第一四話 運命の導きへ
「──まったく、忌々しい雨だ」
ジハドは不浄渦巻く空に呪いの言葉を呟くと、地面に唾を吐き捨てた。
一度振り出した雨は止む事を知らず、すでに全身がびしょ濡れだ。加えて身体の節々はだるく、軋むような痛みが絶えず神経を刺激している。
彼とて無傷でいるわけではなかった。
最初に受けた奇襲で左腕を痛め、その腫れはいまだ引かない。あの怪力男の一撃で落馬した際に、身体もあちこち打ったのだろう。重い甲冑が仇になった。
それに人質として捕われていた時に受けた、背中の傷。
この傷は、思いのほか深い。
(代償は高くついたようだな、ギルディア人)
凍てつくような視線で、串刺しになったギルディアの青年へ目をやるジハド。
肉の裂ける、槍を突き刺したあの時の感触はまだその手の中に残っている。
槍を突き立てられ、びくびくと馬鹿のように身体を痙攣させて死んだあの男。あのギルディア人は、果たしてどんな思いで己が死に様を迎えたのだろう。
無様な男だった。いま思い返して見ても、その愚かしさには腹を抱えて笑い転げたくなる。彼らの最期の会話を思い返しながら、くつくつと喉を鳴らすジハド。
彼の機嫌は、それでいくらか回復したようだった。
「ジハド隊長、聖戦の方もあらかた終了した模様です」
報告に来た騎士がジハドの元へ駆け寄り、敬礼と共にそう告げる。
大地の土が赤く染め上がるほど、そこは何十もの死体が転がる凄惨な屠殺場と化していた。
山積みにされたギルディア人の亡骸。
それはさっそくこの地に巣食う、たくましき野鳥どもの餌食となっている。
「当初の予定は大幅に狂ってしまいましたが……」
その騎士が気まずそうにジハドを見る。
確かに予定では、ギルディア人の奴隷を確保する目的でこの辺境までやって来た。いよいよ建造に向けて動き出した、エクセリアの大陸間水門計画のためだ。
ギルディアとの国境付近に建てられる、巨壁の要塞〈ザボー〉。
これによりエクセリアは、長年の悲願であった大陸における魔族根絶の最後の足掛かりを得ると同時に、神々に祝福されし土地と不浄の土地とを分断、管理する事が出来るようになる。それはつまり不要な人種を不要な大地へと押し込み、大国の更なる繁栄を告げる、ある種の水門のような存在だった。
その水門に隔たれし者は、二度とエクセリアの土地を穢す事を許されない。ザボーの完成をもってギルディア人は、この大陸から完全に消滅する事になる。
しかしながら──だ。
三十名いた騎士団の半数に死傷者を出し、その労働力となるべき奴隷は全員殺してしまった。これからどうすればいいのか、隊の面子が困惑するのも当然の話である。騎士はバツが悪そうに聖戦の惨状へ目を向けながら、ジハドの返答を待つしかなかった。
「分かっている! いちいち口にするな、この愚図がッ!」
「ハッ! 申し訳ございません……!」
案の定、彼はジハドの機嫌を損ねてしまったらしい。騎士はジハドに一礼し、逃げるようにその場を去っていった。
雨足はますます強くなる一方だ。そして隊の負傷者、自身の怪我の事もある。
これ以上の奴隷捜索は、どう考えても困難であると思われた。
「……仕方あるまい」
ジハドは舌打ちすると、隊の面々を集め、叫んだ。
「出発の準備を整えろ! もうこんな土地に用はない!」
その声と同時に、騎士たちが剣で突かれたような機敏さで行動を開始した。
彼らはジハドの性格をよく知っているのだろう。もし彼の機嫌を損ねるような事があれば、彼の配下とて容赦はない。自身の身を守るため、騎士たちは瞬く間にその準備を終えた。ほどなくしてジハドの元には、一頭の栗毛の馬が運ばれてくる。
「……あの、隊長。この薄気味の悪い餓鬼はどうしましょう」
すると、用意された馬に飛び乗ろうとするジハドの下へ一人の騎士がやって来たのはその時だった。騎士の傍らには、落ち着きなく体を揺らし、意味の分からない言葉を発する一人の少年が佇んでいる。
「フン? コイツか」
手綱から手を離し、少年に向き直るジハド。底意地の悪い笑みを浮かべながら、ぐいと身を寄せて少年の顔を覗き込む。
恐怖に身を震わせる少年の反応を期待したのだろう。
だが身体を震わせたのはジハドの方だった。
「ヒッ……! 誰だこの餓鬼はッ!」
無論それはジハドの知るあの少年に間違いない。
しかし変わり果てたその姿は、彼の認識を戸惑わせるに十分なものがあった。
閉まる事のない口とひび割れた唇、血の気を感じさせないほどに青白い肌。ぴったりと額に張り付いた黒髪から覗く瞳はてらてらとした雨に濡れ、水辺に覗く魚眼のような気味の悪さを湛えている。
瞬きもせず、穴を穿ったような深みから覗く巨大な黒目。
それはいま、ぴったりとジハドに向けられていた。
まるでその姿を脳裏に刻み込もうとでもするように。
次第にジハドの顔色が恐怖から憤りへと変化しても、少年はその態度を改めようとはしなかった。いやすでに少年にはそんな意識さえないのだろう。
次の瞬間、少年の頬にはジハドの鉄拳が飛んでいた。
「気でも触れたつもりか、貴様ァ!」
少年は軽々と吹き飛ばされ、脱力したまま泥の上を転がった。
ぴくりとも動かないところを見れば、顎の骨が砕けて失神したか、それとも首を折って死んだか。ジハドは容態を確かめるべく悠々と少年に歩み寄るが、しかしあと数歩を残して彼の足は止まった。
少年は──まだ見ていた。
あの光なき瞳で。一人の男の顔だけを。
ジハドの顔が恐怖に引きつった。
「き、気色の悪い餓鬼めッ……!」
そのまま、数歩後退る。
異様な少年だった。とてもジハドの知るあの気弱な少年とは思えない。
ぶくぶくと泥を泡立たせるのは、彼の発する呪いの言葉だろうか。半ば地面に突っ伏した少年の口元から、言葉らしきものが断続的に漏れている。
文章ではない。それよりもずっと単調な響き。
よくよく聞いてみれば、それが「ジハド」と繰り返しているようにも思えて、心の芯がぞくりと震える。
それはこの場に広がるどんな光景よりもおぞましく、ジハドの身を凍りつかせた。
「き、き──貴様……ッ!」
眉間に深い皺を刻み、怒りに歯を剥くジハド。
「ど、どうしましょう。奴隷として連行しますか?」
「ふざけるなッ! こんな胸糞悪い餓鬼など、この場で殺してくれる!」
ジハドは騎士の提案を棄却し、腰の剣を勢い良く抜剣した。そして狂気に猛る表情で、横たわった少年の頭上に立つ。彼は少年に向かって唾を吐き出すと、次にその顔を思いきり蹴り上げた。
「皮肉なもんだなッ! 何も知らん餓鬼だけが生き残ったか、ええッ?」
歯が何本か折れたのか、少年の口からどろっとした血が溢れた。
だがジハドの暴行はそれで終わらない。顔や身体を交互に蹴り飛ばし、されるがままの少年を芋虫を転がすように踊らせる。鼻から下を真っ赤な鮮血で染めた少年は、やがて痙攣し、その呼吸さえ止めたようだった。
いよいよ、死んだか──。
乱れた髪と、血と泥。少年の頭部は、いまや肌の色さえ確認出来ない。
ジハドは大きく肩で息をすると、無残な少年を見下し、勝ち誇ったかのように口を開いた。
「お前は、エクセリアと呼ばれる大国を知っているか──?」
返答はない。当たり前だ。生死も定かではない少年に向かって話すジハドの姿はどこか滑稽でもあったが、それでも彼は構わず先を続けた。
「いいや、無知も極まるお前の事だ。知らんだろうな」
嘲笑と共に肩をすくめ、そう結論づける。
それから彼は腕を肩の高さで広げると、弁士さながらに口を開いた。
「女神の祝福を受けし大国、エクセリア。西の平原に広がる土地には豊富な作物が実り、外海に繋がる貿易港には他国からの交易品が昼夜を問わず運ばれてくる。南東の大森林は原始の姿のまま都を彩り、天の紺碧を映す内海は凪ぎ、荒れる事を知らない。何もかもが完成され、実るべくして実った千年の栄光──」
彼は宙を見上げながら、その光景を脳裏に思い浮かべた。
活気で賑わう王都、荘厳たる城のたたずまい、そして城下に暮らす華やかな人々の営み。まるで繁栄という言葉を絵にしたような光景が彼の中に描かれる。
「──それが世界の中心、エクセリアだ」
己の言葉に満足するジハド。そして動かぬ少年へ目を落とし、
「それに比べて、ここはどうだッ!」
身体を蹴り上げ、叫んだ。
「空気は淀み、天は垂れ、大地には名無し草の一つも生えてやしない。このバリスティック大陸の掃き溜め、それがここ呪わしき大地ギルディアだッ!」
徐々にその行為、言葉に元来の自我と力強さが漲ってゆく。
「魔族どもと半ば共生する、堕落した人間ッ! それが貴様らギルディア人だ。人間としての尊厳も忘れ、獣にも劣る卑しい生に執着する。そんなギルディアの豚どもを粛清する神意、それが我らの聖戦だッ!」
己の正義を誇示するかのように、力説する彼。
拳を握り締め、語気を強める。
「恥じよ、愚民ども! 己の生をッ!」
ジハドは大きく足を持ち上げると、その小さな頭を全身の力で踏みつけた。大量の雨でぬかるむ大地に、少年の顔のほとんどがめり込んでゆく。
そのすべてを穢れた大地へ埋没させるべく、全体重を乗せてゆくジハド。
沈む少年の横顔に、ジハドが勝者の笑みを浮かべて息を呑んだ。
「ハ……ゥッ──」
反射的に足を退けるジハド。
少年はまだ見ていた。
血走った瞳だけは見開かれたまま、ずっとジハドだけを見つめていた。
何も語らず、何の抵抗も見せず、ただ草木の間から覗くように彼の瞳だけを。
もはや理屈などはない。
ジハドは本能的に、この少年に恐怖を感じていた。
「し、しッ、死に損ないがッ……! 縄を持ってこいッ!」
急激に高まる胸の鼓動を感じながら、ジハドは怒気に任せて叫んでいた。
剣を投げ出し、少年の髪を引っ掴んで無理やりその場に引きずり起こす。騎士から麻縄を受け取った彼は、少年の首へ輪を通し、力の限りそれを締め上げた。
「上等だッ! 気狂いとはいえ、ただでは殺さんぞッ!」
そして縄の片方を握ったまま馬に飛び乗る。
「行くぞッ! 出発だ!」
彼方まで響く長い嘶きと共に、はあと馬の腹を蹴る。
ジハドの馬は全速で走り出した。ほかの騎士たちも遅れを取らぬよう、それぞれに馬を急加速させる。それに一拍遅れて、地面に垂らした縄がぴんと張り、座り込んだ少年の首が千切れ飛ぶ勢いで横にしなった。
「ハッハハハハ! まだ首が繋がっているとは運がいい!」
縄を引くジハドが、さらに馬の速度を上げる。
「だがこのままエクセリアまで、その小枝のような首がもっていられるかッ?」
闇雲に引きずられる凧のように、猛烈な勢いで少年の身体が地面の上を跳ねる。
しかし──いまなお振り止む気配を見せない雨。少年の身体は左右に泥の波を作りながら、自らも泥の海をゆく。もしこの雨で地面がぬかるんでいなければ、少年の四肢はあっという間に荒野の土の上で擦り下ろされていただろう。
馬の負荷に耐えた首もそうだが、何の因果か、この地に降り注いだ悲しみの雨。
少年の命は偶然の上に偶然が重なるような確率でもって、今もそこに繋ぎ止められている。
あるいは運命の意思が、彼に生きろと告げているのか。
「ハアッ! その前に窒息するかッ?」
だがジハドの言葉の通り、急激な負荷や地面との摩擦は避けられたものの、今度は呼吸という第三の問題が少年を襲った。容赦なく圧力を増すその麻縄は、いまや大人の握力さえ遥かに超えている。せめて縄と首の間に指の一本でも挟んでいればいくらでも違うのだろうが、少年は脱力したまま、抵抗する素振りさえ見せない。
青白い顔が徐々に鬱血し、どす黒い紫色へと変化する。
内部から顔中を圧迫されるかのような、激しい膨張感。脳に溜まる血液が行き場をなくし、少年に残された最後の意識が闇の中に溶けてゆく。
「な──なん……ッ?」
だが再び少年の偶然はその力を垣間見せた。
突然体勢を大きく崩して前方へつんのめるジハド。あわや全速力で走る馬から落馬するところだったが、何とかそれだけは耐えられた。
しかしふと手元の感触を確かめてみれば、暴れまわる縄だけを残し、少年の重みが消えている。
「ッチィ! 役に立たん縄め!」
縄が負荷に耐え切れなかったのか、それとも単なる摩耗のためか。
忌々しげに切れた縄を投げ捨て、歯噛みするジハド。すでに少年の姿は遥か後方でわずかに確認出来るほどになっていた。
(……どちらにしろ、あの餓鬼に生き残る術はない、か)
忌々しげに唇を噛み、自らをそう納得させるジハド。
直接とどめを刺せない未練は後ろ髪を引っ張るが、結局は同じ事だ。あの少年は遠からず荒野で死ぬだろう。それにジハド自身も疲労の色が濃く、この土砂降りの中をわざわざ引き返す気にもなれない。
「──凶運。まさに凶運だな」
ジハドは皮肉たっぷりにそう呟き、それきり少年を振り返る事はなかった。
傷ついた身体を大地に横たえまま、取り残された少年。
千切れた縄によって、何とかその一命を取りとめる事は出来た。
しかしなおも過酷な現実は、着実に少年の下へと忍び寄って来ている。
何故ジハドたちが少年を置いたまま去っていったのか――彼らは、夜の到来を恐れたのだ。貧弱な装備のままこの土地の夜を迎える事は、エクセリアの騎士にとっても危険極まる行為に他ならない。
ましてこの少年にいたっては、装備はおろか、正常な意識すらすでにない。挙句、その傷ついた身体で満足に歩けるのかどうかさえも危ういのだ。こんな状態では、この土地に巣食う魔物、ひいては野生動物から身を守る事など不可能だろう。
昼が人の生活を支える基盤ならば、夜は魔物たちの恰好の狩猟時である。さあ食ってくれと言わんばかりの獲物を、彼らがそうそうに見逃すとは思えない。
もはや少年を守る、唯一の武器。
それはすべてを失った少年が、最後に手にしたその凶運だけだろう。
村を焼き払われ、父を殺され、それらすべてを奪っても、なお生きろと彼の運命は告げている。
生きる事。
少年はふらふらと立ち上がると、重い足取りで、ゆっくりその場を歩き出した。
行くあてもなく──目的もなく。
ただ一人、暗い雨に濡れて。
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