ちすくんだ。だがその間にも灰色の大地を疾走する黒い影は、動きを止めた少年に肉薄する。

 ウェインが少年を捉える間合いまで迫るのに、わずか数瞬もない出来事だった。

 灰色の曇天を背に、躊躇いなく短剣を振り上げるウェイン。

「──ひィッ!」

「うおおおおおおッ!」

 しかし彼の剣が振り下ろされるよりもわずかに早く、身体ごと突っ込んできたグレイスの体当たりが青年の背を捕えた。背後から襲う強烈な衝撃に、もんどりうつ格好でウェインの身体が前方に転がってゆく。

 少年はがちがちと歯を鳴らし、大好きだった青年からの殺意に恐怖した。

「心配するな。父さんが、ついている」

 肩で荒い呼吸を吐きながら、何とか微笑みかけるグレイス。

 しかしその顔に生気はほとんど残されてはいなかった。いつも少年を安心させたあの笑顔も影を潜め、形ばかりの笑みがその土気色の顔には張り付いている。

 それはまさしく──死者の微笑みだ。

「いッ、嫌だッ! 父さんが死んじゃうなんて、嫌だよッ!」

 子供ながらグレイスの死期を見た少年が、泣きながらその胸元にしがみつく。

 グレイスはそんな少年を強引に引き剥がすと、再び彼をかばうようにその前へ立ちはだかった。

 もう身体には、いくばくの力も残されていないだろう。先程の全身全霊を込めた体当たりが、グレイスに許された最後の抵抗だった。

 その後、ゆっくりと時間をかけて立ち上がるウェインの影。力なく垂れた両腕が気味悪く揺れている。

 二人の殺し合いに言葉はない。語るべき言葉はとうに尽き、黒き夢に魅せられた殺意だけが泥のような肉体を駆り立てている。

 闘いの第二幕は無言のまま、ウェインからの突進によって開かれた。

 心臓を狙って突き出される切っ先を、またもグレイスは紙一重で回避するが、勢いに任せ突き進む若獅子ウェインは衰えを知らない。

 やはり戦況は、先程と何も変わらない。それどころか老兵の利き腕が使えなくなった今、それは徐々になぶり殺しの様相すら呈し始めてきた。

 反撃する事さえ叶わず、ただ死を引き伸ばすためだけに足掻き続けるグレイス。

 ただ一瞬でも少年と共に生きる時間が惜しいのか、グレイスは必死でその攻撃をかわし続けた。

「はッ……!」

 だが後退を続けるグレイスが、不意に大地に足を取られたのはその時だった。

 何とか体勢を立て直し、転倒する事は避けられたものの──すでにその太腿には、ウェインの短剣が深々と柄の部分まで突き刺さっていた。

 彼らの勝負は、決していた。

 自らの勝利を確信し、素早くその剣を引き抜く青年。

「父さああんッ! 嫌だよ、嫌だああぁッ!」

 グレイスの背後で泣き叫ぶ少年。激しい嗚咽の合間から漏れる切望の声。

 ジハドは満面の笑みを浮かべながら手を叩くと、腰からもう一本の剣をおもむろに引き抜き、何を思ったか、それを円の内側へと投げ入れた。がらんという音を立ててウェインの前に剣が転がる。

「条件は変更だ。餓鬼の目の前で、その男の首をはねてみろ」

 ジハドはさらにその舞台を演出すべく、勝者へと新たな武器を進呈した。

 信じられないといった風に顔を歪ませ、少年はウェインを哀願の眼差しで見上げるが、青年は無造作に短剣を投げ捨てて騎士の放った剣を拾い上げた。

 短剣よりも刃が長く、ずっしりと重みを携えたその剣を、幽鬼の如く、正眼の状態へ構えるウェイン。

 圧しかかる現実は、少年の刹那の希望すら敢然と打ち砕いた。

「父さんは……お前を……守れなかったようだな」

 その場に尻餅をつくグレイス。すでに立っている力さえ、彼にはないのだろう。

 あの狩りの日以来、ボロボロになっていた身体を休め、残された最期の時間を過ごすべく、彼は口を開く。

 その声はひどく落ち着いた、それでいて人生に疲れ果てたような──そんな無情の声だった。

「父さんを許してくれ。本当にすまない」

「嘘だッ! 父さんが死ぬわけないよッ! 絶対に、嘘だッッ!」

 少年はいやいやをするように大きく頭を振った。

 だが少年も理解していた。もうどうあっても、グレイスは助からないのだと。その死は逃れえぬ運命であり、いまこの瞬間は、その終着点なのだと。

 だが、それをおいそれと認めるわけにもいかない。それを認めてしまえば、すべてが終わってしまう。

 少年の生きた世界のすべてが、何もかもが消えてしまう──。

 そんな感じが、したから。

「結局……父さんは何一つ、お前に本当の事を教えてはやれなかったな。いつでも曖昧な言葉で取り繕い、この狂った世界から目を背けてばかりいた。だが……これがお前の現実なんだ」

「ひッ、うう……ッ!」

「これが本当の、世界の姿だ」

 少年は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も頷き、その言葉を受け入れた。

 そんな事はどうでも良かった。例えどんな世界に生きようとも、そこにグレイスの姿さえあったなら、少年は幸せだったのだから。それ以外の幸せを望む必要など、どこにもなかった。

 そこにグレイスさえいたならば。

「ただ、分かって欲しい。私はお前の笑顔が、何よりも大切だった。下らない世界の悲しみに晒される事なく、いつでも微笑んでいて欲しかった。人は優しさで強くなれると信じ、いつしか人の持つ想いが、この暗黒の時代さえ変えてくれると信じていた。お前には、そんな世界を見せてやりたかった」

 グレイスが少年を振り返る事はなかった。

 両手を後ろにつき、それに寄りかかるようにして少年に語りかけている。

 背中越しに聞こえるグレイスの声は遠く、まるで側にいるという実感がない。

 彼がいま見ているのは、少年と共に生きた過去なのだろう。どれほどの悲劇や困難に直面しても、そこには少年という希望があった。だから乗り越えられた。

 しかし世界はグレイスから、その最後の希望さえ摘み取らんとしている。

 淡々と語るグレイスの言葉に、明確なが滲んだ。

「だが──世界は、変わらない」

 静かな怒りと無念が込められたその声は、少年の胸に吸い込まれるように響いてくる。

 少年は涙で霞む瞳をグレイスに向けた。こみ上げる嗚咽に揺られて、視点もろくに定まらない。だが脳裏で思い描くグレイスの姿もまた、何故だか少年に背を向けたまま、決して振り返ろうとはしてくれなかった。グレイスの姿はひどく霞んでいて、まるで心の中からも消えゆかんとするような危うさに満ちている。

 グレイスの姿はすでにのものとして、急速に実世界からその輪郭を崩し始めていた。

「それどころか世界は、以前にも増して歪み──腐り始めた」

 剣を構えたウェインは、二人の最後の会話さえ許さず、一歩二歩と、確実に彼らへと歩み寄ってくる。

 グレイスはそんなウェインに顔を向けたまま、一体何を感じているのだろう。

 その声は急ぐでもなく、つかえるでもなく、ただ一定の調子で彼の口から漏れ出てくる。

「この優しさで、何が救えたのだろう」

 グレイスがどこまで話せるのか。

 少年はいっそ、この場で耳を塞いでしまいたい衝動にも駆られた。

 正直に言えば、グレイスの最期の言葉など、少年はただの一言だって聞きたくはなかった。

 しかしそれは許されない。それは誰よりもよく分かっている。

 いつも心穏やかに少年を導いてくれたグレイス、その最期の教えなのだ。

 まるで乾いた大地が水を吸うように、彼の言葉が少年の奥深くへ染みてゆく。

「……村の仲間たち、マスタッシュ、そしてウェイン。私の望んだ友愛で、誰か一人でも救えただろうか」

 空に低く垂れ込めた暗雲が、その時、微かに光ったような気がした。

 珍しい。雷鳴だろうか。一つ二つと、大地に黒い斑点が浮かび上がってくる。

「そして最愛の息子を、私は救えただろうか」

 やがてそれは無数の斑点となり、大地を濡らし、辺りの風景を変え始めた。

 白けた灰色から、黒ずんだ灰色へ、ざあっと世界の色が変わる。

 雨が降ったのだ。この死せる大地の上に、年に数度の雨が。

 彼らの運命を嘆いた空が、泣いているのだろうか。

 嗚咽を雷鳴に、それは悲しみ深く大地に降り注ぐ。

「――いいや。誰一人として救えなかった。優しさなんて感情は、むしろ必要ないのかもしれない。それを分からない人間は、それで傷つく事も悲しむ事もないのだから。その虚構に身を寄せた人々は、やがて直面する世界の冷酷さに絶望し、最後には自らの死さえ望むだろう」

 雨と涙で濡れた瞳を手で拭いながら、少年はただただ泣き続けた。

 振り返らぬ父親の背中を見つめ、何度もその名を呼び続けながら。

「お前が助けたあの野兎のように」

 グレイスの声に、一段と暗い陰りが差し込んでいた。

 何を思ったか、グレイスは狩りでの出来事を口にしているようだった。

 しかし彼の言うそれは、少年の知る事実とは少し内容が異なる。少年は野兎を逃がしこそすれ、殺してなどいない。

 けれど一方で少年の脳裏には、眩しいほど鮮明にの情景が甦っていた。

 無数の羽虫にたかられた、腐臭の漂う奇妙な肉塊。

 結局、あれは何だったのだろう。

 そして何故いま思い出す必要があったのだろう。

 ただ少年は見ていた。

 走り去る彼を追う、何者かの意思の存在を。

 天から迷い落ちたような雪が一つ、少年を追いかけていた。

 それは宙を舞う哀しげな白い綿埃りのようなもの。

 そしてだった。

「優しさと偽善は、どう違うのか」

 どくん、と少年の深い部分が震えた。

 不思議と涙が止まっていた。

「我が子に対する優しさもまた、あるいは都合のいい偽善なのか」

 ウェインはすでにグレイスの数歩手前まで歩み寄っていたが、グレイスはそれでもその口を閉ざそうとはしなかった。溢れ出る負の感情はグレイス、そして少年をも飲み込み、なお止まらない増幅を繰り返す。

 この世のすべてに絶望したような声で、グレイスが唸った。

「人間とは悲しいな──どれほど詭弁を弄しても所詮はみな同じだ。薄暗い路地の片隅で孤独と寒さに震え、自分と同じ境遇の仲間を見つけては口元を歪ませて喜ぶんだよ。偽善の手を隣人へ差し伸べながら、私とてその例外ではなかった」

 それこそが、これまでグレイスの溜め続けてきた負の産物なのだろうか。

 悲しみに打ちひしがれたその声はいま、確かに啼いていた。

 降りしきる雨の中、瞬きも、呼吸さえ忘れた少年。グレイスの最後の教えだけが、石碑に文字を穿つが如くその心へ刻まれてゆく。

 ウェインの足が止まった。

 すでにグレイスの首は剣の間合いに入っている。

 ウェインはゆっくりと剣を大上段へと振り上げた。

 一瞬の雷鳴が二人の黒い影を、少年の眼前に映し出す。

「力なき優しさで世界は変わらない」

 嘆きの雨は、いつしか豪雨となって大地に降り注いでいた。

 傷つき、失意の底へと沈む少年の心身を癒すように。

「力なき偽善で世界は変わらない」

 埃に塗れた少年の髪が、艶やかな漆黒へ色を変えた。

 血と泥に塗れた少年の肌は、透き通るような白い肌へと生まれ変わる。

 冷たい雨に身を任せるように、顔を天に向ける少年。

 新たなる世界、新たなる肉体の中で、新しいが胎動を始めていた。

「世界を変えるのは」

 グレイスの首が飛んだ。

「────────」

 少年の中で何かが、音を立てて崩れ去った気がした。

 赤い血飛沫が少年の眼前で吹き上がる。それは灼熱の溶岩ように。

 グレイスという男がいま、出来損ないの噴水へとその姿を変えていた。

 ごろんと大地の泥に塗れ、転がるグレイスの首。

 夢の中で見た、あの顔。少年はぱくぱくと何度か口を動かし、やがてはその行為すらもやめた。白と黒とに彩られた少年は、壊れた人形のように、微動だにせず虚空を見つめている。

 それは──もはや廃人と呼ばれるそれだった。

「ハーッハハハッ! 上出来だ、最高の見世物だッ!」

 ジハドが手を叩いて喜んでいる。

「もういいぞ、この女は役者に返してやる」

 そしてジハドは騎士に指示を飛ばすと、閉ざされた円の中にリィズまでの道を開いた。

 ハッと我に返り、剣を放り捨てて騎士の合間を駆けてゆくウェイン。

 彼の道は開かれたのだ。

 暗黒という名の滅びの道が。

「リ……リィズッ! やったぞッ!」

 寝たきりの少女の側へ駆け寄ると、ウェインはその場に跪いた。

 自らも泥だらけになりながら、半身を泥水に埋めた少女の身体を強く抱く。

 彼女の服は、ジハドの暴行でところどころに血が滲んでいる。痛々しい姿に目を細め、降りしきる雨の中、ウェインはそのまま口づけをした──。

 がした。

「リィズ……?」

 見ればウェインの身体も衣服も、すべてが赤く染め上げられている。

 異変に気付き、少女の身体の確認を急ぐウェイン。その原因はすぐに見つかった。

 少女の背中が見るも無残に、ばっくりと左右へ裂かれていた。まるでそのか細い身体を抉るように、華奢な背中に開けられた裂傷。それはあの時、ウェインがの背中を裂いたその何倍もの、致命傷とも呼べる大きさと深さだった。

 ウェインの脳裏に、先程まで手にしていた短剣が甦る。

 何者かの血のりがべっとりと付着した、ジハドに差し出されたあの短剣。

 果たしては、誰のものだったのだろう。

「────────────ッッ!!!」

 もはや声にもならない絶叫を上げるウェイン。

 これでもかといわんばかりに、悔しさ、虚しさ、悲しさがこみ上げてくる。

 もう何一つ信じられない。そんな思いを具現化した、それは悲しすぎる絶叫だった。

「……ェイン」

「リ、リィズ……ッ?」

 弱々しく瞳を開けた、骨と皮だけのような少女の手を取るウェイン。そしてその手を強く握り締める。

 このいたいけな少女は、悪戯にその身体を弄ばれ、子を奪われ、この冷たい雨の中、こうも無残に泥濘に打ち捨てられていたというのか。誰もいない孤独な死を、たった一人迎えようとしていたのか。

 ウェインはもはやその嗚咽を止める術を完全に失っていた。

「どうしてなんだッ! ……何故こんなッ!」

 やり切れない思いは彼の身体を震わせ、とめどもない涙をそこに流させる。

 だが無情の死は確実に、その少女の下へ訪れようとしていた。

 最後の力を振り絞り、リィズが擦れた声を喉から絞り出す。

「私……んで……たのに……」

「え……? な、なんだ、リィズッ! 言ってくれッ!」

 今まさに息を引き取ろうとする少女の声は、周囲の雨音にすら負けてしまう。

 ウェインはその身体に覆い被さるように、リィズの口元へ耳を寄せた。

 だが暗がりの世界で聞く最後の言葉は、ウェインにとって、そしてリィズにとっても、あまりに悲しいものだった。

「私、叫んでたのに、あなたには、聞こえなかった」

 そして少女は息を引き取った。

 襲い来る圧倒的な虚無感に、言葉が繋がらない。

「だ……だってリィ……ズ……俺は……」

 彼女はきっと伝えたかったのだろう。

 そんな殺し合いの果てに、何も得るものなどないのだという事を。

 狂気の世界へ身を染めるウェインを止めようと、彼女は命さえ削り、必死に叫んでいたに違いない。だがそんな愛する人の言葉すらも、自分は聞き取る事が出来なかったというのか。

「な、なら俺は……一体……何を……」

 ウェインは自分自身に尋ねるように、そう呟いた。

 これでは一体何のために闘っていたのか、分からないではないか。

 何のために、グレイスという男を自らの手にかけたのだ。

 何のために、エクセリアの犬へと成り下がったのだ。

 何のために──!

「馬鹿な男だ」

 ウェインの背中に、鉄の槍が突き刺さった。

 それは少女の亡骸をも貫通し、ぬかるんだ泥に墓標となって天を指す。

 そしてウェインの意識もまた、一筋の光すら射さぬ深い闇の底へと堕ちていった。抱えきれない程の悲しみと虚しさ、そして答えのない永遠の問いと共に。

 ただ家族という安らぎを求め、自らの命と引き換えに、彼が最期に手にしたもの。

 それは傷ついた少女の骸と串刺しになるという、壮絶な死に様だけであった。

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