壱章

第一話 命の躍動

 むせ返るような大気の濁り──嫌悪を覚える息苦しさ。目の前は霧がかかったように不鮮明で、まるで自分が雲の上に立っているかのような錯覚に視界が揺らぐ。

 いや、あながち連想だけの事ではないのかもしれない。

 あの空高くに渦巻く、黒々とした雲。

 太陽の恩恵を遮断し、世界からあらゆる色と命の育みを奪い続ける、あの忌まわしき暗雲。

 この土地の長き歴史の中で、いつ何時とてあの雲は世界の帳を覆っていた。人々の嘆きと憤りを諦めに変え、あまねく悲劇を見守ってきた雲。きっとその雲の上には、こんな光景でも広がっているのだろう。

 真っ黒に焼かれた、案山子のような人間の死骸。

 それぞれに生きた最後の瞬間を形に留め、彼らは生焼けた炭と化している。

 彼らから放たれる異臭が鼻腔を刺し、否応にも呼吸は鼻から口へと移行した。必要最低限に抑えられた呼吸はひどく静かで、胸板はわずかも膨らまない。

 家屋と思われる黒い痕跡は、いくつかの支柱を残してすべて焼失している。それは一見、山火事の後に見る針山のような景色を見る者に連想させるが、しかし焼け跡に残るこのは、それら自然のものとは明らかに趣を異にするものだ。

 焼け過ぎた村は告げている。

 聖戦の呼び声と共に、ここもに襲われたのだと。

 炎の中で、すべてが燃えた。

「……ルザルの村も襲われたか。これだけ大きな村が」

 煤けた褐色のローブを纏った男は、感情もなくそう呟いた。

 彼はこの村を知っていたのだろう。それがまだ村であった頃の村の事を。

 同じく褐色のフードから覗く、薄暗き灰色の瞳。男はそれらの面影を捜すように変わり果てた村へ視線を走らせたが、しかし徒労に終わるのは目に見えていた。

 そんな面影など、どこにもない。

 すべてが等しく灰に変わった。等しく出所の知れぬ炭へと。

 男は物憂げな瞳を一度閉じ、眉間に深い皺を寄せた。

 白髪交じりの灰色の髪。そして同色の、喉元まで伸びた顎鬚。

 灰に埋もれた死の村を、灰色の男が一望する。

「だが、死体が少ない。村の規模と数が合わんようだが」

 淡々とした声でもって、男は状況をそう分析した。

 転がっている人間の数がどうも少なく感じる。聖戦の動向を察し、村を捨てて逃げ出したか。それとも例の奴隷として連れ去られたか──しかし、今となってはどちらでも良い事だった。村が滅んだという事実にはいささかの変化もない。

「お前は左側を見て回れ。これだけの村だ、何かしら残されている」

 そして男は視線を落とし、もう一人の旅の連れへと目を送った。

 そこにはまだ六歳から七歳程度の、幼き少年の姿があった。

 まるで闇を垂らしたかのような漆黒の髪と、生気を感じさせないほどの青白い肌。それは絶対の黒と白という、対極の色を同士を併せ持つ不思議な少年だった。

 ──名を、クレイゾールと言う。

 もう三ヶ月も前だろうか。

 男は、この幼き連れを従えて旅をするようになった。

 何の因果か、聖戦にすべてを焼かれ、取り残された子供――聖戦孤児をその手に引き取るなど。

 男自身、まさか自分にそんな甲斐性があるとは夢にも思っていなかった。

「…………」

 了承の声はないが、一度だけこくりとうなずき、亡霊のように歩いてゆく少年。

 痩せ細ったその身体に纏うのは、厚手の貫頭衣が一枚のみで、それすら身に余る少年は、一体どこにその身体が収まっているのか不思議に思えるほど、すっぽりと布の中に埋もれていた。

 まるで頭だけが、丸まった布の上に載っているような不均等さ。しかし少年の身体は確かに実在し、少年が足を踏み出すたび、衣の切れ間から膝の節くれが覗く。

 何度見ても慣れない。

 男は思わず、そんな少年から目を逸らしていた。

 それはまさしく、骨だ。丸い皿の浮き出た白骨の膝。一体そのどこに肉がついているというのか──それがまだ生きて動いている事自体、気味悪く思えるほど、クレイゾールは虚弱な少年だった。

 言うなれば、生ける屍。

 自分はいま、悪霊か何かを連れて旅をしている。

 そうとも思える。

──悪魔の名か)

 クレイゾールとの奇妙な巡り合いの光景が、不意に男の脳裏へ甦った。

 忘れもしない──いや忘れようとしても決して忘れる事など出来ないだろう、その記憶。それは幾つもの悲劇を産み落としたこの大地で見た何よりもおぞましく、愚かしく、ひたすらに罪深い光景だった。

 子に顔面を食い散らかされた、男の生首。

 あの呪わしげな表情を、男は今でも忘れていない。

 一体どういう状況に追い込まれれば、人はあのような顔が出来るのか。

(……憐れな男だ。死してなお、この世界を呪うか)

 男はおもむろに首を振ると、すぐに記憶の蓋を閉じ、意識を現実に引き戻した。

 安易に思い起こすには業が深すぎるものだ。心が暗きへ引きずられる。

 けれど──だからこそ釈然としない思いはある。

 何故自分はその時の少年を連れ、こうも当てもない旅を続けているのかと。

 そう、それは確かに同情や哀れみ、ましてや甲斐性の問題ではない。いかに悲境の運命に翻弄された聖戦孤児とはいえ、それを拾うつもりなど男にはなかった。

 第一、そんな子供は見飽きるほどに見てきたし、エクセリアの聖戦が活発化した昨今、見慣れた感すらあったものだ。それは多少の同情を誘えはしても、別段もの珍しい光景ではなくなっていた。

 なのに──その時ばかりは違った。

 身を震わせるほどの光景に、足が止まった。惹き込まれずにはいられなかった。

 ただ一つ言える事は、その少年には圧倒的なまでの負の何かがあり、自分はそれに心の深くを魅入られたのだという事。見方を変えれば、もしかしたらこの自分こそが少年に誘われるまま旅をしているのではないか──時にはそんな疑問さえ頭をもたげてくるのだから、ぞっとしない想像に背筋が凍る。

(馬鹿な事を)

 男はすぐに頭を振った。

 迷走する意識を取り戻すかのように、男が自らの頬を両手で打つ。

 ただ、もはや認めるほかない事実も一つある。

 それはこの少年に対する──えも言われぬ恐怖心だ。

 それだけはこの数ヶ月、影のように付き纏い、一度として男のそばを忘れる事はなかった。まるで言い知れぬ何か、おぞましき不浄を連れ歩いているようで、時折その行為がそら恐ろしい事のように感じてならない時がある。

 自分は──

 この年端もいかない少年に対して?

(……こんな子供など、邪魔になればいつだって捨ててやればよい)

 心にそう吐き捨てるが、男の顔色はどれほども晴れなかった。そして姿の見えなくなったクレイゾールとは反対方向へ、自らも歩を進めてゆく。

 道中、足元に転がる黒いものを避ける労力さえ煩わしくなり、男は腹立ち紛れに構わずそれを踏み潰した。

 黒い炭は、いとも簡単に砕けた。

 だが生焼けた炭だけは、なかなか上手くは潰せなかった。


 


 時刻はすでに夕暮れへとその様相を変えていた。

 周囲に夜の気配が広がるにつれ、急速に世界が閉じてゆくのが分かる。

 もういくばくもしない内に、世界は完全な闇に没するだろう。今日という日が終わろうとしている。

 口に手綱を回された馬は、首を垂れ、焚火の傍で瞳だけを忙しなく動かしていた。ちょうどいまは晩飯時だ。自らの餌となる草を探しているらしい。

 だが、ただでさえ少ない野草の類も、この焼き払われた村では顕著だ。

 焦土と化した地面には草の芽一つ生えず、固い灰色の大地がどこまでも続いている。馬もやがてそれを悟ったのか、耳をぱたぱたと動かし、一度ぶるるっと鼻を鳴らした。

 気だるそうな馬の瞳に、さしたる落胆の色はない。

 空腹に慣れているのだろう。それは栗毛の、ひどく特徴のない馬だった。

 しかし世話にはなっている。この広大な土地を旅するのに、徒歩では労力の度合いがまるで違う。この馬がいてくれるおかげでその背に荷物を積み、各地の村々を回る事が出来るのだ。

 そして、日々の糧にありつく事も。

 男は上機嫌でその口を開いていた。

「見ろ、井戸から汲んできた水だ。まるで濁ってはおらん」

 笑みを浮かべた男は、そう言って桶一杯に汲んだ水を手で叩いて見せた。

 よく透き通った、いい水だった。焚火の灯りを反射して、それ自体が光を放つように輝いて見える。焚火を挟んだ向かい側では、ひび割れた唇を震わせながら、クレイゾールがごくりと喉を上下させている。

 しばし、様子を窺ってみる男。

 だが案の定だ。あちらからは何も言ってこない。

 男は諦めたように水筒の革袋を取り出すと、おもむろに中に水を浸し、それを少年の方へ放った。いや、投げ捨てたといった方が近いぞんざいさではあったが、ともかくはそちらへ放ってやる。

 そのまま待っていても、クレイゾールは何一つ言ってはこないだろう。ごくごくと喉ばかり鳴らし、薄気味も悪くそれを見ているだけだ。

「一気に飲むなよ。お前の事だ、腹を壊す」

 しかし男が言い終えるよりも早く、クレイゾールは水筒に飛びついていた。

 骨ばった指を根のように水筒へ巻きつけ、中の水を激しく飲み干してゆく。

 よほど喉が渇いていたのだろう。口の端からどれほど水が滴り落ちるのも構わずにクレイゾールは水を呷った。

「……げッ、ゥふうッ! ごほおッ!」

 そして弾かれたように咳き込んだ。

 乾き切ったその喉は、水すら満足に受けつけないらしい。

 クレイゾールはばりばりと胸元を掻き毟ると、結局すべての水と胃液をその場に吐き出した。背を丸め、口から糸を伸ばしながらぜえぜえと息を切らせている。

 その姿は滑稽というよりも、苛立ちさえ誘うほど、不快で愚かなものだった。

「馬鹿め、何故そう考えもなく動くのだ。我慢せんでも水くらい、言えばすぐにくれてやるものを」

 いまだ発作のような咳が治まらない少年に、男が呆れた風に舌打ちをする。

 ここには水が豊富にある。旅の最中なら持てる水も限られてくるが、井戸にある水を出し渋る理由はない。言えばすぐにくれてやるというその言葉に嘘はなかった。

 だが──何故くれと言わない? 何故、何も喋らない?

 知らず男の表情へ、憮然とした苛立ちが募ってゆく。

 そう、あの荒野で出会ってから、この少年はまともに口を利いた事がなかった。

 男を警戒しているのだろうか?

 何を尋ねても答えない。何か言いたくても、我慢している。

 少年から聞いた言葉といえば、彼の名前と、唯一その意思を示す「コロシタイ」という出会いの言葉だけ。それ以外にクレイゾールの口が開かれた事はなく、荒みきったその心はあらゆる感情を深く押し殺したままでいる。

 もともと、性格の暗い子供だったのだろうか。

 クレイゾールは驚くほど無口だ。

 確かに、その境遇は分かる。聖戦で住むべき家も親も、すべてを失くした孤児らが受ける傷は筆舌に尽くし難いものがあるだろう。ゆえに男自身、あそこまで堕ちたクレイゾールの心が回復するには、それなりの時間がかかるだろう事も察していた。

 しかし三ヶ月という時を経た今もなお、その心は改善されるどころか、その兆しさえ見せる気配がない。

 水を飲む時、何かを食らう時、クレイゾールは獣のようにそれを貪ろうとする。

 この少年の中に、果たして正常な思考と呼ぶものは残されているのだろうか。

 クレイゾールを見る男の目に、ある種の空しさが宿った。

(それとも、あの時、死ぬべき子供だったのか──)

 先の知れない愚かしさに、心が一抹の後悔に触れる。

 果たして自分は何を思い、この少年をそばに置いたのか──昼にも感じたその問いかけが脳裏をかすめた。

 自分はこの壊れた少年の生を、ただ悪戯に長引かせているだけではないのか?

 今更ながら、この三ヶ月間に及ぶ行為、それらすべてが無駄であったように思えてならない。しかしだとするなら自分は一体、この少年に何をというのだろう。憐れな聖戦孤児を、一人でも多く救ってやりたかった──?

 まさか。そんなお人好しがこの世界のどこにいる。

 そうではない。自分はただ、どれほどの気の迷いか、底知れぬ闇に心を覗かれただけだ。この少年に何を望んでいるわけでもないし、子供を引き連れて旅をする煩わしさを楽しいと思った事もない。

(そう、一人で旅をしていた頃は──)

 いつしか男の煤けた心へ、そろそろと影が忍び寄ってきていた。

 この三ヶ月、自分はそれなりに少年の世話を看てきてやったつもりだった。

 最初の一ヶ月などは、生きているのか死んでいるのかさえも分からない少年を、必死に介抱するだけの毎日だった。身体に開いた傷口、そのあちこちから吹き出す膿を丁寧に拭い、食事がない時には自分の分をくれてやった。

 時にはうろ覚えの薬学を駆り出して、野草の調合を試みたりもした。少年が寒さに凍えていれば、身に纏う衣類や毛布の一枚も用意した。考えられる事はすべてやってきた。自分でも不思議だったが、とにかく少年の身体の回復へと切に務めてきたつもりだった。

 それに時が経つに従い、そうした行為に微かな心の疼きを感じている事にも、男は気がついていた。

 少年の回復を願い、それがよい方向へと向かえば心は浮き、悪い方向へ向かえば気が焦った。少年の治癒力は極端に乏しく、こうして少年が歩ける程度にまで回復したのはつい最近になっての事だ。今に至るまでの道程は険しく、危険に満ちていて、まるで薄氷の上を歩くような毎日の連続だった。だからこそ、こうして回復したクレイゾールを見る事に、一定の充足感を感じていないと言えば嘘になる。

 それは確かに、男自身が願った結果だったはずだ。

 ゆえにそうした苛立ちと経緯を振り返るにつれ、男はいま、ようやくにも自らの本音と向き合えたような気がした。

(ああそうか──)

 自分はきっとこの少年と、、と。

 長きに渡る孤独な放浪。その苛酷さの中に、せめてもの気休めが欲しい。

 何でもいいのだ。悲劇ばかりを産み落とすこの無情の世界で、人間として生きられるわずかな時間が欲しい。

 死に絶えた村々を回り、食い扶持を漁るだけの生活にももう飽きた。自分はいま、ほかならぬエクセリアの聖戦によって生かされている。

 ギルディアに生きる者としては、何とも皮肉な話だ。それがなければきっと一月も生きてはいられないだろう。どの村も余所者に食料を分けてくれるほど豊かではあるまい。死した人々はともかくとして。

 ゆえに、生きた存在に触れたかった。

 自分はそれをこの親喰いの少年に求めている。

(──まさかな。本気とも思えんが)

 男は己の卑劣さに少し驚いたようだった。

 それが本心である事にも。

 そして一言だけでいい。男はただ、を呼んで欲しかった。

 もう何年も人に名前を呼ばれていない。物乞いにさえ劣る生活の中、自分が誰だか分からなくなってしまう前に、誰かにその名を呼んで欲しかった。その時に初めて自分はガイスという一人の人間なのだと実感出来るだろう。

 そしてその願いが強ければこそ、いまも壊れたままの少年に対し、自分は気持ちの捌け口すらも分からぬ苛立ちを日々募らせているのだ。

 ふつふつとした煮え切らない感情を、無口な少年に高ぶらせて。

(死にかけの聖戦孤児さえ、手前の慰み物として使うか)

 浅ましきばかりの己が性根に、ふっと失笑が漏れる。

 何とつまらぬ願いだろうか。

 もはや自分が誰であったとしてもいいではないか。ただ誰かの糧を食らい、廃墟を回り、また誰かの糧を食らう──その卑しき生活のどこに自己肯定の必要がある?

 何も感じる必要がない。それは愚劣な獣とも同様に。

 やがてガイスはぼやけていた目の焦点を引き戻し、鬱屈した思考を意識して切り替えた。

 そう、なにも急ぐ必要などないのだ。いずれは旅の中で何も感じなくなる。

 この無味乾燥な世界が心の起伏まで削り取ってゆく。

 自分はただその時を待ちながら、息を潜めて生きていればいい。

 ガイスは適当に調達してきた樽に水をあけ、興味もなくそれを馬へ放った。

 馬の餌らしきものは見つからなかったが、最悪、水だけ飲ませておけば何とかなるだろう。馬に対する特別な愛情はないが、自らが生きる上で、この馬は必要だ。失うわけにはいかない。

 目の前の焚き火には、焼け焦げて死んでいた家畜の肉を向けてある。

 恐らくは羊か何かだったのだろうが、元々焼けているものをさらに焼くとは妙な話だ。しかしいざ裂いて見れば中は生だったので、腐乱が進んでいる。そのまま食すわけにはいかない。

 面倒な事をするものだ、とガイスはぼんやり思った。

 だがこの収穫に不満はなかった。

 どれほど腐ろうとも、肉は肉だ。ギルディアでは家畜のある村など滅多になく、今夜はよほど良い晩飯にありつけたと言っていい。酸味に顔をしかめた腐敗の程度も、焼けさえすればどうにかなる。ぶすぶすと肉の焼ける香りが鼻腔を刺激する中、ガイスの口内は久しぶりの唾液に満たされていた。

 ──さあ、もういいだろうか?

 気付けば、先ほどまでの思考もすっかり忘れ去っていた。

 つくづく人間の悩みなど単純なもので、本能に基づいた欲求を前にした時、そんなものは理性と共に消し飛んでしまう。こうして肉を眺めているだけで、まったく自分がいかに下らない事に思いを巡らせていたかがよく分かる。

 肉、肉、肉――肉以上に大切なものなど、ないだろう。

 当たり前の事ではないか。

「そろそろいいぞ、クレイゾール。まともな食事は久しぶりだ。楽しんで食うがいい」

 ガイスは早口で少年に声をかけると、自らは待ちきれず、さっそく手近な肉に手を伸ばしていた。

 ふと意識を向けると、苦しげに咳き込んでいた声はもう聞こえなかった。さすがに落ち着いたらしい。ちらと視線を向けた先にクレイゾールの姿を探しながら、ガイスは呟く。

「腹痛が怖ければ──」

 ところが、クレイゾールの姿はどこにもなかった。

 一瞬、自分は誰に話しているのだろうと怪訝な表情を浮かべるガイス。

 用でも足しに離れたのだろうか。しかし対面の暗がりに目をやった瞬間、不意に自らのわき腹辺りで何者かが蠢く感覚を覚え、ガイスの心臓が凍りついた。

「────────!」

 シャン、という音が鳴った。鞘から、ガイスの剣が抜かれたのだ。

 青ざめた表情で愕然とその光景に目を奪われるガイス。

 目の前には、重たそうに剣を引き抜いたクレイゾールの姿があった。

 剣を正眼の位置に構えようと、体重を利用して大きく後ろに背を逸らせている。

 ごくりと、何か粘性のあるものがガイスの喉を下っていった。

「な……何をするつもりだ……」

 懸命に声を抑えながら、剣を寄越せと手を伸ばすガイス。しかしクレイゾールにはその声が届いていないのか、まるで意に介する様子がない。

 どうやら彼は、剣を大上段の姿勢へ振り構えたいらしい。骨のようなその腕にあらん限りの力を込め、少年が腕を震わせている。

 ガイスの鼓動は高鳴り、いつしか額には温度を感じない汗がびっしりと浮き出していた。

 相手が何を考えているのか分からないだけに、素直に恐ろしく、心が震えた。

 かつてどんな魔物に襲われた時も、これほどの恐怖を感じた事はなかっただろう。相手はけたたましくぎゃあぎゃあ喚くだけで、その場には殺るか殺られるかの読み合いしかなかった。しかしこの少年から発せられる空気は未知のそれで、危険なほどの静寂が辺りに満ちている。

 ──

 ガイスの身体は硬直し、もはや立ち上がる事さえままならなかった。

 だが非力なクレイゾールにとって、その剣はあまりに重過ぎた。

 必死で支えていた剣があえなく重心を逸れ、ゆらりと後ろへと傾いでゆく。

 ふっ、と緊張の糸が緩んだ。

 地面から腰を浮かす。動ける。

 しかしそう判断するよりも早く、ガイスの身体は地を跳ねていた。

 力の限りに拳を握り、石のようなそれをクレイゾールの頬へ叩きつける。

 いとも簡単にクレイゾールは剣を手放し、もんどりうって後方に吹き飛んだ。勢いをそのままに砂埃を上げて転がり、それきりぴくりとも動かなくなる。

「……お前は……!」

 ガイスは青ざめた顔のまま、暗がりの少年に向けて叫んでいた。

「お前はいま……その剣でッ! 一体何をするつもりだった……ッ! このガイスを殺すのかッ? お前を拾ってやったのはどこの誰だ、この愚か者め! なんと末恐ろしき子よッ!」

 そして肩を怒らせ、怒気を爆発させる。

 声の限りにクレイゾールを罵倒するが、それでも怒りは収まらなかった。

 なんと生々しき死の感覚だった事か。

 たった一瞬の間に、ひどく体力を消耗したようだった。

 鼻と口では足りない。全身の毛穴、それらすべての器官を動員しなければ、この興奮は到底収まりはしないだろう。

 クレイゾールは倒れたきり、起き上がる気配もない。

 その闇色の瞳だけは、夜の暗がりを見つめたまま横を向いている。

「まったく、信じられん! お前のような奴は死ぬべきだった! 狂ったまま、あの荒野で死ぬべきだったッ!」

 造作もなく剣を拾い、クレイゾールの元まで歩いてゆくガイス。

 無論、殺すのだ。いまここで殺さねばならない。でなければこの少年は、必ずや将来に我が身を滅ぼす呪いとなるだろう。

 やはり災いの子だ。

 正常な心理など、欠片も残されてはいなかった。

「頭の狂った餓鬼め、一体何が気に入らなかったッ! 死に損ないの面倒などを看てやったこのガイスの、一体何が気に入らなんだッ!」

 だが悔しいかな、人の情とは甚だ迷惑なものだ。

 たった数ヶ月、一方的にその寝食を共にした仲であれ、男の荒み切った荒野にもその種は芽吹くらしい。ガイスは悲しみに満ちた声でそう憤った。

 裏切られた。

 そんな言葉こそが彼の心境を表す、最も相応しい表現かも知れない。

 無論そんなものは、端から自分の思い込みだという事は分かっている。だがそれでも──いや、それだけに許せなかった。

 この狂った少年が、許せない。

 あれほど情を注いで介抱してやった、この少年の裏切りが。

「……ガイ、ス……」

「なんだッ!」

 そしてガイスの瞳は、大きく見開かれた。

 あれほど高ぶっていた気持ちの波が嘘のように鎮まってゆく。

 握った剣は重さに身を引かれるまま落下し、ずさりと乾いた音を立てた。

 ガイスの中の全神経と呼ぶものが、倒れたままの少年に注がれてゆく。

 この少年はいま、何と言った?

 自分の事を何と呼んだのだ──?

 繰り返すように、少年が再度、口にした。

 ガイスの名前を口にした。

 言葉を失ったガイスはただ驚愕に目を見開き、その場に立っている事しか出来なかった。

「剣……を……おし……」

 一つ一つ石を積み上げてゆくように、クレイゾールが言葉を綴った。

 見開かれたままの少年の黒い瞳には、底知れぬ茫漠だけが広がっている。

 少年は泣けぬのだろうか。その枯れた心は、彼の瞳に悲しみの色さえ滲ませない。

 それきり、少年は何も喋らなくなった。

 まるでその一言にすべての力を使い果たしてしまったかのように、ただ冷たい大地の上で薄い身体を横たえている。

 ガイスはよろよろと少年の傍らに膝を付くと、少年の行動を理解し、そして激しく声を叫んだ。

「馬鹿な……クレイゾール……! 何故……何故、言わんのだ……ッ!」

 そして強く肩を抱き寄せる。何故だか、不思議と瞼が熱く滲んだ。

 ああ、確かに言った記憶がある。と。

 この少年は旅をしながら、ただそれを待っていたのか。

 戦慄の中で告げた遠い約束を、ずっと待ち続けていたのか。

 あの日あの瞬間の殺意を胸に秘め、その幼き身を憎しみの炎に焼き焦がしながら。

 クレイゾールはこの三ヶ月間、一度としてその表情を変えなかった。

「……剣を、教えよう」

 ガイスは言った。

「ただし、話すがよい。お前のこの口で、ガイスと我が名を呼べ」

 人形のようにこくりとうなずく少年の口元から、一筋の赤い線が流れた。

 この薄っぺらな頬を殴った際、口の肉が裂けたのだろう。その血はとくとくと少年の口から溢れ、それがひどくガイスの心を動揺させた。恐る恐る腫れた頬に手を差し当て、真っ赤に染まった唇の血を拭う。

 まるで炎のように、その頬は熱かった。

「詫びよう。お前は、狂ってなどいない」

 この少年は生きている。いまを生き抜いている。

 この熱こそは、生きている者だけが発する生命の滾りだ。

 その黒き衝動が何であれ、今は問うまいとガイスは思った。少年はただ、生きているのだから。

 自らの腕の中で燃える火へ、静かに語りかけるガイス。

 その、弱くも逞しい命の躍動を感じ──不思議と涙が止まらなかった。

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