第一五話 失われた心
──少年は歩いていた。
乾いた大地に吹きすさぶ風の中、少年は歩いていた。
あれから何度目の朝と、何度目の夜を迎えたのか。
奇跡的にも少年に、いまだ死という事象は訪れてはいなかった。
しかしそれはまだ訪れていないというだけの話であって、少年の危機的状況は改善する兆しさえ見せていない。いやむしろ、どこまでも悪化していると言うべきか、少年の身体はいま、限りなく死に近い状態にあった。
骨と皮だけになったその肉体は、朽ちた枝木のよう。水気を失った肌は砂のような粉を吹き、もはやそれは生涯を終えようとする老人のそれに近い。
死神は鎌を振り上げ、いまかいまかとその時を待っている。
死は、少年の目前にまで迫っていた。
「……は……は……」
その一歩を踏み出すごとに、ひどい労働を終えたような少年の息遣いが漏れる。
そもそも、何故歩くのか。何故、歩かなければならないのか。
いったい何の目的があって少年が行動しているのかは分からない。その首に当てられた死神の鎌から逃がれたいのか──いや、すでに少年にとって死とは恐れるべき事由でなくなっている感覚さえ受けた。その落ち窪んだ生気なき瞳は、誰よりも自らの死を受け入れている。
暗く沈殿した、闇色の瞳。
そこに生への希望、願い、執着などは微塵もない。
あるのは圧倒的な──ただ圧倒的なまでの生への絶望だけだ。
両足の爪は剥がれ、痣と擦り傷だらけのその身体。回復の力を失った肉体は傷つくばかりで、つい先程も転んだのだろう、その額には新しい傷が生まれ、かすかな血がその場所に滲んでいた。
黒い血だ。もう、生きながらに身体が腐り始めている。
ずるずる、ずるずると、亡者のように麻縄を引きずって歩く少年。絶えず震える両の手で抱えるのは、どこで拾ってきたのか、布に包まれた荷物が一つ。それが少年の唯一の旅支度だ。
そして苦しいだけのその旅路もまた──程なく終着点を迎える。
少年の足は、止まった。
「……こんな場所で」
ふと、近くで男の声がした。
落ち着いた、それでいて深い無情さを感じさせる男の声。
どことなくグレイスと似た感じの声だった。その声は少し驚いた声色で放たれ、同時にそれは少年に向けて放たれたものらしい。
「聖戦孤児か。酷い目に遭ったようだが」
男は三十代前半だろうか。白髪混じりの灰色の髪を風になびかせ、馬上から少年を見下ろしている。
その異様な少年の姿から、それまでの経緯を、少なからず察したのだろう。男の声には多分の同情が含まれていた。
だが、近寄ろうとはしない。
二人は距離を保ったまま、会話をするでもなく、互いに見つめ合い、沈黙した。
男は何を考えているのだろう。口を閉ざす男の表情からはもう、何の感情も読み取れない。
けれどこれもまた、数奇な運命が導き出した、一つの答えによるものか。
腹を空かせた獣ではなく、獲物を探す蛮族でもなく、何千何百という可能性の中、運命はこの二人を、この荒野のただ中に巡り合わせた。
偶然か、必然か──傷ついた少年とその男は、そうして出会った。
「こんな辺境の奥地でも、聖戦の傷跡が後を絶たない。嘆かわしい事だ」
長い沈黙の後、男は静かなため息と共にそう独り言を漏らした。
そしてぶるぶると鼻息を荒くする馬をたしなめ、少年へ一瞥をくれる。
「さらばだ、哀れな子よ。お前ほどの悲しき子を砂の数ほど見てきたが、それを救ってやる事は出来ん。今は自分の身を守る事だけで精一杯なのだ」
男の馬は歩き出していた。
「……こッ……ぁッ」
すると――少年が反応を見せた。
驚いた事に、何日も閉ざしていたままの口から言葉らしきものが漏れる。
だが何か喋ろうとしただけで少年の声帯は裂け、喉から少量の血と真っ黒な痰が飛び出した。
思わずむせ返り、何度もその場に血を吐き出す少年。まともな神経を持つ人間なら、とても正視出来るような光景ではない。
細まった目をさらに細め、その様子を凝視する男。
その表情は悲しみに満ちている。
「早く死ねるといい」
だが身を翻し、男がその場から立ち去ろうとしたその瞬間──。
男の目は、少年が胸に抱いたその何かへと注がれていた。
(あれは──)
もちろん、何の荷物なのかは分からない。
だが一方で、それに強い興味をそそられたのは事実だった。
聖戦に追われた子供が、ただ一つ胸に抱く荷物。それが何であるか、瞬間、思考を巡らせる。
(──食料か)
男は直感した。
長く荒野を旅してきた男の勘は、目聡くその匂いを嗅ぎつけていた。
同時に男は、自らの腹の具合も確かめる。もう何日も食料を口にしていない。皮袋の飲み水すら、とうに底をついている。男の視線は強い欲を帯びたまま、知らず少年に引き戻されていた。
正確には少年の持つ、とても大切そうなその荷物へと。
「それは……それは、何だ?」
男はなるべく冷静に努めながらも、震える声で少年に語りかけていた。
そうだ。その姿を見る限り、三日やそこらではない。もう何日も荒野をさ迷い歩いている印象を受ける。
外的な危険なら運よく捕食者に出会わなければそれで済むが、食い物は違う。人間、飲まず食わずでは数日と歩けまい。その少年がここにいるためには、それだけの理由がいるのだ。
そう──いずれ死にゆく人間の食料なら。
「それは、食い物では、ないのか?」
男の問いに、少年は言葉を返さない。
言葉の意味が分からないのか、図星なのか。
だが聞くまでもない事だった。少年が何と言おうと、結局男はその荷物を奪い取るだろう。ならば自分で確かめた方が早い。焦れた男がそう判断しかけた時、果たして何がおかしかったのか、少年が弾かれたようにげらげらと嗤い出した。
げらげら、げらげら、げらげらげら。
真っ黒い口を開け、穴だらけの歯茎と数本の歯を覗かせながら、少年が嗤う。
何故嗤う──?
思わず男の背筋が凍った。
不意にこの少年に対して、掴み所のない恐怖を感じていた。
先程はその姿に憐れみさえ覚えたが、今はこの上ない不快感しか感じない。
不気味だった。これまで見てきたどんな聖戦孤児とも違う異様さ。
どうして助けを求めない?
今まで出会った聖戦孤児は、決まって助けを求めてきた。
なのにこの少年は、根本的に違う。
何故、嗤う。
「きッ、気でも触れたのか……? ならば、尚更の事だッ!」
壊れている。そんな比喩こそ相応しかった。
男は決まり悪そうにそう吐き捨てると、馬を降り、少年の手から強引に荷物を奪い取った。その勢いで少年は投げ飛ばされ、癇に障る笑い声も同時に止まる。
しかし自分の手からそれがなくなった事が分かると、少年はすぐに男の足元へ縋り寄ってきた。荷物を取り戻そうとしているらしい。異様な力で衣服の裾を引っ張るその様は、まさしく地獄の亡者さながらだった。
言葉にならぬ奇声を上げ、おぞましくも男の身体を這い上がって来ようとする。
男はそんな少年を足蹴にすると、問答無用に背を向けた。
この期に及んで、気狂いに構っている暇などない。
「悪く思うなよ。今は他者を蹴落とさなければ、己が生きてゆけぬ時代なのだッ」
言いながら、自分でも異常な行動を取っている、そう思えた。
こんな事は、許されるような事ではない。聖戦で何もかも失った子供から、今度はその最後の糧すら奪おうとしているのだ。鬼畜にも劣る所業に反吐が出る。
だが──生への執着と、死への恐怖。
その一心のみが男の心を凍てつかせ、正常な心理を奪ってゆく。
いや、この土地で正常な心理でおれる人間の方が、よほど珍しい。
「……うあん! うァんッ!」
気の触れた少年はなおも男の足元へ縋りつき、意味不明の言葉を叫んだ。
うあんとは何だ? 食い物の事か?
そんな推測もおざなりに、男は口元に歪んだ笑みを浮かべ、今日の糧を確信した。
何日かぶりに味わう食の味だ。例えどんなものだろうと、口の中から溢れ出るこの唾液を止める術はないだろう。そしてしつこく纏わりつく少年を引き離し、いよいよ食料を包む布を剥ぎ取ったその瞬間。
男の顔は、これ以上ないほどの恐怖に凍りついた。
「はッ、おおうッ!」
手に持ったそれをすぐさま投げ捨てる。
生首だった。腐乱した男の生首だ。
言葉にもし難い絶望の表情を浮かべ、壮絶な最期を遂げた男の生首。
瞬間、向かい合ったその表情は、生涯忘れもしないだろう。
今ではそれを掴んだ手さえ、指さえも、汚らわしく、呪わしく思える。
「……うあん。と……うあん」
途端、足元で何かが蠢く感覚を受けた。
見れば先程の少年がその生首を掴み、穴倉のような口を開けてそれを貪り食っている。
蛆の涌き腐乱したその死肉を、至福の表情を浮かべ、ほお張っているのだ。
男は、異臭漂う戦慄の光景に身動きすら出来ず、ただその場で立ち尽くす事しか出来なかった。そして自らの浅ましき行為を呪い、身を襲う耐え難い悪寒に震えた。
「く、喰っているのか……ッ」
そして、うあんの意味するところを知り、絶句する。
うあんではない。この子供は──親を喰っている。
男は、その光景に目を奪われずにはいれなかった。目を背ける事すらかなわない。
あれほど本能を掻き立てた食欲は、もはや見る影もなく消え失せていた。
愚劣な獣のように親の死肉を貪る、それ。
膝の震えは止まらず、今にも腰が砕けてしまいそうな嫌悪がそこにある。それは自らが生きた中で見た、最も愚劣でおぞましき罪の光景だった。
「や、やめろ。もう、もういい」
やがて男は、無意識にも少年の手を掴んでいた。
これ以上は見るに耐えなかった。口元を手で押さえ、その行為を止めさせる。
無心に眼窩をほじくる少年は、男からの制止にびくりと肩を震わせて振り向いた。あばらの浮き出た胸に生首を抱え込み、ぎょろりとした瞳で男を睨みつける。
またその宝物を盗られるとでも思ったのだろう。その目は敵意に満ちていた。
「すまなかった。もうお前のそれを……盗ろうとは、思わん」
果たして、言葉を理解しているのか、いないのか。
その少年の心は、それすら探らせないほどに荒んでいる。
「名前は、あるのか」
せめて意思疎通が出来るのかどうか、それを男は知りたかった。
いや知ったところでどうなるものでもないのだが、ここまで壊れた少年が、果たして男の言葉を受けつけるのかどうか、純粋に興味が湧いたのかもしれない。
少年を見守る男。するとひどい枯れ声を漏らしながら、少年の口が動いた。
まるで深い意識の底から、忘れかけたその名を探すように──。
「──クレ……クレイ……ゾール」
クレイゾール。
それが少年の名前だった。
「なんと、凶々しき名よ」
男は眉を潜め、正直な感想をそう述べる。
──悪魔の名。心からそう思えた。
その名を聞く者、あるいは口にする者、それら全てにあまねく災いをもたらす不浄の名。
しかし不思議とこの少年の名前としては、まるで違和感が感じられなかった。むしろこの名前は、この少年のためだけにある。そうとさえ思える。
ともかく、この少年がまだ言葉を理解し、思考する事がが出来るという事は分かった。
男は何度かその場で頷くと、長い長い沈黙の後──少年に声をかけた。
「エクセリアの連中を、殺したいか」
すぐに返事はない。こちらも十分な間があった。
けれど少年は、確かに告げた。
コロシタイと。
子供の声とも思えぬ呪わしげな声で。
「ならば、来るか」
男自身、何故こんな事を話しているのか、自分でも理解出来なかった。
自分一人が満足に食っていける保証さえどこにもないのだ。それどころか自分は、たった今もこの少年の大切な食料を奪おうとしたばかりでもある。
単身エクセリア相手に戦いを挑もうなどという気持ちも毛頭ない。そんな馬鹿げた妄想など、夢にも考えた事はない。
しかし──この少年を、このままにはしておけなかった。
一種の同情めいた感情に、つい口を滑らせたのだろうか?
いや、違う。それは決して同情などという言葉で言い表せるほど生易しいものではなかった。
あえて言うなら──魅せられたのだ、この少年に。
悪魔に魅入られたこの少年に、逆らう術なく、魂の奥底を惹かれた。
無言のまま、こくりと頷く少年。
男は少年を馬に乗せ、自らも鞍に飛び乗った。
瞬間、馬が嫌がるように身体をよじる。馬がそれを振り落とそうとしているように見えたのは気のせいだろうか。男は手綱を引き、強引に馬を静めると、静かに馬を走らせた。
「ガイスだ。殺し方くらいは教えてやろう」
如何なる因果か、数奇な巡り合いを果たした二人。
一人は旅の最中、呪わしき戦慄の光景に魂を魅了され。
一人は死路の最中、小さな胸に芽生えた、黒き殺意に魅了され。
その場には、無残にも食い散らかされた男の頭部だけが残されていた。
去り行く彼らの姿に、名もなき男の腐れ首は、一体何を思っただろう。
男は眼窩の闇にこの世の全てを呪いながら、二人の影を最後まで見守っていた。
神聖エクセリア歴、四七九年、七の月。
──それは一つの物語が動き出した瞬間だった。
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